詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇457)Obra, Joaquín Llorens

2024-12-09 22:42:30 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens
Técnica ,Hierro
1.00x46x40
A.S.T

 Es voluptuosa. Tiene una sensación nostálgica que me hace querer tocarla. Entonces, de repente, recordé la última escena de "Sonezaki Shinju 曽根崎心中" (Un teatro de BUNRAKU). Un hombre intenta apuñalar a una mujer en el pecho para suicidarse. Sin embargo, al recordar en el momento en que se hacen el amor, la espada sigue alejándose del cuerpo de ella. Esta obra me acuerda del movimiento de ellos.
 ¿Por qué pienso así?
 Como he escrito muchas veces, las obras de Joaquín tienen un aire nostálgico. Aunque está hecho de hierro, tiene una suavidad que hace que parezca que se le dio forma solo con el poder de sus manos. Hay una fuerza dentro del hierro que lo obliga a tomar una determinada forma, y ​​Joaquín echa su mano a ese movimiento. La forma surge de forma natural. Y su forma irá cambiando gradualmente a partir de ahora. Tiene ese tipo de impresión "viva". Es voluptuosa porque está viva.

 艶っぽい。触りたくなるような懐かしさがある。そして、突然、私は「曽根崎心中」の最後の方のシーンを思い出した。心中するために、男が女の胸を刺そうとする。しかし、愛し合ったときのことを思い、刀が何度も体から逸れてしまう。そのときの二人の動きのようだ。
 なぜ、そんなことを思うのか。
 何度も書いてしまうが、ホアキンの作品には、手の懐かしさがある。鉄だけれど、手の力だけで形を生み出したようなやわらかさがある。鉄のなかに、ある形になろうとする力があって、その運動にホアキンは手を添えている。形は自然に生まれる。そして、その形は、これから少しずつ変わっていく。そういう「生きている」印象がある。生きているから、艶っぽいのである。

 

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やっぱり、脅迫か。

2024-12-09 17:07:22 | 考える日記
 Facebookのあるサイトで、私のコメントに対して「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と言ったビジターがいる。その発言を含め、そのビジターの発言に対し、私が意見を書くと、最初は反論があったが、突然「私のことば(ビジターのことば)を無断転写するのは著作権違反だ、削除しろ」というようなことを言ってきた。私は、ビジターのことばを引用するとき、出典を明記している。どうして著作権違反になりますか?というようなことを問いかけた。
 これに対して、こう書いている。
 
出典を明記しようが何だろうが、著作権者の僕がダメだと言ってるんだからダメです。そんなこともわからないの??
ならば削除の意思ないわけね?ならばすぐに強行手段に出ます。
…全く左翼はどこまでも人間のクズだわ。
 
 手元に「民法」の本がないので確認できないが、「引用するとき、著作権者の許諾を得ること」という条項はあったかなあ。よく覚えていない。また、インターネット上の対話(やりとり)は、「著作権上の著作物」なのかなあ。これも、よく覚えていない。
 それにしても、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」というような、私の人生を否定するような批判をインターネット上で書き、それを削除もしないまま、私の反論だけを削除しろと要求する。さらに、私のことを「左翼」と呼び、「人間のクズ」と断定している。これは、あまりにも乱暴な行為ではないだろうか。
 もし、こうしたことが許されるなら、インターネットの世界は、このビジターのような人間が横行する世界になるだろう。
 不思議なのは、実際に会ったこともない人間に対して、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかった」「左翼」「人間のクズ」と断定して躊躇わないビジターが、一方で「人生は喜びに溢れています。道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び」と書いている。このビジターの知っている「人生の喜び」とは何なのだろう。
 ビジターの言う「強行手段」が何を指しているのか。警察への告発か。訴訟か。プロバイダーに訴えて、私の投稿を削除することか、私のアカウントを停止させ、私の活動を強制的に封じることか。
 これは、とんでもない暴力だ。
 私はインターネット(facebookやブログ)をつかって、「仕事」を含め、いろいろな活動をしているので、つかえないととても困る。私からの連絡がとだえた、あるいは私の書いたものが削除されたりしたら、問題のビジター(名前は書きませんが、これまでの文章を読んでいるひとには想像できると思います)が「著作権」をたてに、私の活動を妨害したと判断してください。あらかじめお知らせしておきます。
コメント (2)
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表現の自由と著作権

2024-12-09 10:19:17 | 考える日記

 Facebookのあるサイトで、AIの登場と、労働、社会的人間の関係が話題になった。そのとき、私は「働く、というのは、人間関係の基本。働いているときは、あまり実感がなかったけれど、年金生活になって痛切に感じる。働くということは、ことばを使うのと同じ。ことばなしに考えることはできない。働かなくというのは、ことばを失うということに等しい」というようなことを書いた。
 私のコメントに、あるビジターが「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」とコメントを寄せてきた。私は、そのビジターの名前には見覚えがなかった。知り合いではない。接触したことはもちろんないし、知人をとおしてその人のことを聞いたこともない。私は、そのひとを知らない。だから、私は、そのひとは私のことを知らないだろうと考えた。何を根拠に、そのビジターは「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と言っているのか、わからなかった。もしそのビジターが私とは何の接触もないひとならば、なぜそんな批判をされなければならないのか、理由もわからなかった。(いまでも、わからない。)
 たしかに私は貧乏な家で生まれ育ったが、それだからといって「豊かではない」と見知らぬひとに、インターネット上で言われる必然性もない。だから、どうしてそういう批判をするのか、私の人生に対してなぜそう判断するのかを問いながら、同時に、そのビジターが書いていることに対する疑問も書いた。
 すると突然、「無断転載だ。著作権侵害だ。削除しろ」という要求をしてきた。
 だれが何を言うか(書くか)は、表現の自由の問題。そのビジターは、「表現の自由」の権利を行使して、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と批判している。このことに対して、私が質問すると(付随反論を含む)、私のコメントを引用するな。著作権侵害だ」と言う。
 この論理は、おかしくないか。
 そのビジターには「表現の自由」と「著作権保護」の権利がある。しかし、私には質問する、反論する「表現の自由」はない、ということにならないか。一方的に、自分の「表現の自由」を主張し、他人にその権利を認めないのは「独裁」というものではないのか。
 もし気に食わない意見(批評)に対して、それを封じるために「著作権侵害」を主張するのだとすれば、それは「表現の自由」への圧力をかけるというものだろう。だから「独裁」と私は言うのである。

 著作権についていえば、私は、他人の文章(ことば)を引用するときは、必ず「出典」を明記している。(今回の文章には、それを省略しているが、それはこの文章を読んでいるひとには自明のことであるからだ。何回か、書いてきた文章のつづきだからだ。)
 著作権法にも、たしか「引用」にあたっては、それが引用であることがわかるようにすべきであるという規定があったと思う。それは逆に言えば、引用であることを明記していれば、著作権法には違反しないということである。もちろん、ただ引用するだけでは、盗作・剽窃になる。引用に対する意見が必要である。引用は従、私の主張が主になるように書いている。これも法に従っている。

 著作権の問題に関しては、私は、かつて次のようなことを体験したことがある。
 ある掲示板(「表現の自由」に関することがテーマだった)の、あるグループから崇拝されているひとの意見について批判した。すると、そのグループのメンバーが「筵に巻いて、玄界灘に投げ込んでやる」とメールに書いてきた。これは、脅迫である。それ以外にも、会社の人事部に電話をかけてきて、私が書いてもいないことを、「こんなことを書いている」と主張し、処分を訴えた。電話については、私は記録を持っていないが、メールは私宛に来たので、持っている。そこでそのメール「筵に巻いて、玄界灘に投げ込んでやる」を公開し、表現の自由を標榜するひとが、表現を殺人によって封じようとしている。脅迫ではないか、と書いた。
 すると、なんと「メール(私信)を公開するのは著作権の侵害だ」と主張し始めた。
 「脅迫状」を公開するのは、私の自由を守るため。私は「証拠」もなしに批判しているわけではないと主張しているわけではないことを明らかにするためだ。

 私は、私の考えに対する批判は、どれもすべて受け止める。反論するときもあれば、しないときもある。求められても反論しないときもある。反論しない自由というものもある。すべてのひとと対話している時間がないからでもある。

 私は、あらためて書いておきたい。
 「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と書くとき、そのビジターは何を根拠に、そう批判しているのか。だいたい、だれかがだれかかの人生を「豊か」かどうか判断する権利を持っているか。「人生」が「豊か」かどうかを判断するのは、そのひとの権利である。その権利と自由を抜きにしては、「社会」は存在しない。それぞれが、それぞれの「豊かさ」を求めて生きる権利を持っている。

 

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