詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

働く、ということ(3)

2024-12-07 22:22:48 | 考える日記

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(この文章に登場する「ビジター」から、「コメントの引用は著作権の侵害である。削除しろ。プロバイダーやページ運営会社にも削除要請をしている」旨の発言がありました。
しかし、「ビジター」のコメントに反論を含めた意見を書くためには、引用は不可欠なものです。正確に引用しなければ、「コメントを改変された」と抗議がくるでしょう。
いったんコメント欄で対話をしておきながら、「コメントを引用するな」というのは明らかな矛盾であり、言論の暴力です。
コメントへの反論を拒むなら、最初からコメントをしなければいいだけのことです。プロバイダー、サイトの運営会社がどういう措置をとるのか見守りたいと思います。
なお、この「ビジター」は、私に対して「気狂い」「精神年齢が小学生レベル」「頭のおかしい左翼カルト」などの暴言を書き続けています。そのことを、お知らせしておきます。)

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働く、ということ(1)で書いた「あるビジター」から、Facebookに反論が届いた(同じ文章をFacebookに書いているため)。そこに書かれている批判について、答えておきたい。前回は省略した部分があるが、今回は省略なしで書いておく。途中、行空きや*マークがあるが、これは読みやすくするためのものであって、本文には存在しない。また、だれのことばなのかわかりやすくするために、文章の冒頭に(あるビジター)(谷内)の表記を付け加えた。

(あるビジター)>「濡れ落ち葉」以降は、私への批判ではない。しかし、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして>来なかったからですよ」は私への批判だと言っている
。(この部分は、谷内の文章の引用)
それはあなた自身が「働く、というのは、人間関係の基本ですね。働いているときは、あまり実感がなかったけれど、年金生活になって痛切に感じる」と書いてるからですよ。
これは「お金を受け取る仕事をやっている時は感じていた『人間関係の充実、生きがい』のようなものが、年金生活になってからは失われてしまった」…ということですよね?
そのことに対する僕の意見が「それはあなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」です。あなたが自分でそう言ったので、それに対してコメントしたのです。

(谷内)私は「お金を受け取る仕事をやっている時は」とは書いていない。単純に「働いているときは」と書いている。金は問題にしていない。金をもらう仕事なら、いまでも細々と仕事はしている。しかし、それは「働いている」という実感からは遠い。なぜかといえば、その仕事をとおして触れ合う人間が少ない。私の「仕事」が、その触れ合った人間をとおして、どこまで広がっていくものかわかりかねる。会社で働いていたときは、会社内でもひととの接触があったし、私が関係した「商品」がどういう形で社会のなかを動いていくか、その結果、何が起きるか(何が起きているか)は、かなりの強度で実感できた」という意味です。
 あるビジターは意見として「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と書いているけれど、私が会社の仕事以外にどんな活動をしてきたか知っているようなので、もっと具体的に指摘してほしい。私は、少なくとも、会社の仕事以外でもいろいろなひとと接し、いろいろな活動をしています。私の活動の、どの部分が、「人生を豊かにする」ことに反しているのですか? 具体的に教えてください。

(あるビジター)すると今度は「金がある、ないか、という問題と、仕事をする、しないかは、別問題でしょう。金が少なくても有意義に生きることはできる…云々」と、前の発言とはほとんど逆のことを言い出した。なので「???」となってしまった。発言ごとにスタンスが全く変わっているのです。前の発言では「お金を受け取る仕事があってこそ、人間関係や生きがいの充実がある。年金生活になってそれが薄れた」と読めるスタンスだったのに、次の発言では「金を受け取るか、受け取らないかの問題ではない」と言ってる。

(谷内)あるビジターが私の書いていることがわからなくなったのは、あるビジターが、私が「働いているときは」と書いているのに、その文章を「お金を受け取る仕事をやっている時は」と読み替えたからでしょう。「年金生活になって」というのは、「収入が減って」という意味ではなく、「働く機会が減って」という意味です。私は定期的ではないけれど、少しは仕事をして、ひととの関係を保っています。社会とのつながりを持っています。年金生活になったからといって、まったく仕事をしていないわけではありません。

(あるビジター)なので、僕としては谷内さんが結局何をいいたいのかよくわからなくなった。なので「???」となり、「報酬があろうがなかろうが、自分のしたいことをすればなんでも仕事だ、というなら、僕の言ってることと谷内さんの言ってることに最初から違いはないですよ。AIに仕事を奪われることを恐れる必要もありません」と書きました。

(谷内)私は、「報酬があろうがなかろうが、自分のしたいことをすればなんでも仕事だ」とも言っていません。「仕事」というのは、報酬の有無の問題ではない。それを言い換えて、「働くということは、ことばを使うのと同じ。ことばなしに考えることはできない。働かなくというのは、ことばを失うということに等しい。どんな働きをするかで、人間の幅が決まる。それを乗り越える手段にことばがあるにしても、基本の労働がなければ、ことばの土台を失う」と書いています。働かないことには、社会と私の関係を具体的に考え続けるのがむずかしい。私は働くということをとおして人間関係を築いてきた。社会がどうなっているかを考えてきた。社会がどうなっているかを考えるとき、私は、自分のしている仕事をとおして考えてきた、という意味です。もちろん仕事をしなくても考えることはできる。しかし、それは「空論」になってしまう。具体的に考えるには、仕事をとおしてでないと、「空論」になるというのが私の基本的な考えです。

(あるビジター)その後の付け加えられているコメントを読むと、結局「金がある、ないか、という問題と、仕事をする、しないかは、別問題でしょう。金が少なくても有意義に生きることはできる」の方があなたの本音なんですね?
ならば繰返しになりますが、僕との意見の相違は最初からないですよ。僕が言っているのは「AIによって人間が奴隷労働から解放されることは歓迎すべきこと。人間は『働いてお金を稼ぐ』こと以外で生きがいを見出せばいい」ということです。だからAIが発達するのは基本的に理想社会に近づくことだ、と思います。

(谷内)私はあるビジターのようには考えません。「金が少なくても有意義に生きることはできる」は、金が少なくても、仕事をしていれば(働いていれば)有意義に生きることはできる」という意味です。そして、このときの「有意義」とは、「意味がある」、つまり「具体的に考えることができる」(具体的に社会を考えるきっかけ(問題点)を仕事をとおして(働くことをとおして)つかみ取ることができるという意味です。ことばが具体的なものを土台にして動くように、人間の考えは、仕事をとおして具体的に動きます。「働く」というのは「奴隷労働」とは違います。また、「奴隷」にしろ、彼らは「考える」ことをしているでしょう。そして、その「考え」のなかには、奴隷として働かされているからこそ到達する「考え」もあるでしょう。たとえば、「奴隷として働かされるのは不本意である。私を奴隷としてこきつかうひとを許すことができない」などは、そういうものでしょう。「奴隷制度反対」というひとつの考えでも、奴隷として働かされたひとの考えと、奴隷として働かされたことのない人では、「意味の大きさ」が違うでしょう。
 「人間は『働いてお金を稼ぐ』こと以外で生きがいを見出せばいい」というあるビジターの意見のなかの「生きがい」とは何なのか。それが問題です。「道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び」とあるビジターは書くけれど、それは働いていても感じることができます。私はそう信じています。私の両親は、貧しい農夫だった。「働いてお金を稼ぐ」ことは、ほとんどできないまま、病気になるまで田畑で働き続け、日雇い労働もしていた。私は高校進学も諦めようかと思うくらいに、私の家は貧しかった。私の兄、姉はみんな中学を卒業すると就職した。そういう貧しいくらいだった。けれど、私は、両親が毎日懸命に働いていたからこそ、「道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び」を感じていたと信じている。山の畑で汗を拭きながら、「いい風だなあ」と言ったり、野良仕事の帰りに見かけた花を根っこから引き抜いて持ってきて軒下に植えたりした両親が「愛する人と生きる喜び」を知らなかったとは考えることができない。「いっしょに働いた。いっしょに休もう」と呼びかけるときの「喜び」を知らなかったと考えることはできない。一生懸命働いたから、疲れた、相手も疲れているに違いないと思い、声を掛け合うということを思いつかなかったとは、考えることはできない。

(あるビジター)僕の「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」と書いたたった1行の文章を拡大解釈して「金子は金の亡者」と言わんばかりの批判を展開されているが、全く的外れです。「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」と書いたのは、Hayaseさんやあなたがそういう趣旨の発言をしていた(AIによって仕事が奪われるのは脅威…云々)ので、それに合わせたまで。そうしたら今度は真逆の「金を受け取る、受け取らないの問題じゃない」といい出したのでわけがわからなくなった。


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(この文章に登場する「ビジター」から、「コメントの引用は著作権の侵害である。削除しろ。プロバイダーやページ運営会社にも削除要請をしている」旨の発言がありました。
しかし、「ビジター」のコメントに反論を含めた意見を書くためには、引用は不可欠なものです。正確に引用しなければ、「コメントを改変された」と抗議がくるでしょう。
いったんコメント欄で対話をしておきながら、「コメントを引用するな」というのは明らかな言論の暴力です。
コメントへの反論を拒むなら、最初からコメントをしなければいいだけのことです。
プロバイダー、サイトの運営会社がどういう措置をとるのか見守りたいと思います。
なお、この「ビジター」は、私に対して「気狂い」「精神年齢が小学生レベル」「頭のおかしい左翼カルト」などの暴言を書き続けています。そのことを、お知らせしておきます。)

(谷内)「AIによって仕事が奪われるのは脅威」というのは、金を稼ぐ機会を奪われる脅威という意味ではないでしょう。仕事を奪われるというのは、働くこと(労働すること)をとおして、社会とのつながり、ひととのつながりをもつ機会を奪われる、仕事をとおして考える機会を奪われるということです。そのことに対して私は脅威を感じているし、HAYASEさんも、そう書いていると私は読みました。
 また私はあるビジターのことを「金の亡者」とは書いてません。
 私が疑問に思うのは、あるビジターの仕事とボランティアの定義「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」は、はたしてボランティア活動をしているひとの考えと同じでしょうか。ボランティア活動をしているひとも「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」と考えているでしょうか。私には、とてもそんなふうには考えられない。彼らは、「この仕事は私にしかできない」という考えでボランティア活動をしているのではないでしょうか。自分で「仕事」をつくりだして、その「仕事」をとおして社会と、ひととつながりをつくっているのではないでしょうか。そうすることが「ひとになる」ことだと考えて行動しているのではないでしょうか。
 自分で「仕事」をつくりだし、それをとおして社会とつながりをつくっていけるひとを私は尊敬しています。

(あるビジター)お分かりいただけましたか?反論する前に、相手の言ってることをちゃんと理解しましょう。

(谷内)わかったのは、金子さんが私の文章を読むとき、あるいはHAYASEさんの文章を読んだとき、そこに「書かれていないことば」を金子さんが補って読んでいるということだけです。

 

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働く、ということ(2)

2024-12-07 14:29:41 | 考える日記

 AIが人間にかわって労働するとき、どんな影響が出るか。「働く」ということの問題には、どうしても個人的体験、個人的環境が影響してくるから、見落としてしまうことも多い。
 きのう書いた文章について知人と話していたとき、いま低賃金で働いている障害者らへの影響はどうなるか、ということが話題になった。私が働いていた職場、いまときどき働いている職場では障害者の同僚と接する機会がなかったので気づかなかったが、知人が指摘したように、AIロボットの進出によって真っ先に影響を受けるのは、彼らだろう。
 たとえばホテルのベッドメーキング、トイレの掃除、あるいはレストランなどでの給仕。(給仕のことは、すでにきのうファミリーレストランについて書いたときに触れた。)恵まれているとは言えない賃金で働いている人たちこそ、真っ先に「労働」を奪われるだろう。(ベッドメーキングやトイレ掃除のAIロボットは、いまの技術からすればすぐにでもつくることができるだろう。)そしてそれは、単に「賃金」を受け取ることができない(金を稼げない)ということを超える問題を含んでいる。
 障害者がさまざまな場所で働いているのは、金を稼ぐということだけではなく、「社会参加」という意味を持っている。働くことをとおして社会とつながる。そして、そういうひとたちの社会参加を促すためにもバリアフリーが推進されてきたはずだ。社会には、いろいろなひとがいる。様々なひとと共存できる社会が理想の社会であるはずだ。その「共存社会」の広がりを拒むもの、後退させるものとしてAIロボットは動き始めるかもしれない。
 いまでも政治家の一部には「生産性優先」と考えるひとがいる。AI導入も「生産性優先」(合理化優先)の一環かもしれない。それを推進するものかもしれない。労働(特に単純な肉体労働)からの解放は、一見、人間に自由な時間を与えるように見える。しかし、それは社会に参加し、ともに生きる機会を奪うことになるかもしれない。
 自分が生きているだけではなく、いっしょにいろいろなひとと生きているという感覚(意識)を奪うことになるかもしれない。そして、ここから「新しい差別」がはじまるかもしれない。「生産性向上」に関与できない人間は必要がない(邪魔だ)という意見が出てくるかもしれない。実際、いまでも何人かの政治家は、そういう発言をしている。それに拍車がかかるだろう。

 影響は、外国人にも及ぶだろう。いま多くのコンビニエンスストアでは外国人が働いている。レジが無人化すれば、彼らは仕事を失う。懸命に学んだ日本語を活用し、日本の社会で生きている彼らは、しだいしだいに日本の社会から締め出されていく。低賃金で雇い、AIの導入(AIとまでいかずとも、ネットワーク網の構築)で、そういうひとたちを解雇する。より「合理化」(生産性の向上)のための、「使い捨て」である。
 企業が(資本家が)、そうした「使い捨て」を押し進めるとき、その感覚は市民のあいだにも広がっていくだろう。
 一方で、多様な文化の共存といいながら、他方で多様性を切り捨てるような動きを推進する。それはAIロボットによってさらに推進されるだろう。

 何のために働くのか。もちろん金を稼ぎ、その金をもとに生活するためである。金がなければ何もできないのが現実である。しかし、それ以外に、働くことをとおして社会の仕組みを知る。いろいろなひとと出合い、いっしょに生きるためにはどうすべきかを考える。その視点が欠落しては、働いたことにならないのではないか。
 「働く」という行動を、「社会参加」という視点からとらえ直し続けることが大事だと思う。「社会参加」の可能性を、どうやって広げていくか。この視点を踏み外すと、とても生きにくい世界になると思う。

 

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