詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

米田憲三「冬の銀河」

2014-06-09 09:30:11 | 詩(雑誌・同人誌)
米田憲三「冬の銀河」(「原型富山」163 、2014年04月10日発行)

 米田憲三「冬の銀河」は、

星ひとつ流れしというわが追えど天涯淡々として鎮まる銀河

 という歌ではじまる連作。ちょっとわかりにくい。「星ひとつ流れしという」の「という」が弱々しくて「天涯」とか「銀河」という強い響きに正確に向き合っている感じがしない。
 おかしいなあ。
 何か気になるなあ。
 そう思いながら読み進むと、妹の長男(米田の甥)が職場で倒れ、そのまま帰らぬ人になった経緯が歌になってつづく。
 「星ひとつ流れし」というのは、その長男である。
 米田、妹、甥という登場人物の関係が「という」ということばのなかにも反映しているのかもしれない。肉親だけれど、一等親ではないので、完全に米田の肉体と向き合わない。米田には米田の肉体があり、そのことが甥よりも銀河そのものを身近にしているのかもしれない。
 連作中、妹、甥が出て来ない作品の方が緊迫感があるのは、米田の肉体と自然が直接向き合っているせいだろう。

通夜の場をぬけて帰るに狂い降る吹雪に巻かれ途失う

灯りなき夢幻の雪野を迷わせて卍巴に襲いかかる雪

 この2首は、雪そのものを感じさせる。それは米田の肉体を阻んでいるのだが、米田を阻むことで、米田そのものとなる。雪が米田の悲しみを襲っているというよりも、悲しみが雪になって米田を襲っている。この雪と向き合うことで、米田は悲しみをはっきりと向き合う--という感じだ。
 言いなおすと。
 「通夜の……」の「帰るに」「吹雪に」の「に」の繰り返しの中に、不思議な音の力がある。同じ音が別なものをひとつにする。「帰る」の主語は米田で、歌の意味はそこでいったん切れるのだが、意味を切らずに(?)、そのまま米田が「狂い/降る」という動詞を経て、吹雪「に」なってしまう。吹雪になって狂うしかない悲しみ、吹雪になって狂うことができればすくわれるのにといった感じの悲しみが見えてくる。「に」の音が同じであるために、意味が錯綜する。そして、その錯綜がそのまま米田「に」(この「に」は私が強引に付け加えたものだが)返ってきて、米田は「途(を)失う」。悲しみと「途失う」は、そのとき「同義」になる。
 そういう葛藤というか、混沌としたところをくぐりぬけたあと、米田は、甥と妹にもう一度出会う。
 吹雪に向き合ったあと、米田のこころは、ストーリー(甥が急病に倒れ、亡くなるという事実)から少しはみ出す。描写が「説明」ではなくなる。この変化が、私には、とてもおもしろく思えた。人間が動きだした、という感じがしたのである。

少年の君は夏陽に焼かれつつ屋上にトランペット吹きいし

長子逝かせ一気に老けし妹の髪白く姿も小さくなれる

 甥の思い出と、いまの妹の姿の描写だが、その描写の中に自然に米田自身の肉体がとけこんでいる。ストーリーを追うのではなく、ふたりを肉体ごとつつみこんでいる。
 そういう変化があって、最後の3首。これが美しい。

街を抜け一人ひとり降りてゆきてわれのみとなる寒き終バス

心ほそりて日々暮らしいむ汝のことまたも思えり如月の雪



誰が母神零しし乳か流れゆくそのはて知れず冬の銀河の

 特に「誰が……」では、米田は妹(母神)になって、長子への乳を零している。銀河(ミルキーウェイ)を客観的に描写しているのではなく、あれは息子を育てる母の乳だと、息子の母(妹)になって実感している。離れた場所から「母」を客観的に描写しているのではなく、「母」の主観として、歌が生まれてくる。

 連作だからこそ生まれた1首なのかもしれないが、連作を突き破って屹立する感じがするのは、この歌のなかで米田が完全に生まれ変わっているからだろう。
ロシナンテの耳―米田憲三歌集 (原型叢書)
米田 憲三
角川書店

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