中井久夫訳カヴァフィスを読む(79) 2014年06月09日(日曜日)
「アリストブゥロス」も歴史が題材。アリストブゥロスは権力争いの過程で溺殺された。その死をヘロデ王は悲しむ、国民全てが嘆く。もちろん母も。その母の描写。
第一太后が、その気品ある人間とは思われないことばを吐く。「地位」とは無関係に、母そのものに生まれ変わってことばを発する。ただことばを発するだけではなく、「音調が変わる」。ことばの「意味」は辞書にあるのではなく、いつでも「口調」にある。「肉体」を通ってくるときの「音」の違いのなかにある。
この「音調」の違いを中井久夫は「俗語(口語)」を駆使してあからさまにしている。「よくもコケにしたな。」という気品をかなぐり捨てたことばのスピード、なまなましさが、そのまま読者の「肉体」に響いてくる。
「よくもコケにしたな。」ということばを読むとき、読者は、そのことばの「意味」を考えない。意味を考える前に、そのことばが発せられたときの(そのことばを聞いたときの)、相手の顔を思い出す。「怒り」はことばでは説明できない。ことばでは説明できない「怒り」の煮えたぎる肉体、目の色、手足の動きが目に見える。
「ついにやりおった。」「どうしくさったか?」も同じだ。そのことばに「意味」はない。そのことばは「意味」ではなく「肉体」をもっている。「肉体」が動いている。破裂する音そのままに、「肉体」が破裂している。「声」が破裂して、荒れている。
そして人は、彼女の怒り、嘆きがどんなものであるか、その感情を自分のものとして理解することはないけれど、怒っているということだけははっきりと「わかる」。「肉体」が共感する。感情を描いているが、これはギリシャ悲劇のように、叙事詩だ。
最後の方のことばも強烈である。
第一太后は、そのとき「人民」の肉体を生きている。肉体の共感を求めている。この肉体は、ことばの「音調」からはじまっている。
「アリストブゥロス」も歴史が題材。アリストブゥロスは権力争いの過程で溺殺された。その死をヘロデ王は悲しむ、国民全てが嘆く。もちろん母も。その母の描写。
そのひとアレクサンドラは悲劇に嘆き、泣く。
だが人目がなくなる刹那に音調が変わる。
吠え、猛り、呪い、忘れるものかと誓う。
よくもコケにしたな。だましたな。
ついにやりおった。
アスモナエアス家を絶滅させた!
どうしおったか、あの王の漫画め。
陰謀、小細工、悪人め。
どうしくさったか?
よほどの筋書き、仕組んだか。
第一太后が、その気品ある人間とは思われないことばを吐く。「地位」とは無関係に、母そのものに生まれ変わってことばを発する。ただことばを発するだけではなく、「音調が変わる」。ことばの「意味」は辞書にあるのではなく、いつでも「口調」にある。「肉体」を通ってくるときの「音」の違いのなかにある。
この「音調」の違いを中井久夫は「俗語(口語)」を駆使してあからさまにしている。「よくもコケにしたな。」という気品をかなぐり捨てたことばのスピード、なまなましさが、そのまま読者の「肉体」に響いてくる。
「よくもコケにしたな。」ということばを読むとき、読者は、そのことばの「意味」を考えない。意味を考える前に、そのことばが発せられたときの(そのことばを聞いたときの)、相手の顔を思い出す。「怒り」はことばでは説明できない。ことばでは説明できない「怒り」の煮えたぎる肉体、目の色、手足の動きが目に見える。
「ついにやりおった。」「どうしくさったか?」も同じだ。そのことばに「意味」はない。そのことばは「意味」ではなく「肉体」をもっている。「肉体」が動いている。破裂する音そのままに、「肉体」が破裂している。「声」が破裂して、荒れている。
そして人は、彼女の怒り、嘆きがどんなものであるか、その感情を自分のものとして理解することはないけれど、怒っているということだけははっきりと「わかる」。「肉体」が共感する。感情を描いているが、これはギリシャ悲劇のように、叙事詩だ。
最後の方のことばも強烈である。
人民のところへ出て行って
ヘブライの民に叫びたい、
第一太后は、そのとき「人民」の肉体を生きている。肉体の共感を求めている。この肉体は、ことばの「音調」からはじまっている。