入沢康夫『歌--耐へる夜の』(1988年)。
「Ⅰ『賤しい血』およびその三つの変奏 1986-1987」には3ではなく、4篇の詩が収められている。なぜ「三つ」なのか。そして、これらの詩はどれもだれかに捧げられたものである。その最初の詩「賤しい血」は「--親愛なる二人のランバルディアン、粟津則雄、渋沢孝輔に」と二人の名前を掲げている。なぜ「三つ」なのか。これは、わからない。わからないことはわからないままにして、4篇の冒頭。
すべて荒々しい男たちの恋のあとの様子から始まっている。1篇ではおぼろげだったものが「変奏」されることで濃密になっていく。それはそれぞれのことばのなかでのことというより、4篇を読む読者の感覚のなかで、読者の肉体のなかで、濃密になっていく。
これまで「誤読」「誤書(偽書)」として見たきたものは、「変奏」という形でひとつになっているのだともいえる。「誤」が「誤」と出会い、「誤」を洗い流してゆくような感じである。
基本的に同じテーマを「ずらす」ことによって、「ずれ」が見えると同時に、逆に共通のものが見えてくる。「ずれ」(差異)が、「ずれ」(差異)のために存在するというよりも、共通のものを認識するために存在する。
ことば--それぞれの書き手。その個性。それは個性的であることによって存在するのはもちろんだが、同時にその個性は他の個性とぶつかるとき、個性そのものと同時にある共通のものを浮かび上がらせる。
この共通のものは、しかし、単独では取り出せないものである。そのことに入沢は気がついている。あるいは入沢は、そのことを誰よりも強く「発見」している。その単独では取り出せないもの、ことばの動きに潜んでいる力、ことばを動かすことで何かを見ようとする力--それが人間の力だと入沢は実感している。
ことばはことばと出会うとき、ある音が別の音と出会って「和音」をつくるように「和・意味」をつくる。その響きのなかに、「和」のなかに、人間の願いが存在する。祈りが存在する。夢が存在する。単独のことばのなかにもそういうものは存在するが「和」を響かせるときにもそういうものがあらわれる。単独では存在しなかったものが、たのことばの力を借りながら、単独では表現できなかったものを表現する。
入沢の音楽は「和・意味」としての音楽である。
それを明確にするために、入沢は次々に「変奏」を繰り返す。「誤読」として、「偽書」として。よりよいひとつの完成形を目指すというよりも、「和・意味」のうごめく言語空間、そこに書かれているのではなく、読者のなかで沸き上がる言語空間をめざしているのだといえる。
入沢の「詩」は入沢のことばのなかにはない。入沢のことばを読んだ読者のなかにある。ひとりの読者になるために、入沢は「変奏」という行為を繰り返す。「変奏」のなかでなら、入沢は筆者であり、同時に読者でいられるからだ。「変奏」は他者の「音」(ことば)を正確に聞きとることを出発点としている。正確に聞き取り、同時にそれとは違った音を(ことば)を提出することで、単独では存在しなかった豊かな「和・ことば」空間をつくりだすのである。
「Ⅰ『賤しい血』およびその三つの変奏 1986-1987」には3ではなく、4篇の詩が収められている。なぜ「三つ」なのか。そして、これらの詩はどれもだれかに捧げられたものである。その最初の詩「賤しい血」は「--親愛なる二人のランバルディアン、粟津則雄、渋沢孝輔に」と二人の名前を掲げている。なぜ「三つ」なのか。これは、わからない。わからないことはわからないままにして、4篇の冒頭。
賤しい血
--親愛なる二人のランバルディアン、粟津則雄、渋沢孝輔に
1
なべての有情の吐息を押流す大河のほとりで
ばらばらにされた四肢を 人目を忍んで
生木の枝のやうに藤蔓でたばねる
そして来いの焼棒杭を高々吊るす
*
悪胤
--安藤元雄に
夜のゴム引きの麻布の蔭で、砂や小砂利の粒が、間遠に打返す睡気
に逆ひながら、今こもごもに光を放つ。凸レンズを透してみると、
ありとある有情の吐息をひたすらに押流す大河のほとり、人足たち
は、一旦ばらばらに解き離された五体をひそやかに拾ひ集めて、枯
枝のやうに藤蔓でからげる作業に余念がない。その男どもの腕には、
赤や青の魚の刺青。
(谷内注・「麻布」には原文「リネン」のルビあり)
*
蛇の血脈
--葉紀甫に
流れて止まぬ二叉川の岸辺
点々と落ち散らばつた昨日の淫夢の断片を 人目忍びつつ
拾ひ集め 晒し木綿の袋に収め
砂地に立てた竹竿の先に高々と吊す
(谷内注・「蛇」「二叉」には原文「ナギ」「ふたまた」のルビあり)
*
DNAの汀で
--岩成達也に
循れ、循れ、七つの河よ、
晒し木綿の袋につめて、
人目忍んで河原に埋めた
畸形の恋を押し流せ。
(谷内注・原文の漢字にはルビがあるが省略した)
すべて荒々しい男たちの恋のあとの様子から始まっている。1篇ではおぼろげだったものが「変奏」されることで濃密になっていく。それはそれぞれのことばのなかでのことというより、4篇を読む読者の感覚のなかで、読者の肉体のなかで、濃密になっていく。
これまで「誤読」「誤書(偽書)」として見たきたものは、「変奏」という形でひとつになっているのだともいえる。「誤」が「誤」と出会い、「誤」を洗い流してゆくような感じである。
基本的に同じテーマを「ずらす」ことによって、「ずれ」が見えると同時に、逆に共通のものが見えてくる。「ずれ」(差異)が、「ずれ」(差異)のために存在するというよりも、共通のものを認識するために存在する。
ことば--それぞれの書き手。その個性。それは個性的であることによって存在するのはもちろんだが、同時にその個性は他の個性とぶつかるとき、個性そのものと同時にある共通のものを浮かび上がらせる。
この共通のものは、しかし、単独では取り出せないものである。そのことに入沢は気がついている。あるいは入沢は、そのことを誰よりも強く「発見」している。その単独では取り出せないもの、ことばの動きに潜んでいる力、ことばを動かすことで何かを見ようとする力--それが人間の力だと入沢は実感している。
ことばはことばと出会うとき、ある音が別の音と出会って「和音」をつくるように「和・意味」をつくる。その響きのなかに、「和」のなかに、人間の願いが存在する。祈りが存在する。夢が存在する。単独のことばのなかにもそういうものは存在するが「和」を響かせるときにもそういうものがあらわれる。単独では存在しなかったものが、たのことばの力を借りながら、単独では表現できなかったものを表現する。
入沢の音楽は「和・意味」としての音楽である。
それを明確にするために、入沢は次々に「変奏」を繰り返す。「誤読」として、「偽書」として。よりよいひとつの完成形を目指すというよりも、「和・意味」のうごめく言語空間、そこに書かれているのではなく、読者のなかで沸き上がる言語空間をめざしているのだといえる。
入沢の「詩」は入沢のことばのなかにはない。入沢のことばを読んだ読者のなかにある。ひとりの読者になるために、入沢は「変奏」という行為を繰り返す。「変奏」のなかでなら、入沢は筆者であり、同時に読者でいられるからだ。「変奏」は他者の「音」(ことば)を正確に聞きとることを出発点としている。正確に聞き取り、同時にそれとは違った音を(ことば)を提出することで、単独では存在しなかった豊かな「和・ことば」空間をつくりだすのである。