田島安江「ひとあしおさきに」(現代詩講座@リードカフェ、2015年01月14日)
詩を複数のひとと読んでいると、ときどきおもしろいことに出会う。ひとりで黙読しているときには感じなかった刺戟がある。
受講生の感想は、「不思議な感じ。誰かが先に行ってしまった。主人公が、肉体、内面を観察せざるを得ない状況にいる。」「現実の中の異界を描いている。気配ということばが出てくるが、気配を描いている。」「最後の連はこわい。洋服のなかから手足が伸び縮みしたり、人間が立ち上がり出て行くというのは現実にはありえない。」「現実をしっかり観察している。甘い夢が消える感じ。自分自身の内面を描いている。」「舌を刺す牛乳にむせたときのように/腐敗は白い乳の色から始まる、という2行から、生まれた赤ん坊は誕生のときから腐敗(死)が始まっている、という言っているよう。」
この感想のなかで私が「あっ」と思ったのは「主人公」という指摘。
「講座」では出席者の書いてきた詩を読み、感想を語り合うのだが、「主人公」ということばが感想の中に出てきたのは初めてのような気がする。詩にはたいてい「私」が出てきて、それは筆者を指すことが多い。暗黙のうちに、私たちは詩を「私小説」のように「私詩」と思ってるので、めったに「主人公」ということばをつかって感想を言わない。
けれども、今回「主人公」ということばが出てきた。類似のことばで「自分自身の内面」という表現も出てきた。これも、詩は自分自身の内面(精神/感情/感覚)」を描くものという暗黙の了解があるので、なかなか「ことば」として口に出すことはない。感想をいうとき、わざわざ「自分自身の内面」とは言わないような気がする。
なぜ「主人公」ということばが感想に紛れ込んだのか。
たぶん、「異界」というものが見えたからだと思う。この詩を書いた田島は、「私たちとは違う世界にいる」。それは知っている「田島さん」ではなく、別の人間。詩のことばのなかを生きている「別人/詩の主人公」。あえて言えば「日常の田島さん」ではなくて「詩のなかの田島さん」。
どうして、そういう「思い」が強くなるのか。これは「現実を観察している」という指摘があったが、たしかに「現実」を書いているからである。
ここには生々しい「現実」が描かれている。そして、その「現実」は「垢」「恥毛」といった、ふだんは口にしない「肉体」をとおして描かれる。こういうことばを読んだとき、だれも田島の家族の「垢」あるいは「恥毛」を思い浮かべない。自分自身が風呂に入ってみてしまう他人(家族)の垢、恥毛を思い浮かべる。田島の詩なのに、自分自身の「肉体」と「現実」を思い出してしまう。自分の肉体で田島の「現実/肉体」を受け入れてしまう。田島になってしまう。田島になってしまうのだけれど、もちろん他人だから田島にはなれない。「ずれ」が生まれる。
「ずれ」は「現実」であると同時に、「現実」を見せてくれる「仮構/虚構」である。自分であるかもしれないけれど、自分ではない、他人だ、と言いたい感じ--それが、ここに登場する「わたし」を「主人公」と呼ばせてしまう。それは「私ではない」。書かれていることから「私の現実/肉体」を思い出すけれど「私ではない」。切り離すことで、「安心」したいのかもしれない。突き放して見たいのかもしれない。
「とっくに知っていたはずなのに」ということばが詩の中央あたりに出てくる。ここに書かれていることは、そうなのだ、「とっくに知っている」ことなのだ。「じっと湯を眺めていると/甘い夢の欠片などすっと消えて」いくというのは、誰もが何らかの形で感じている。「わたしのなかの腐敗はとっくに始まっている」もわかっている。「冬の夜更けには肩こりがひどい」もわかっている。同じ「肉体」を生きている。その「肉体」の感覚をおぼえている。だからこそ、「わかりたくない」。自分であるとは思いたくない。あくまで、ことばのなかの「主人公」として受け止めたい。
そして、好都合なことに(?)、最後は、自分の感じていることとはまったく違うことが書かれている。自分の「肉体」ではおぼえていなかったことが書かれている。よかった、これは「私」ではなく詩の「主人公」の体験なのだ、と思うのだ。
でも、そうなのか。私は実は最終連の光景を見たことがあると感じた。いくつかの夜を思い出した。受講生のひとりは「怖い」と言ったが、私はなつかしく感じた。湯船の垢や恥毛もなつかしく感じた。「肉体」がおぼえていることは、どんなことでもなつかしい。
で、最後の「その人はすっくと立ち上がり」の「その人」とは誰だろう。「主人公」か「主人公以外の人(他人)」と質問してみた。
「主人公」「主人公とは別な人の方が恐怖感が増す」「主人公の分身」。意見は分かれた。作者の田島は「わたしではない」と言った。このとき、私は、「その「わたし」というのは2連目に出てくるわたしなのか、それとも田島さん自身のことなのか」と聞きそびれてしまった。
こんなふうに見方がそれぞれ違うというのが、とてもおもしろい。「正解」はない。田島が「私はこう思って書いた」と主張しても、それが「正解」かどうかはわからない。違っていていいと私は思っている。
私は「その人」を「まったく別人」と読んだ。それまで書いてきた「肉体の疲労感」のようなものを手がかりに言うと、「疲労してしまう人間そのもの」あるいは「疲労するということ」。誰かというよりも「人間のあり方」そのものが「その人」と抽象的に呼ばれている。この「抽象(疲労するという動詞といっしょにある人間)」を「本質」と呼びかえることもできるかもしれない。
「抽象」だから、もちろん「全くの別人」であっても「私自身」であってもかまわない。「誰か」にこだわってしまうと、消えてしまう存在である。ある瞬間は「別人」、ある瞬間は「私」。いろいろいな「人間」そのものとして、あらわれては立ち消える。
私が「主人公は誰?」と問いかけ、それに受講生が答える瞬間、答えながら受講生は「正解/誤読」(正解というものがあったと仮定してだが)を揺れる。言った瞬間に自分の言った「正解」は「誤読」になり、他人の「誤読」を聞くたびに、それが「正解」になる。「答え」はなくて、「感じている」ということだけが、そこに「つかみきれない幻」のように動く。
それが、詩だ。
「舌を刺す牛乳にむせたときのように/腐敗は白い乳の色から始まる」は赤ん坊のことを書いたのではなく、現実の牛乳と腐敗、舌先の感覚について書いたのだと田島は言ったが、(私もそう思って読んでいたが)、赤ん坊を思い浮かべ、腐敗を思い、「それではひとあしおさきに」とつなげると、人間の生まれて死んでいくという「一生」が「その人」となって動いているとも読むことができるだろう。
人の一生は、それぞれがきちんと「生きている」(実践している)にもかかわらず、つかみきれない。つかんでいると思ったらするりとどこかへ逃げてしまっていて、もう何も残っていないと思ったら、目の前にある。
田島は「現実」を書いた、自分の感じていることを書いたのかもしれないが、そのことばの運動のなかに、何か田島を超える「存在」が動いている。異質な感じが動いている。それが「主人公」という感想になってあらわれ、その「主人公」という感想に刺戟されて、全員で詩を読み直したという感じがあった。
(次回は、2月25日、水曜日、午後4時-6時。)
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
詩を複数のひとと読んでいると、ときどきおもしろいことに出会う。ひとりで黙読しているときには感じなかった刺戟がある。
ひとあしおさきに 田島 安江
夜半にゆるゆると起き上がり
ひそかに
音のしないようにそっとシャワーを浴び
終い湯に浸ると
家族の落としもののような垢や恥毛が
ゆらゆらと過ぎて行くのを眼の隅におさめる
じっと湯を眺めていると
甘い夢の欠片などすっと消えて
しらじらとした闇の正体を見定めたくなる
舌を刺す牛乳にむせたときのように
腐敗は白い乳の色から始まる
とっくに知っていたはずなのに
なにも慌てることなどないではないか
わたしのなかの腐敗はとっくに始まっているのだから
ベッドの裾から
冷たい気配がはいのぼってくる
冬の夜更けには肩こりがひどい
寝る前に脱いだ洋服が夜半になるとかさこそと音を立てる。たたまれたり開かれたり。洋服の中から覗いた誰かの足が伸びたり縮んだり。洋服を着たまま、その人はすっくと立ち上がり、「それではひとあしおさきに」といってほんとうに行ってしまった。
受講生の感想は、「不思議な感じ。誰かが先に行ってしまった。主人公が、肉体、内面を観察せざるを得ない状況にいる。」「現実の中の異界を描いている。気配ということばが出てくるが、気配を描いている。」「最後の連はこわい。洋服のなかから手足が伸び縮みしたり、人間が立ち上がり出て行くというのは現実にはありえない。」「現実をしっかり観察している。甘い夢が消える感じ。自分自身の内面を描いている。」「舌を刺す牛乳にむせたときのように/腐敗は白い乳の色から始まる、という2行から、生まれた赤ん坊は誕生のときから腐敗(死)が始まっている、という言っているよう。」
この感想のなかで私が「あっ」と思ったのは「主人公」という指摘。
「講座」では出席者の書いてきた詩を読み、感想を語り合うのだが、「主人公」ということばが感想の中に出てきたのは初めてのような気がする。詩にはたいてい「私」が出てきて、それは筆者を指すことが多い。暗黙のうちに、私たちは詩を「私小説」のように「私詩」と思ってるので、めったに「主人公」ということばをつかって感想を言わない。
けれども、今回「主人公」ということばが出てきた。類似のことばで「自分自身の内面」という表現も出てきた。これも、詩は自分自身の内面(精神/感情/感覚)」を描くものという暗黙の了解があるので、なかなか「ことば」として口に出すことはない。感想をいうとき、わざわざ「自分自身の内面」とは言わないような気がする。
なぜ「主人公」ということばが感想に紛れ込んだのか。
たぶん、「異界」というものが見えたからだと思う。この詩を書いた田島は、「私たちとは違う世界にいる」。それは知っている「田島さん」ではなく、別の人間。詩のことばのなかを生きている「別人/詩の主人公」。あえて言えば「日常の田島さん」ではなくて「詩のなかの田島さん」。
どうして、そういう「思い」が強くなるのか。これは「現実を観察している」という指摘があったが、たしかに「現実」を書いているからである。
終い湯に浸ると
家族の落としもののような垢や恥毛が
ゆらゆらと過ぎて行くのを眼の隅におさめる
ここには生々しい「現実」が描かれている。そして、その「現実」は「垢」「恥毛」といった、ふだんは口にしない「肉体」をとおして描かれる。こういうことばを読んだとき、だれも田島の家族の「垢」あるいは「恥毛」を思い浮かべない。自分自身が風呂に入ってみてしまう他人(家族)の垢、恥毛を思い浮かべる。田島の詩なのに、自分自身の「肉体」と「現実」を思い出してしまう。自分の肉体で田島の「現実/肉体」を受け入れてしまう。田島になってしまう。田島になってしまうのだけれど、もちろん他人だから田島にはなれない。「ずれ」が生まれる。
「ずれ」は「現実」であると同時に、「現実」を見せてくれる「仮構/虚構」である。自分であるかもしれないけれど、自分ではない、他人だ、と言いたい感じ--それが、ここに登場する「わたし」を「主人公」と呼ばせてしまう。それは「私ではない」。書かれていることから「私の現実/肉体」を思い出すけれど「私ではない」。切り離すことで、「安心」したいのかもしれない。突き放して見たいのかもしれない。
「とっくに知っていたはずなのに」ということばが詩の中央あたりに出てくる。ここに書かれていることは、そうなのだ、「とっくに知っている」ことなのだ。「じっと湯を眺めていると/甘い夢の欠片などすっと消えて」いくというのは、誰もが何らかの形で感じている。「わたしのなかの腐敗はとっくに始まっている」もわかっている。「冬の夜更けには肩こりがひどい」もわかっている。同じ「肉体」を生きている。その「肉体」の感覚をおぼえている。だからこそ、「わかりたくない」。自分であるとは思いたくない。あくまで、ことばのなかの「主人公」として受け止めたい。
そして、好都合なことに(?)、最後は、自分の感じていることとはまったく違うことが書かれている。自分の「肉体」ではおぼえていなかったことが書かれている。よかった、これは「私」ではなく詩の「主人公」の体験なのだ、と思うのだ。
でも、そうなのか。私は実は最終連の光景を見たことがあると感じた。いくつかの夜を思い出した。受講生のひとりは「怖い」と言ったが、私はなつかしく感じた。湯船の垢や恥毛もなつかしく感じた。「肉体」がおぼえていることは、どんなことでもなつかしい。
で、最後の「その人はすっくと立ち上がり」の「その人」とは誰だろう。「主人公」か「主人公以外の人(他人)」と質問してみた。
「主人公」「主人公とは別な人の方が恐怖感が増す」「主人公の分身」。意見は分かれた。作者の田島は「わたしではない」と言った。このとき、私は、「その「わたし」というのは2連目に出てくるわたしなのか、それとも田島さん自身のことなのか」と聞きそびれてしまった。
こんなふうに見方がそれぞれ違うというのが、とてもおもしろい。「正解」はない。田島が「私はこう思って書いた」と主張しても、それが「正解」かどうかはわからない。違っていていいと私は思っている。
私は「その人」を「まったく別人」と読んだ。それまで書いてきた「肉体の疲労感」のようなものを手がかりに言うと、「疲労してしまう人間そのもの」あるいは「疲労するということ」。誰かというよりも「人間のあり方」そのものが「その人」と抽象的に呼ばれている。この「抽象(疲労するという動詞といっしょにある人間)」を「本質」と呼びかえることもできるかもしれない。
「抽象」だから、もちろん「全くの別人」であっても「私自身」であってもかまわない。「誰か」にこだわってしまうと、消えてしまう存在である。ある瞬間は「別人」、ある瞬間は「私」。いろいろいな「人間」そのものとして、あらわれては立ち消える。
私が「主人公は誰?」と問いかけ、それに受講生が答える瞬間、答えながら受講生は「正解/誤読」(正解というものがあったと仮定してだが)を揺れる。言った瞬間に自分の言った「正解」は「誤読」になり、他人の「誤読」を聞くたびに、それが「正解」になる。「答え」はなくて、「感じている」ということだけが、そこに「つかみきれない幻」のように動く。
それが、詩だ。
「舌を刺す牛乳にむせたときのように/腐敗は白い乳の色から始まる」は赤ん坊のことを書いたのではなく、現実の牛乳と腐敗、舌先の感覚について書いたのだと田島は言ったが、(私もそう思って読んでいたが)、赤ん坊を思い浮かべ、腐敗を思い、「それではひとあしおさきに」とつなげると、人間の生まれて死んでいくという「一生」が「その人」となって動いているとも読むことができるだろう。
人の一生は、それぞれがきちんと「生きている」(実践している)にもかかわらず、つかみきれない。つかんでいると思ったらするりとどこかへ逃げてしまっていて、もう何も残っていないと思ったら、目の前にある。
田島は「現実」を書いた、自分の感じていることを書いたのかもしれないが、そのことばの運動のなかに、何か田島を超える「存在」が動いている。異質な感じが動いている。それが「主人公」という感想になってあらわれ、その「主人公」という感想に刺戟されて、全員で詩を読み直したという感じがあった。
(次回は、2月25日、水曜日、午後4時-6時。)
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