詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アレクサンドル・コット監督「草原の実験」(★★★★)

2015-11-04 22:29:46 | 映画
監督 アレクサンドル・コット 出演 エレーナ・アン

 この映画の成功は主演にエレーナ・アンを起用したことにつきる。美人である。そして、どこか孤独の陰がある。思わず引き込まれてみてしまう。そして、もしかすると、このことには父親(だれ?)の存在が貢献しているかもしれない。父親は、醜男である。でぶである。とてもこの父親からこの美人が生まれたとは思えない。思えないと書きながら矛盾したことを書くのだが、これが実に似ている。目元の感じ(眼差しの感じ?)、口元の感じが、あっ、父娘だと思わせる。
 うーん、不思議。
 美人の娘と醜い父親、と言えば、ナスターシャ・キンスキーとクラウス・キンスキーを思い浮かべるが、あの美醜は紙一重という感じの似方ではない。あれは、人間離れした強烈な線がととのえられることであらわれてくる「激しい美」であって、まあ、そういう「遺伝」の仕方はあるなあ、と感じさせる。ナスターシャ・キンスキーは私の感覚では「世界一の美人」だが、それは「醜さ」を内部に隠した美。「醜さ」を洗練でととのえて、それまでの洗練にない陰影を付け加えた美しさ。人工の美しさ。人工という野蛮を秘めた美しさ。美しさの影に暗い醜さが走り出しそうな予感を秘めた美しさ、という類。男優で言えば、若いときのアラン・ドロンだね。
 そういう「似方(遺伝の仕方)」とは違う。「醜さ」のなかにある強烈な線を鍛え直したという遺伝の仕方ではない。実際の親子ではないから、こんな言い方は正しくないのだが……。でも、言ってしまおう。エレーナ・アンと父親は、「おとなしい似方」である。「醜さ」を鍛えなおすのではなく、むしろ数少ない「美しさ」を大事に育て上げた美しさ。「醜さ」を捨てた美しさ。孤立した美しさ。エレーナ・アンの美しさは、どこか「おとなしい/そばにいてやりたくなるような寂しい感じ/孤独な感じ」は、少ないものを大事に育てているからである。
 で、これは、その女優の存在感そのものともなる。ナスターシャ・キンスキーから恋されたらどうしようと不安になるかもしれない。「激しい美しさ」の「激しい運動」に肉体がひっかきまわされるのではないかと不安になるに違いない。が、エレーナ・アンならうれしいだけで、不安はないだろうなあ、という感じを与える静けさ。醜い父親のなかにある、何か、「醜さ/強暴」から遠いところを大事に引き継ぎ、それを結晶させた美しさという感じ。
 あ、なかなか映画の本題に入らない?
 いや、たぶん、これが本題なのだと思う。
 この映画では、まわりに何もない草原の暮らしが描かれる。草原の暮らしといっても、まあ、よくわからない。何の仕事をしているかよくわからない父親と娘が二人で暮らしている。少女のそばに二人の青年があらわれる。一方は同じ草原で暮らす若者。もうひとりは草原ではないところ(街?)で暮らす若者。そして「三角関係」がはじまる。父親が死んでしまい、娘は一度は草原の若者と結婚して暮らそうと思うが、その若者の家まで行って、そこに暮らしている家族(親族?)を見て気持ちが変わる。「古い世界」に見えてしまう。そして、そこから逃げ帰り、もうひとりの若者と暮らす。
 そういう経緯が、何もない草原、光と風と、水(雨)のなかで描かれる。その草原は、「自然」そのもの。いわゆる「洗練(人工)」とは無縁な世界。自然は過酷かもしれないが、その過酷に耐えるものには「いのち」をわけあたえてくれる。そのわずかなものを受けいれて、大事にする。そこに「暮らしの美しさ」がある。それに通い合う美しさがエレーナ・アンにある。
 カメラはそういう数少ない自然の美しさを最大限に拡大してとらえている。透明な太陽の光。その広がりの純粋さ。夕陽が落ちて、空の色が変わる美しさ。草のそよぎ。風に散っていく最後の木の葉。これをカメラアングルという「人工」の操作で切り取り、エレーナ・アンと合体させ、世界を「静かな美」に統一していく。「芸術」にしていく。(父親がトラックで昼寝をしているとき、あるいはトラックから娘を下ろしひとりで仕事に行くときの鳥瞰アングルは、人工の美。カメラアングルをとおしてしか見ることのできない美である。)しかし、そういう「人工的操作」(映画の細工)は、あくまでエレーナ・アンの「静かな美」を強調するためのものである。
 「自然」ではなく「暮らし(人工)」とエレーナ・アンの調和した部分では、三つのシーンが忘れられない。ひとつは、トラックのバッテリーから電気を引き、ラジオで音楽を聴くシーン。ここに、エレーナ・アンが「草原」という「自然」ではなく、「街」という「人工」、街からきた若者を選んでしまう要素が隠れている。二つ目は、その街の若者がスライドを映写して見せるシーン。少女の写真をスライドにして家の壁に映す。少女はこのとき、はっきりと自分の美しさを客観的に認識する。
 もうひとつ。これは、かなり微妙。街の若者に、井戸から水を汲み上げて渡す。そのときの、井戸に映る娘と若者の姿。最初は水面が揺れて光と影が乱れるだけだが、それが徐々に静まり、二人の姿をくっきりと映す。井戸は「人工」のものだが、ラジオやスライドとは違う。娘の暮らし、「草原」の暮らしと深く結びついているものである。これが、やっぱり娘の「美」の本質だろうなあ。
 この「自然」の静かな美(おとなしい美)が「人工(街の若者)」と結びついたとき、そこにもっと大きな「人工」が「美」を破壊しにやってくる--と見るのは、たぶん、「深読み」になるのだが……。その「深読み」を誘うものが、この映画にはある。
 娘が草原の若者と結婚することを拒み、街の若者を選ぶ。その翌朝、二人は、綾取りをして無邪気に時間をつぶしている。(あ、その前に、もうひとつ、とてもメルヘンチックな美しい映像があった。裸で抱き合うふたりと同じように、選択した洋服が風に吹かれて抱き合うシーンが、とてもすばらしかった。どうやって、服を動かしたのだろう。)その、無邪気な美しさを、草原のどこかでおこなわれた核実験が一瞬のうちに破壊する。「人工」は、いつでも「自然の静かな美」を破壊するものなのだ。
 この映画は、ロシア版の「トゥモロウ/明日」と言える作品だが、「トゥモロウ/明日」との違いは、「暮らしの美しさ」よりも「自然の美しさ」の方に重点を置き、その「自然の美しさ」をひとりの少女、エレーナ・アンに代弁させていることだろうなあ。「暮らし/働き、生きること(苦労の美しさ)」を父親に代弁させ、一方でそういう「暮らしの美」のなかにある静かな美をエレーナ・アンに引き継がせていることだろうなあ。父親の死が、核実験と関係しているらしいのも「人工」の暴力を語っているかもしれないなあ。映画にあらわれる唯一の台詞(?)は、娘にふられた草原の若者が泣く、その「泣き声」だが、もし娘が草原の若者と結婚し、草原で暮らすのだとすれば、ラストシーンの「実験」はなかっただろうなあ、と思った。そういう意味でも、主演はエレーナ・アンでなければならないのだと感じた。
                      (KBCシネマ1、2015年11月04日)






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