秋山基夫『秋山基夫詩集』(思潮社、現代詩文庫193 、2011年06月20日発行)
秋山基夫の快感は、音の快感である。快感を引き出してくれる音を追いかけることで詩が生まれる--という構造は、川上明日夫に似ている。そして、構造は似ているが、好みの音はずいぶん違う。
「ニホン語は乱れているのがそれでいいのだうつくしいのだという題にしておくか」を読んだときの興奮を思い出してしまう。
タイトルとは違って、詩本文のなかでは、「ニホン語ワ」と助詞「は」は音そのものの「ワ」と書かれている。川上明日夫が「とほい」と書いたのとは逆の表記がされている。書きことばよりも、いま/ここで「声」になっている「音」、つまり「肉体」を潜り抜けてくる「音」の響きを生きている。
そして、おもしろいことに「音」を生きるということを「書きことば」の乱れをとおして表現している。--これはちょっとばかげているというか、大いなる矛盾というものだが、だからこそ、そこに秋山の「肉体」(思想)が噴出している。
ことばは(日本語は)、人間の「肉体」にぴったりとはあっていない。「思想」そのものになっていない。どこか乖離したものを含んでいる。その、違和感、その乖離に対する怒りというか、乖離を埋めるにはどうすればいいのかという思いのあれこれが、「意味」を置いてきぼりにして、「声」そのものとして走りだすのだ。
「音」を発してから、その「音」を発する「肉体」を追いかけてくる「意味」を、ときにひっつかまえ、ときに叩き壊し、論理なんかどうでもいい、ともかく「音」を暴走させれば、あとはかってに「意味」が動く--動きたければ動くと思っている。「意味」なんて、どうでもいい。
なんとなれば……。
「いうんぞ」「ゆうんぞ」と定義すれば、それはすべて「意味」なのだ。どんなことでも「いう(ゆう)」、つまり「肉体」をとおして「声」にしてしまえば「意味」になる。その「いう(ゆう)」ときの「声」を秋山は、「当て字」をつかって強調する。「声にだしてみろよ、額門と学問はどう違う?」秋山は、そう問いかけている。
額門は表記としては間違っているが音としては間違っていない。肉体のなかを息が駆け抜け、喉を震わせ、舌を動かし、唇を動かし、鼻腔をするりける息の快感に酔うとき、学問と額門の違いは?
「声」の快感は、秋山にとってはセックスの快感そのものである。セックスで射精するとき、「私」は「私」ではなくなる。エクスタシーの瞬間、「私」は私から出て行ってしまう。同じように、「声」を発するとき、「私」は「私」ではなくなる。「おいおい、おまえはどこにいるんだ」と問われれば、戻ってくる。「額門」から「学問」へ戻ってくるが、戻ってきた「学問」はつまらない(誰だって、もとの場所はつまらない)、だから何度も何度も私から脱出しようとする。
それを繰り返せば、きっと「私」は完全に「私ではなくなる」。
まあ、これは、マボロシだけれど--とりあえず、私は(谷内は)そういうふうに「いう」のだ。「いう」ことで秋山のことばについてゆくのだ。
川上の「声」がいま/ここにとどまりながら、息を変化させるだけのような気持ち悪さがあるのに対し、秋山の「声」は、息が肉体そのものをいま/ここから息のとどいたところまで動いてゆくという感じがする。「肉体」が動く--その感じがとても強い。
でも。
最初に書いたように、これは矛盾のうえに成り立っている「構造」である。「肉体」が「声」を追いかけて、いま/ここから出ていく、暴走していく、その快感--は「当て字」という表記があってはじめて成り立つ。目で「読む」ということによってはじめて成り立つ。
これは苦しいなあ。秋山の「思想」は最初から「敗北」している。
どうすれば、逆転できる?
きっと逆なのだ。「声」から出発して、ことばを追うのではなく「目」から出発して、「音」とは何か、「文字」と「音」はどういう関係になっているかを問うてみる必要があるのだ。「文字」を読み違えたとき、ことばはどうかわるのか。そして、その変化は「事実」にとってどういう「意味」をもつのか。
人の名前--それをどう読もうとその人はその人。別人になるわけではない。「事実」はかわらない。
これは、まあ、強引な論理だけれど。
問題は(?)--問題というテーマの立て方は変だね。でも、とりあえず問題は、ことばを動かすとき「文字」や「音」に先だって、たぶん「あるものを思う」(想定する)というこころの動きがある。その「もの(事実)」と「私」を結ぶものがある。それがことばになり、「音」になり、「文字」になる。
「文字」の方が消えていかないので、何か「重要」なものであるかのようにあつかわれてしまうが、消えてゆく「音」の方が、「事実」を「私」と結びつけようとする欲望が強いかもしれない。整理して、その上で「事実」をつかみとるという余裕もなく、ただつかみとりたいという欲望が動いている。
あ、そうではなくて。
「間違える」ふりをして、「事実」をねじまげながらつかみとりたいという欲望がそこにはあるのかもしれない。
サダイエではなくテイカと読むこと(声にすること)で、サダイエと呼ばれるときとは違った「思想」で定家をとらえようとする欲望が、その声を発した人間にあるのかもしれない。それが「敬意」であるかどうかはわからないが、サダイエではなくテイカと呼ぶとき(声にするとき)、サダイエを切り捨てる力、テイカを特別視する力が働いている。
ことばは、もともとそういうものではないのか。
ある事実がある。それを「特別視」する。特別なものとして肉体にかかわらせる。そのとき「ことば」が生まれる。そしてその「ことば」が「思想」になる。
そのとき、「文字」というものに頼ってもいいのだけれど、文字よりももっと「肉体」そのものである「音」から「思想」をつくっていく。ととのえられた「表記」ではなく、未整理の「音」に基本にする、基軸にする--そういう姿勢を、私は秋山の詩に感じる。
先の「伊藤整」の行のあとに、次の行がある。
これがいいなあ。これが秋山の「肉体」、秋山の「思想」だね。
「さらに」「言いつのる」。書きつづけるではなく、「言う」のである。あくまで「声」にこだわるのである。
「声」へのこだわりを「文字」の乱れ(当て字)で突き破り、書きことばの思想と格闘する秋山--こういう乱暴、こういう暴力はどこかに「間違い」を含んでいるのだけれど、「間違い」を含んでいるから、正しいのだ。
いつだって、何だって、「間違い」だけが、なにごとかを解放するのである。自由にするのである。いままでそこになかったものを出現させるのである。いま/ここにないものを出現させようとする強い欲望--それを秋山のことばに感じる。
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秋山基夫の快感は、音の快感である。快感を引き出してくれる音を追いかけることで詩が生まれる--という構造は、川上明日夫に似ている。そして、構造は似ているが、好みの音はずいぶん違う。
「ニホン語は乱れているのがそれでいいのだうつくしいのだという題にしておくか」を読んだときの興奮を思い出してしまう。
ニホン語ワ乱れているのガそれでいいのだうつくしいのだ
ニホン語ワ乱れているのワそれでいいのだうつくしいのだ
ニホン語ガ乱れているのワそれでいいのだうつくしいのだ
ニホン語ガ乱れているのガそれでいいのだうつくしいのだ
タイトルとは違って、詩本文のなかでは、「ニホン語ワ」と助詞「は」は音そのものの「ワ」と書かれている。川上明日夫が「とほい」と書いたのとは逆の表記がされている。書きことばよりも、いま/ここで「声」になっている「音」、つまり「肉体」を潜り抜けてくる「音」の響きを生きている。
そして、おもしろいことに「音」を生きるということを「書きことば」の乱れをとおして表現している。--これはちょっとばかげているというか、大いなる矛盾というものだが、だからこそ、そこに秋山の「肉体」(思想)が噴出している。
ことばは(日本語は)、人間の「肉体」にぴったりとはあっていない。「思想」そのものになっていない。どこか乖離したものを含んでいる。その、違和感、その乖離に対する怒りというか、乖離を埋めるにはどうすればいいのかという思いのあれこれが、「意味」を置いてきぼりにして、「声」そのものとして走りだすのだ。
「音」を発してから、その「音」を発する「肉体」を追いかけてくる「意味」を、ときにひっつかまえ、ときに叩き壊し、論理なんかどうでもいい、ともかく「音」を暴走させれば、あとはかってに「意味」が動く--動きたければ動くと思っている。「意味」なんて、どうでもいい。
なんとなれば……。
額門のひとが--額門のひとは門に大きな学とかいた額をぶらさげた建物に芝々お事えしとるから額門の人いうんぞ
非評論のひとが--否評論のひとはヒヨーヒヨーとコトバの矢だまを飛ばすのが盗っすも美味い矢鱈に括弧いいコトバの無限軌道の機動怠は喜怒哀楽の大失走だからヒヨー英和のひとゆうんぞ
「いうんぞ」「ゆうんぞ」と定義すれば、それはすべて「意味」なのだ。どんなことでも「いう(ゆう)」、つまり「肉体」をとおして「声」にしてしまえば「意味」になる。その「いう(ゆう)」ときの「声」を秋山は、「当て字」をつかって強調する。「声にだしてみろよ、額門と学問はどう違う?」秋山は、そう問いかけている。
額門は表記としては間違っているが音としては間違っていない。肉体のなかを息が駆け抜け、喉を震わせ、舌を動かし、唇を動かし、鼻腔をするりける息の快感に酔うとき、学問と額門の違いは?
「声」の快感は、秋山にとってはセックスの快感そのものである。セックスで射精するとき、「私」は「私」ではなくなる。エクスタシーの瞬間、「私」は私から出て行ってしまう。同じように、「声」を発するとき、「私」は「私」ではなくなる。「おいおい、おまえはどこにいるんだ」と問われれば、戻ってくる。「額門」から「学問」へ戻ってくるが、戻ってきた「学問」はつまらない(誰だって、もとの場所はつまらない)、だから何度も何度も私から脱出しようとする。
それを繰り返せば、きっと「私」は完全に「私ではなくなる」。
まあ、これは、マボロシだけれど--とりあえず、私は(谷内は)そういうふうに「いう」のだ。「いう」ことで秋山のことばについてゆくのだ。
川上の「声」がいま/ここにとどまりながら、息を変化させるだけのような気持ち悪さがあるのに対し、秋山の「声」は、息が肉体そのものをいま/ここから息のとどいたところまで動いてゆくという感じがする。「肉体」が動く--その感じがとても強い。
でも。
最初に書いたように、これは矛盾のうえに成り立っている「構造」である。「肉体」が「声」を追いかけて、いま/ここから出ていく、暴走していく、その快感--は「当て字」という表記があってはじめて成り立つ。目で「読む」ということによってはじめて成り立つ。
これは苦しいなあ。秋山の「思想」は最初から「敗北」している。
どうすれば、逆転できる?
きっと逆なのだ。「声」から出発して、ことばを追うのではなく「目」から出発して、「音」とは何か、「文字」と「音」はどういう関係になっているかを問うてみる必要があるのだ。「文字」を読み違えたとき、ことばはどうかわるのか。そして、その変化は「事実」にとってどういう「意味」をもつのか。
わたしが中原ナカ也ゆうた瞬間
ナカ也ではありません!チュー也ですッ!
ああわたしはわたしはその時わたしはどうしませふ
そうだわたしは中原ナカ也とゆうのがアリタレーションを楽しんでいるので民衆はT・S・エリオットとともに楽しむのが民衆で「中原中也」ゆう漢字見て中原チュー也とよむんは民衆ではないのみならず詩人でさえないアンタはアンタッチャブルエリオットレスですね
さらにわたしはあえてたずねる
「藤原定家」ゆう漢字はサダイエかテイカかゆうてみい
サダイエか?じゃテイカと音よみしたら敬意を表することになるんでしたか
伊藤整はチャタレー災蛮で人低刃悶で被告人は誰かと木枯れてセイでもヒトシでもええゆうたんぞ
人の名前--それをどう読もうとその人はその人。別人になるわけではない。「事実」はかわらない。
これは、まあ、強引な論理だけれど。
問題は(?)--問題というテーマの立て方は変だね。でも、とりあえず問題は、ことばを動かすとき「文字」や「音」に先だって、たぶん「あるものを思う」(想定する)というこころの動きがある。その「もの(事実)」と「私」を結ぶものがある。それがことばになり、「音」になり、「文字」になる。
「文字」の方が消えていかないので、何か「重要」なものであるかのようにあつかわれてしまうが、消えてゆく「音」の方が、「事実」を「私」と結びつけようとする欲望が強いかもしれない。整理して、その上で「事実」をつかみとるという余裕もなく、ただつかみとりたいという欲望が動いている。
あ、そうではなくて。
「間違える」ふりをして、「事実」をねじまげながらつかみとりたいという欲望がそこにはあるのかもしれない。
サダイエではなくテイカと読むこと(声にすること)で、サダイエと呼ばれるときとは違った「思想」で定家をとらえようとする欲望が、その声を発した人間にあるのかもしれない。それが「敬意」であるかどうかはわからないが、サダイエではなくテイカと呼ぶとき(声にするとき)、サダイエを切り捨てる力、テイカを特別視する力が働いている。
ことばは、もともとそういうものではないのか。
ある事実がある。それを「特別視」する。特別なものとして肉体にかかわらせる。そのとき「ことば」が生まれる。そしてその「ことば」が「思想」になる。
そのとき、「文字」というものに頼ってもいいのだけれど、文字よりももっと「肉体」そのものである「音」から「思想」をつくっていく。ととのえられた「表記」ではなく、未整理の「音」に基本にする、基軸にする--そういう姿勢を、私は秋山の詩に感じる。
先の「伊藤整」の行のあとに、次の行がある。
さらにわたしは言いつのるぞ
これがいいなあ。これが秋山の「肉体」、秋山の「思想」だね。
「さらに」「言いつのる」。書きつづけるではなく、「言う」のである。あくまで「声」にこだわるのである。
「声」へのこだわりを「文字」の乱れ(当て字)で突き破り、書きことばの思想と格闘する秋山--こういう乱暴、こういう暴力はどこかに「間違い」を含んでいるのだけれど、「間違い」を含んでいるから、正しいのだ。
いつだって、何だって、「間違い」だけが、なにごとかを解放するのである。自由にするのである。いままでそこになかったものを出現させるのである。いま/ここにないものを出現させようとする強い欲望--それを秋山のことばに感じる。
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