「新」ということばの嘘
自民党憲法改正草案を読む/番外381(情報の読み方)
2020年08月26日の読売新聞(西部版14版)。1面の肩に「コロナ 新たな日常」という連載の2回目が載っている。25日から始まったものだ。(きのうは事情があり、書く時間がなかった。)2回目は「客席のないレストラン」(宅配専門料理店)を紹介している。
これをはたして「新たな」日常と呼んでいいのか。「新しい」とは何なのか。
こんなことを「定義」しようとするとややこしくなるので、簡単に「事実」を見ていこう。
「新しい」ということばを安倍が最初につかったのはいつか。私の記憶では2016年の参院選の前である。消費税の10%引き上げを再延期する、その是非をめぐり国民の判断を仰ぐための参院選挙、と言った。このとき、安倍は、
「これまでのお約束とは異なる、新しい判断だ」
と言った。
私が記憶しているかぎり、これが最初だ。友人と、「今年の流行語対象は、これだね」と言った記憶がある。
サミットの総括では、奇妙なグラフを突然提示して、「リーマンショックのときに匹敵する危険レベル」と言ったと思う。サミットではリーマンショックというようなことばは出なかったはずだ。つまり、嘘をつくときに「新しい」ということばをつかったのだ。「これまでのお約束とは異なる」という「猫なで声」でごまかしながら。
このことばをジャーナリズムは徹底批判しなかった。「新しい判断」と言えば、それまでの公約は全部反故にできるということを追認してしまった。
そして、その「新しい判断」を掲げた参院選は自民党の大勝利に終わった。これに味をしめて、その後の「新しい」ラッシュがある。何か困ったときは「新しい」を掲げて、状況をごまかすのである。その頂点ともいうべきものがコロナ時代の「新しい生活様式/新たな日常」である。
昔なら、こういうとき、どういうことばをつかったか。
「苦渋の決断」「苦肉の作戦」というように「苦しい」という漢字を含むことばつかって表現した。
「これまでのお約束とは異なることをするのは、苦渋の思いである。しかし、そうせざるを得ない。苦渋の決断だ」と自分の立場を説明し納得してもらう。「苦しさ」を訴え、同情をかう、というのがこれまでの人間の行動だった。「新しい判断だ」というような、「大発明/大発見」につながるようなことばではごまかさない。「私はあたらしいことを思いついた、天才だ」というような宣伝の仕方はしない。
レストランはお客さんあっての商売。つくったものを食べてもらい、喜んでもらう。その反応を確かめながら新たな料理に取り組む。それがシェフというものだろう。客が大勢はいるとコロナ感染の原因になるかもしれないから、客席なし、料理するだけ、というのは「苦肉の作戦」である。
安倍の言っている「新しい」を「苦しい」と言い直し、現実を見つめるべきである。ジャーナリズムは、政府(権力)の差し出してくる「新しいことば」をただ宣伝するのではなく、その「新しいことば」がほんとうに「新しい」何かを示しているのか。それとも「嘘」を含んでいるのかを点検し、報道しないといけない。
「新しいスタイル」がほんとうに「苦痛」を伴わないのか。
たとえばリモートワーク、リモート学習。会社や学校現場ではどういうことが起きているか。「自宅で仕事ができる、通勤しなくてすむから楽になった」だけか。学生は、せっかく大学に合格したのに対面授業が受けられない、友人ができないと苦痛を漏らしていないか。さらにバイトができなくなり、学費が稼げなくなったと言っていないか。
「新しい」ということばの影に「苦しい」がいくつもかくされている。それを拾い上げずに「新しい」「新しい」と「新しい」だけを強調してどうするのだ。
「ことば」の点検を忘れてしまったジャーナリズムはジャーナリズムではない。単なる「宣伝」である。
ついでに書いておけば。
いま、安倍の「体調」がジャーナリズムをにぎわしている。そして、その「にぎわし」のなかに「安倍はかわいそうだ」というものがある。安倍は「苦しい」、苦しんでいる。そこでは「新しい」は反故にされ、「苦しい」が前面に押し出されている。病気のひとを批判するな。同情しろ。
たしかに病気のひとを批判することには問題がある。
しかし、こう考えよう。それでは昔のひと(権力者)はどうしたのか。自分に病気があるとき、国民に同情してくれ、と訴えたのか。
そうではなくて「途中でやめてしまうのは苦渋の決断だが、新しいひとにこれからの世界をリードしてもらいたい」というような形で引退したのではないのか。
病気だから「これまでの感情(批判)」をやめよう。みんなから「新しい感情(同情)」で安倍を支えようというのでは、どうも、おかしいと言わざるを得ない。
「新しい」に出会ったら「これまで」はどうだったのか、それをしっかり確かめてみる。ことばにしてみる、ということが必要なのだ。
*
「情報の読み方」は9月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位
*
「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
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自民党憲法改正草案を読む/番外381(情報の読み方)
2020年08月26日の読売新聞(西部版14版)。1面の肩に「コロナ 新たな日常」という連載の2回目が載っている。25日から始まったものだ。(きのうは事情があり、書く時間がなかった。)2回目は「客席のないレストラン」(宅配専門料理店)を紹介している。
これをはたして「新たな」日常と呼んでいいのか。「新しい」とは何なのか。
こんなことを「定義」しようとするとややこしくなるので、簡単に「事実」を見ていこう。
「新しい」ということばを安倍が最初につかったのはいつか。私の記憶では2016年の参院選の前である。消費税の10%引き上げを再延期する、その是非をめぐり国民の判断を仰ぐための参院選挙、と言った。このとき、安倍は、
「これまでのお約束とは異なる、新しい判断だ」
と言った。
私が記憶しているかぎり、これが最初だ。友人と、「今年の流行語対象は、これだね」と言った記憶がある。
サミットの総括では、奇妙なグラフを突然提示して、「リーマンショックのときに匹敵する危険レベル」と言ったと思う。サミットではリーマンショックというようなことばは出なかったはずだ。つまり、嘘をつくときに「新しい」ということばをつかったのだ。「これまでのお約束とは異なる」という「猫なで声」でごまかしながら。
このことばをジャーナリズムは徹底批判しなかった。「新しい判断」と言えば、それまでの公約は全部反故にできるということを追認してしまった。
そして、その「新しい判断」を掲げた参院選は自民党の大勝利に終わった。これに味をしめて、その後の「新しい」ラッシュがある。何か困ったときは「新しい」を掲げて、状況をごまかすのである。その頂点ともいうべきものがコロナ時代の「新しい生活様式/新たな日常」である。
昔なら、こういうとき、どういうことばをつかったか。
「苦渋の決断」「苦肉の作戦」というように「苦しい」という漢字を含むことばつかって表現した。
「これまでのお約束とは異なることをするのは、苦渋の思いである。しかし、そうせざるを得ない。苦渋の決断だ」と自分の立場を説明し納得してもらう。「苦しさ」を訴え、同情をかう、というのがこれまでの人間の行動だった。「新しい判断だ」というような、「大発明/大発見」につながるようなことばではごまかさない。「私はあたらしいことを思いついた、天才だ」というような宣伝の仕方はしない。
レストランはお客さんあっての商売。つくったものを食べてもらい、喜んでもらう。その反応を確かめながら新たな料理に取り組む。それがシェフというものだろう。客が大勢はいるとコロナ感染の原因になるかもしれないから、客席なし、料理するだけ、というのは「苦肉の作戦」である。
安倍の言っている「新しい」を「苦しい」と言い直し、現実を見つめるべきである。ジャーナリズムは、政府(権力)の差し出してくる「新しいことば」をただ宣伝するのではなく、その「新しいことば」がほんとうに「新しい」何かを示しているのか。それとも「嘘」を含んでいるのかを点検し、報道しないといけない。
「新しいスタイル」がほんとうに「苦痛」を伴わないのか。
たとえばリモートワーク、リモート学習。会社や学校現場ではどういうことが起きているか。「自宅で仕事ができる、通勤しなくてすむから楽になった」だけか。学生は、せっかく大学に合格したのに対面授業が受けられない、友人ができないと苦痛を漏らしていないか。さらにバイトができなくなり、学費が稼げなくなったと言っていないか。
「新しい」ということばの影に「苦しい」がいくつもかくされている。それを拾い上げずに「新しい」「新しい」と「新しい」だけを強調してどうするのだ。
「ことば」の点検を忘れてしまったジャーナリズムはジャーナリズムではない。単なる「宣伝」である。
ついでに書いておけば。
いま、安倍の「体調」がジャーナリズムをにぎわしている。そして、その「にぎわし」のなかに「安倍はかわいそうだ」というものがある。安倍は「苦しい」、苦しんでいる。そこでは「新しい」は反故にされ、「苦しい」が前面に押し出されている。病気のひとを批判するな。同情しろ。
たしかに病気のひとを批判することには問題がある。
しかし、こう考えよう。それでは昔のひと(権力者)はどうしたのか。自分に病気があるとき、国民に同情してくれ、と訴えたのか。
そうではなくて「途中でやめてしまうのは苦渋の決断だが、新しいひとにこれからの世界をリードしてもらいたい」というような形で引退したのではないのか。
病気だから「これまでの感情(批判)」をやめよう。みんなから「新しい感情(同情)」で安倍を支えようというのでは、どうも、おかしいと言わざるを得ない。
「新しい」に出会ったら「これまで」はどうだったのか、それをしっかり確かめてみる。ことばにしてみる、ということが必要なのだ。
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「情報の読み方」は9月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位
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