山本育夫「つづれ織り『詩の遠近法』」(「博物誌」48、2020年08月20日発行)
山本育夫「つづれ織り『詩の遠近法』」には「最果タヒさんの詩を読んでみた2」というサブタイトルがついている。最果の詩をどう読んだか。批評か、感想か。最果の詩を読んで山本がことばを動かしている。
山本が読んだのは「本棚」である。「文節」ごとに読み進んでいる。そして、「悲劇を読んで、」ということばにつづく次の「文節」、
ということばについて、こういうことを書いてる。
私はびっくりした。まさかこんなふうに読むとは思わなかったのである。もちろん詩は(小説でもいいが)、どのことばをどう読むかは読者の勝手。作者にも口を挟む権利はないし、ましてやほかの読者が(つまり私が)、山本の読み方おかしいよ、という権利はない。しかし、私は、思わず「あっ」と叫んだ。「まさか、」とびっくりした。
「本棚」を、山本は「本棚」と読んでいる。あたりまえのことなのかもしれないが、私が山本なら(この言い方はかなり強引だが)、この「本棚」は「本棚」ではない。「ことば」である。
そして「ことば」は、最近山本が書いている詩の「テーマ」である。
だから、びっくりした。
というか、私はほとんど「山本」になって山本の書いた文章を読んでいるので、ここで「本棚」を「本棚」そのものとして受け止めるのはどうして? と、びっくりしたのである。いつも山本が詩に書いている「ことば」に置き換えれば、それはそのまま山本の詩になるじゃないか、と思ったのである。
なんだか変なことを書いているようだが……。言い直すと、この「本棚」を「本棚」と読むのが、ほかのひと、たとえば今号の「博物誌」に書いている田野倉の感想なら、そんなに驚かない。山本が書いているから驚いたのである。
別な言い方をしてみよう。山本は「書き下ろし詩集『野垂れ梅雨』十八編」を書いている。その最初の詩。
この詩のなかの「ことば」は、最果の書いている「本棚」とどれくらい違うのか。私は同じものに見えてしまう。
だから、驚いたのである。
山本の書いている「ことば」は正確に言い直そうとすると、とてもむずかしい。あれやこれや。語られたけれど、「要約」からこぼれおちている何かである。山本はそれをまず「物言い」と言っているが、まあ、語り口である。また「呼気」というものであり、「寂しく激した音色」と言い直されているものが「ことば」だろう。
「ことば」は意味を伝えるが、同時に「意味」にはなりきれない、めんどうくさいものをまとっているのが「ことば」である。私はこういう意味になりきれていない「ことば」を「無意味」ととらえている。「意味」が分節されていない(あるいは、未分化の状態にある)、つまり「無」である、ということを指して「無意味」というのだが。
山本はそれを、たとえば「物言い」と書き、最果は「本棚」と書いたのだと思う。
「物言い」が「呼気」「音色」というものにつぎつぎに姿をかえていくとしたら、「本棚」はそういう様々に姿をかえたことばの「集合体」(未分化/融合してくっついている)ものである。そのなかから、ひとはときに応じてなにごとかを「分化/分節」する。その「分化/分節」が「読んで強くなったり悲しくなったりする」ということだろうと思っている。何になるか、わからないのだ。山本の表現を借りて言えば「ことば」が「物言い」になるか「呼気」になるか「音色」になるかわからないように、最果の「本棚」はひとを「強くする」か「悲しくする」かわからないが、「分化/分節」の前の「感情のかたまった宝庫」なのである。山本は「わかるのだろうか」と疑問を投げかけているが、「わからない」存在が「ことば(山本)」であり、「本棚(最果)」なのだろう。
さて。
私は「分節」と書く。山本は「文節」と書いていた。「音」にすると同じだが、「意味(指し示す世界)が違う。ここが、私と山本の「読み方」の違いなのだが、こんなことは書き続けるとややこしくなるので、「分節/文節」とは別のことから、私と山本の違いを書いておこう。
この部分について、山本は「詩の匂いがまったく感じられない」と書いている。けれど、私は「だれのことも覚えていない」に詩を感じる。「覚えていない」は「わからなくなった」でもあり、私にとっては「未分節/未分化」の状態に還元されることである。
それはまた、詩の書き出しの、
の「わからない」に通じる。「わからない」けれど「階段」「ドミノ」と仮に「分節/分化」できる。「ことば」を「物言い」「「呼気」「音色」と「分節/分化」できるように。あるいは、それに「くっつきあって淀んでいる」や「油に染みた土や布切れ/その臭い」に「分節/分化」できるように。
「分節/分化」への動きを感じるけれど、「分節/分化」できないもの。それが私にとって詩ということになるのかもしれない。
でも、こういうことは、ある「文脈」のなかでだけ言えることで、別の文脈の中では逆の言い方しかできなくなるだろうと思う。
だからこそ、私はいつも、前に書いた「結論」を破るようにして(叩き壊すようにして)、新しく書き始めるだけ、とつけくわえておく。
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山本育夫「つづれ織り『詩の遠近法』」には「最果タヒさんの詩を読んでみた2」というサブタイトルがついている。最果の詩をどう読んだか。批評か、感想か。最果の詩を読んで山本がことばを動かしている。
山本が読んだのは「本棚」である。「文節」ごとに読み進んでいる。そして、「悲劇を読んで、」ということばにつづく次の「文節」、
読んで強くなったり悲しくなったりするその悲劇の主人公の本棚に、
ということばについて、こういうことを書いてる。
悲劇の本を読んで、その本の中で強くなったり悲しくなったりする悲劇の主人公、の、本棚、に、と読めるけれど、本の中の主人公の本棚、なんてわかるのだろうか。その本の中にそういうくだりが登場しているのだろうか。
私はびっくりした。まさかこんなふうに読むとは思わなかったのである。もちろん詩は(小説でもいいが)、どのことばをどう読むかは読者の勝手。作者にも口を挟む権利はないし、ましてやほかの読者が(つまり私が)、山本の読み方おかしいよ、という権利はない。しかし、私は、思わず「あっ」と叫んだ。「まさか、」とびっくりした。
「本棚」を、山本は「本棚」と読んでいる。あたりまえのことなのかもしれないが、私が山本なら(この言い方はかなり強引だが)、この「本棚」は「本棚」ではない。「ことば」である。
そして「ことば」は、最近山本が書いている詩の「テーマ」である。
だから、びっくりした。
というか、私はほとんど「山本」になって山本の書いた文章を読んでいるので、ここで「本棚」を「本棚」そのものとして受け止めるのはどうして? と、びっくりしたのである。いつも山本が詩に書いている「ことば」に置き換えれば、それはそのまま山本の詩になるじゃないか、と思ったのである。
なんだか変なことを書いているようだが……。言い直すと、この「本棚」を「本棚」と読むのが、ほかのひと、たとえば今号の「博物誌」に書いている田野倉の感想なら、そんなに驚かない。山本が書いているから驚いたのである。
別な言い方をしてみよう。山本は「書き下ろし詩集『野垂れ梅雨』十八編」を書いている。その最初の詩。
01音色(ねいろ)
放っておけばいい
その辺りに
背後に彩られた物言いなど
そのまま滑り落ちていけばいい
バイク修繕屋のこじんまりした空間に
押し込められた密接なことば
くっつきあって淀んでいる
店先の油に染みた土や布切れ
その臭い
遠くから帰ってきた若い呼気たちが
満ち満ちた明け方
バイク音はしばらくの間
そこら辺を漂っていて
その寂しく激した音色はどこか
永遠に描かれている
この詩のなかの「ことば」は、最果の書いている「本棚」とどれくらい違うのか。私は同じものに見えてしまう。
だから、驚いたのである。
山本の書いている「ことば」は正確に言い直そうとすると、とてもむずかしい。あれやこれや。語られたけれど、「要約」からこぼれおちている何かである。山本はそれをまず「物言い」と言っているが、まあ、語り口である。また「呼気」というものであり、「寂しく激した音色」と言い直されているものが「ことば」だろう。
「ことば」は意味を伝えるが、同時に「意味」にはなりきれない、めんどうくさいものをまとっているのが「ことば」である。私はこういう意味になりきれていない「ことば」を「無意味」ととらえている。「意味」が分節されていない(あるいは、未分化の状態にある)、つまり「無」である、ということを指して「無意味」というのだが。
山本はそれを、たとえば「物言い」と書き、最果は「本棚」と書いたのだと思う。
「物言い」が「呼気」「音色」というものにつぎつぎに姿をかえていくとしたら、「本棚」はそういう様々に姿をかえたことばの「集合体」(未分化/融合してくっついている)ものである。そのなかから、ひとはときに応じてなにごとかを「分化/分節」する。その「分化/分節」が「読んで強くなったり悲しくなったりする」ということだろうと思っている。何になるか、わからないのだ。山本の表現を借りて言えば「ことば」が「物言い」になるか「呼気」になるか「音色」になるかわからないように、最果の「本棚」はひとを「強くする」か「悲しくする」かわからないが、「分化/分節」の前の「感情のかたまった宝庫」なのである。山本は「わかるのだろうか」と疑問を投げかけているが、「わからない」存在が「ことば(山本)」であり、「本棚(最果)」なのだろう。
さて。
私は「分節」と書く。山本は「文節」と書いていた。「音」にすると同じだが、「意味(指し示す世界)が違う。ここが、私と山本の「読み方」の違いなのだが、こんなことは書き続けるとややこしくなるので、「分節/文節」とは別のことから、私と山本の違いを書いておこう。
だれのことも覚えていないけれど、
必ず需要はあるはずよ、
わたしが生きているのはどうしてかってわざわざ聞いてくるひとはいないから安心している、
本当はだれもが気になっているはずなのに。
この部分について、山本は「詩の匂いがまったく感じられない」と書いている。けれど、私は「だれのことも覚えていない」に詩を感じる。「覚えていない」は「わからなくなった」でもあり、私にとっては「未分節/未分化」の状態に還元されることである。
それはまた、詩の書き出しの、
階段だったかドミノだったかわからないものをまだ上り続けて、
の「わからない」に通じる。「わからない」けれど「階段」「ドミノ」と仮に「分節/分化」できる。「ことば」を「物言い」「「呼気」「音色」と「分節/分化」できるように。あるいは、それに「くっつきあって淀んでいる」や「油に染みた土や布切れ/その臭い」に「分節/分化」できるように。
「分節/分化」への動きを感じるけれど、「分節/分化」できないもの。それが私にとって詩ということになるのかもしれない。
でも、こういうことは、ある「文脈」のなかでだけ言えることで、別の文脈の中では逆の言い方しかできなくなるだろうと思う。
だからこそ、私はいつも、前に書いた「結論」を破るようにして(叩き壊すようにして)、新しく書き始めるだけ、とつけくわえておく。
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講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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