詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アルノー・デプレシャン監督「クリスマス・ストーリー」(★★★★)

2011-02-03 10:29:57 | 映画
監督アルノー・デプレシャン 出演カトリーヌ・ドヌーヴ、ジャン・ポール・ロシロン、アンヌ・コンシニ、マチュー・アマルリック、メルヴィル・プポー

 映画を見ているというより生身のフランス人を直に見ている感じがする。と、いっても私は直に接したことがあるフランス人はほとんどいないのだが。
 少ない経験と映画などからうかがえるフランス人とは。
 わがままである。いいことば(?)でいえば自分の主張を明確に持っている。自分の主張を言えなければ人間ではない。しかし、自分の考えさえ言えれば、それがどんな考えであろうが、正しい。
 この映画では、とても変なシーンがある。日本人なら絶対にこんなふうにはならないというシーンがある。カトリーヌ・ドヌーヴの余命、手術した場合としない場合の余命を計算する場面だ。こういうことは日本人も隠れてなら、つまり一人でならこっそりするだろう。この映画では、その日本人ならこっそりと隠れて、それもたぶん後ろめたい気持ちですることを、「家族会議」でやるのだ。カトリーヌ・ドヌーヴももちろん同席している。
 黒板には夫が書いた計算、想定式がいっぱいに広がっている。それを見ながら、親類(?)が間違っていると指摘する。夫は間違いを指摘された部分をノートに取っている。そして、最後に「答え」を出す瞬間がくると「私に答えさせてくれ」と言って、「答え」を書き込む。それをカトリーヌ・ドヌーヴは平然と見つめている。
 この「合理主義」には驚く。「真理」を追い求める姿勢には驚く。フランス人にとって、きちんと計算できることはあくまで計算する。そしてその「答え」がどんなものであれ、それを真実と受け止める。
 あとは、その真実とどう受け止めるかが、ひとに任せられる。真実はこれ、それをどうするかはあなた次第――それがフランス人。パスカルの国の人の姿勢だ。
 これは、この映画のストーリーの中心部においても同じ。二男は長男の白血病を救うために生まれてきた(誕生させられた)。ところが二男と長男では脊髄の型が一致しなかった。つまり二男は長男を救えなかった。――だから、次男が嫌い。変な論理だが、一応論理は通る。その論理にカトリーヌ・ドヌーヴと娘はしたがって行動する。二男を憎む。
 すごいなあ。「論理」が「感情」を支配する。
 日本人は逆だよね。「感情」が「論理」を支配する。
 一見、逆に見えるシーンもある。三男(四男?)の妻に「あなたを愛していたのは四男(三男?)男だ」と告げる。女は男に「なぜ、私と結婚しなかったのか」と迫る。三男は「四男が気が弱かったので譲った」というようなことをいう。それに対して女は怒り、で、何をするかといえば、その昔果たせなかった恋愛を成就させる。セックスする。それを四男に目撃もされるのだが、全然気にしない。恋愛の「論理」、「愛している」という感情の「論理」を完結させただけなのだ。
 これを「感情」に流された衝動的行動ととるのは、たぶん日本人の論理。フランス人は、特にフランス女性は「感情の論理を完結させた」というだろうなあ。「感情」にも「感情」の論理があるのだ。
 二男を憎み続ける母と姉の、その憎しみも「感情の論理」なのだ。
 うーん、どうやって解決する?
 なんと・・・。
 「肉体の論理」(遺伝子の論理)を適合させる。カトリーヌ・ドヌーヴの白血病を二男の骨髄移植で救う。「感情」の不適合を「肉体」の適合が解決する。ここでも動いているのは「論理」なんだなあ。

 ということは、まあ、あまり映画の完成度とは関係ないね。ストーリーの「論理」にすぎないよね。

 見どころは、役者の質感、生活空間の質感。リアルだねえ。見あきないねえ。役者がともかくうまい。映像が非常にしっかりしている。それぞれが登場人物のように自己主張して、平然と存在している。いいなあ。人間を見た――という気持ちがずしんと残る。

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