高貝弘也「黒犬/記憶」(「午前」17、2020年04月15日発行)
高貝弘也「黒犬/記憶」は、ひとつの作品のタイトルではなく、二つの作品のタイトルを併記しているのかもしれない。右ページと左ページに七行、八行とことばがわかれている。そして、リズムも違う。
引用するのは右ページ、たぶん「黒犬」という作品。
いくつかのことばにはルビが散らしてある。括弧で補うと、印象が違ってくるので、省略した。
何が書いてあるか、わかりますか?
いきなり「春浅み」といまはつかわない(たぶん)ことばではじまる。「月かげ」もつかわないなあ。つかわないけれど、つかわないからといってまったく知らないことばではない。わからないことはない。でも、わからない。
わからなくても印象に残ることばがある。それは単独で印象に残るのではなく、ほかのことばと呼び掛け合って印象に残る。ほんとうにことばが呼び掛け合っているのかどうかわからないが、高貝のことばにふれると、私のなかにあることばが触発されて呼び掛け合うように動く。そのとき、「意味」のようなものが、私の「肉体」のなかで生まれてくる。
こんな具合。
春「浅」み、「深」見草。浅いと深いが呼び掛け合っている。その呼びかけの間に、「柔らかい」「揺れている」も呼び掛け合う。揺れるものは、柔らかくないといけない。硬いものは、揺れない。そしてこの柔らかさは「撫でる」ということばとも呼び掛け合う。「揺れる」は「袖」にも「草」にも呼びかけ、そこに「撫でる」ようなふれあい、柔らかい感触がある。「春」の「風」によって、袖が揺れ、草の葉を「撫でる」のか、草の葉が揺れ、袖を「撫でる」のか。どちらでもいい。たぶん、両方なのだ。主語、目的語、などと区別する必要はない。
これが春浅「み」、月「かげ」によって、いま、ここにあらわれてくる。ちょっと古典的な世界。でも、きっと記憶にある世界だね。
そういう「もの」(存在)を並列したあとで、奇妙な一行が、「文章」のように書かれている。
「主語」と「述語」がある。「文章」だ。
それ以前のことばは、「春浅み」をのぞけば体言止め、名詞の羅列。それらのものの関係がどうなっているか、わからない。ただ、そこに存在している。存在することで、何事かを呼び掛け合っている。いろいろな存在のなかから、ある名詞を選び、存在させることで、いままで存在しなかった「呼びかけ」を引き出している。
でも、この一行は違う。「金魚が/泣いている」という「文章」が成り立つ。そのことば自体、奇妙、常識に反するけれど、常識を裏切ることばはそれだけではない。「緑の金魚」「赤い藻」。ふつうに思い浮かべれば「赤い金魚」「緑の藻」。でも、その「ふつうの想像力」を否定するようにことばが動いている。否定を印象づけながら動いている。
そして、この不思議な光景に、深「見」草が呼び掛ける。「草」は「藻」と呼び掛け合い、「深見草」に潜む「見」は浅「み」とも呼び掛け合っている。意味としてはまったく違うが「音」が呼び掛け合う。不思議な和音をつくる。同じことは藻「かげ」、月「かげ」によっても起きる。月影は月の光だから、藻影のように何かを隠したりはしない。「あらわす(てらす)」と「隠す」が「かげ」のなかで交錯し、それに「見/み」が呼び掛ける。
泣いている金魚を、隠れてそっと見ている。あるいは金魚が隠れて泣いているのを見てしまった。これが、この詩に書かれている「事件」かもしれない。
このあと、「文章」は再び、単語(名詞)になって散らばっていく。「もの」の痕跡をかすかに残し、砕け散る「象徴」という感じだな。「繊い火」は書かれなかった金魚の「赤」、「ものの葉」は「藻の葉(?)の揺れ」、「溜色」ということばを私は知らないので、「ため息」を思い、金魚と藻がふれあって漏らす声を連想したりするのである。
そういう、一種、はかないものたちが「ほそい」ということばに収斂していく。「撫でる」に象徴されるふれあいは「寄りそう」という動詞につながっていく。
「一体」になるのではなく、寄りそう。
「黒犬」を見て、高貝は、そういうことを考えたのか。黒犬は孤独な野良犬か。ここに書かれているのは、それとも「黒犬」が見た、ある春の情景なのか。「黒犬」が見ている世界を高貝が想像して描いた世界なのか。
どうとでも「意味」(論理)は動いていく。
問題は、(大切なのは)、そのときの「意味/結論」ではなく、ことばにそういう動きをさせてしまうもの、「ことばの呼び掛け合い」がこの詩のなかにあるということだ。
ことばとことばを結びつけて、人間は、自分の考える「意味」をつくっていく。「意味」は捏造されるものであり、「意味」になる前のことばの呼び掛け合いに耳を澄ますことが大事なのだと私は思う。
高貝は、どこまでも耳を澄まして、誰も聞いたことのないことばとことばの呼び掛け合いを聞き取る。こういうとき、そこにはどうしても「古典/ことばの記憶」が反映してくる。ことばは「未来」のものではなく、ことばを語ってきた「過去」のものだからである。「いま」の暮らしが振り落としてしまっている「過去」のことばの呼びかけを、記録として残していく、というのが高貝の仕事の進め方なのだと思う。
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高貝弘也「黒犬/記憶」は、ひとつの作品のタイトルではなく、二つの作品のタイトルを併記しているのかもしれない。右ページと左ページに七行、八行とことばがわかれている。そして、リズムも違う。
引用するのは右ページ、たぶん「黒犬」という作品。
春浅み 月かげ
柔らかい袖の、撫でもの
あの 風に揺れている深見草
緑の金魚が 赤い藻かげで泣いている
繊い火 ものの葉 溜色
ほそい寄りものに寄りそって、
あなたはずっと生きつづけるだろう
いくつかのことばにはルビが散らしてある。括弧で補うと、印象が違ってくるので、省略した。
何が書いてあるか、わかりますか?
いきなり「春浅み」といまはつかわない(たぶん)ことばではじまる。「月かげ」もつかわないなあ。つかわないけれど、つかわないからといってまったく知らないことばではない。わからないことはない。でも、わからない。
わからなくても印象に残ることばがある。それは単独で印象に残るのではなく、ほかのことばと呼び掛け合って印象に残る。ほんとうにことばが呼び掛け合っているのかどうかわからないが、高貝のことばにふれると、私のなかにあることばが触発されて呼び掛け合うように動く。そのとき、「意味」のようなものが、私の「肉体」のなかで生まれてくる。
こんな具合。
春「浅」み、「深」見草。浅いと深いが呼び掛け合っている。その呼びかけの間に、「柔らかい」「揺れている」も呼び掛け合う。揺れるものは、柔らかくないといけない。硬いものは、揺れない。そしてこの柔らかさは「撫でる」ということばとも呼び掛け合う。「揺れる」は「袖」にも「草」にも呼びかけ、そこに「撫でる」ようなふれあい、柔らかい感触がある。「春」の「風」によって、袖が揺れ、草の葉を「撫でる」のか、草の葉が揺れ、袖を「撫でる」のか。どちらでもいい。たぶん、両方なのだ。主語、目的語、などと区別する必要はない。
これが春浅「み」、月「かげ」によって、いま、ここにあらわれてくる。ちょっと古典的な世界。でも、きっと記憶にある世界だね。
そういう「もの」(存在)を並列したあとで、奇妙な一行が、「文章」のように書かれている。
緑の金魚が 赤い藻かげで泣いている
「主語」と「述語」がある。「文章」だ。
それ以前のことばは、「春浅み」をのぞけば体言止め、名詞の羅列。それらのものの関係がどうなっているか、わからない。ただ、そこに存在している。存在することで、何事かを呼び掛け合っている。いろいろな存在のなかから、ある名詞を選び、存在させることで、いままで存在しなかった「呼びかけ」を引き出している。
でも、この一行は違う。「金魚が/泣いている」という「文章」が成り立つ。そのことば自体、奇妙、常識に反するけれど、常識を裏切ることばはそれだけではない。「緑の金魚」「赤い藻」。ふつうに思い浮かべれば「赤い金魚」「緑の藻」。でも、その「ふつうの想像力」を否定するようにことばが動いている。否定を印象づけながら動いている。
そして、この不思議な光景に、深「見」草が呼び掛ける。「草」は「藻」と呼び掛け合い、「深見草」に潜む「見」は浅「み」とも呼び掛け合っている。意味としてはまったく違うが「音」が呼び掛け合う。不思議な和音をつくる。同じことは藻「かげ」、月「かげ」によっても起きる。月影は月の光だから、藻影のように何かを隠したりはしない。「あらわす(てらす)」と「隠す」が「かげ」のなかで交錯し、それに「見/み」が呼び掛ける。
泣いている金魚を、隠れてそっと見ている。あるいは金魚が隠れて泣いているのを見てしまった。これが、この詩に書かれている「事件」かもしれない。
このあと、「文章」は再び、単語(名詞)になって散らばっていく。「もの」の痕跡をかすかに残し、砕け散る「象徴」という感じだな。「繊い火」は書かれなかった金魚の「赤」、「ものの葉」は「藻の葉(?)の揺れ」、「溜色」ということばを私は知らないので、「ため息」を思い、金魚と藻がふれあって漏らす声を連想したりするのである。
そういう、一種、はかないものたちが「ほそい」ということばに収斂していく。「撫でる」に象徴されるふれあいは「寄りそう」という動詞につながっていく。
「一体」になるのではなく、寄りそう。
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どうとでも「意味」(論理)は動いていく。
問題は、(大切なのは)、そのときの「意味/結論」ではなく、ことばにそういう動きをさせてしまうもの、「ことばの呼び掛け合い」がこの詩のなかにあるということだ。
ことばとことばを結びつけて、人間は、自分の考える「意味」をつくっていく。「意味」は捏造されるものであり、「意味」になる前のことばの呼び掛け合いに耳を澄ますことが大事なのだと私は思う。
高貝は、どこまでも耳を澄まして、誰も聞いたことのないことばとことばの呼び掛け合いを聞き取る。こういうとき、そこにはどうしても「古典/ことばの記憶」が反映してくる。ことばは「未来」のものではなく、ことばを語ってきた「過去」のものだからである。「いま」の暮らしが振り落としてしまっている「過去」のことばの呼びかけを、記録として残していく、というのが高貝の仕事の進め方なのだと思う。
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