監督 アピチャッポン・ウィーラセタクン 出演 タナパット・サーイセイマー
私はこの映画を福岡ソラリアシネマ3で見た。この劇場はスクリーンそばに大きな「非常出口」の案内がある。その緑色がスクリーンにまで映る。最悪である。森の緑の色が分からない。ほんとうはどんな色? それが気になってしかたがない。どうみても東南アジア特有のモンスーンの緑というだけではつたわらない、妙に薄暗い緑が多いのだが、美しいスクリーンで見たら何色? 冒頭の木につながれていた牛が脱走し、連れ戻される夜明け前(?)の森の色など、くすみ具合がきれいなんだろうなあ。深くてあいまいな色なんだろうなあ。タイのいなかの森へいってみたいなあと誘われるような気分になるだけに、ソラリアシネマ3の不完全なスクリーンが、ほんとうに頭にくる。
冒頭のシーンや、その他のシーンもほんとうは色が美しい――そう思いながら、見えない色(まだ誰もスクリーンに定着させたことがない色)に恋しながらスクリーンを見つづけたが・・・。
映画は東洋人には分かりやすすぎて、というか、いつかどこかでぼんやり聞いたことがあり、なんとなく知っているつもりのことなので、逆に分かりにくいかもしれない。輪廻? どこまでが知っていることで、どこからが知らないことなのか、それがわからない。映画で描かれることが、ブンミおじさん特有のことなのか、それとも自分のおじいさん、おばあさんが「なんまいだぶつ」とつぶやきながら聞かせてくれた話、あるいはどこそこのお葬式やお寺で聞いたお坊さんの話か、はっきりと区別がつかない。
あまりにも当たり前のように、死んだ人間が幽霊(?)になってかえってくる、動物になってかえってくるということが描かれているからかもしれない。登場人物が幽霊や猿になってかえってきた人間に対して驚いて見せない。あたりまえの感じで自然に受け入れる。自然すぎておもしろくない。「ブンミおじさんの森」という「固有名詞」の感覚が伝わってこない。「わたしのおじさんの森」という感じになってしまうのである。(私のように、いなかの、山の中で育った人間には、と断りがいるかな?)
この「自然さ」がちょっと逸脱して、猥褻になる部分は、しかし、おもしろい。
醜い森の女王がなまずとセックスするところが秀逸である。なんといっても、セックスシーンが延々とつづくのがいい。そうか、輪廻というのは、違った生き物のセックスを体験することか、セックスをすることは生まれ変わることか、と感じ、その主張に監督の「思想」を感じるのである。単に、幽霊や猿になった息子が出てくるだけでは、セックスと死(セックスのエクスタシー自体、小さな死、生まれ変わり体験だよね。「死ぬ!」って言うでしょ?)と生まれ変わりの感じが抽象的になるからね。セックスシーンがあるから具体的になる。つまり、肉体で知っている不透明なものになる。これがいい。なまずが「力演」しているのに笑ってしまうが、美しいのは、このときの水の色。透明じゃない。にごっている。あいまいである。この不明瞭の明瞭さ――不明瞭な世界では、セックスのように「触覚」が大事だねえ。触れることで、確かになる。わからないものが、肉体的に納得できる何かに変わる。
姥捨て山へ行くみたいに、おじさん一行が洞窟のなかへ入っていくシーンもいい。なんだか女の体内へ入っていくよう。手探りのあいまいさがいいよなあ。ここでも魚が出てくる。なまずと違って小さい魚。透明な水のなかに群れている。女王との比較でいえば、今度は男のセックスだね。魚は精子だ。おじさんは、最後の旅に「女体」のなかへはいって行き、そこで「精子」になる。いいなあ。この「精子」は何にでも変わりうる、つまり何にでも輪廻して、生まれ変われるということだな。(と、男である私は勝手に想像する。)
何にでも生まれ変われるからこそ、死が悲しくない。なんでもない事柄になる。そこには「いのち」は描かれているけれど、ほんとうは死は描かれていないのかもしれない。
全編を揺さぶっている変な雑音みたいな音も、あいまいでいいなあ。わからなくていいのだ。何かわからないけれど、どこかで聞いたことがある音だなあ――という感じが、映像のトーンととてもあっている。洗練された「音楽」だったらわざとらしくなるよなあ。
感想を書き始めたら、どんどんいい映画に印象が変わっていくのだけれど。あ、でもソラリア3のスクリーンはひどい。で、★は2個のままにしておく。
(2011年06月03日、ソラリアシネマ3)
私はこの映画を福岡ソラリアシネマ3で見た。この劇場はスクリーンそばに大きな「非常出口」の案内がある。その緑色がスクリーンにまで映る。最悪である。森の緑の色が分からない。ほんとうはどんな色? それが気になってしかたがない。どうみても東南アジア特有のモンスーンの緑というだけではつたわらない、妙に薄暗い緑が多いのだが、美しいスクリーンで見たら何色? 冒頭の木につながれていた牛が脱走し、連れ戻される夜明け前(?)の森の色など、くすみ具合がきれいなんだろうなあ。深くてあいまいな色なんだろうなあ。タイのいなかの森へいってみたいなあと誘われるような気分になるだけに、ソラリアシネマ3の不完全なスクリーンが、ほんとうに頭にくる。
冒頭のシーンや、その他のシーンもほんとうは色が美しい――そう思いながら、見えない色(まだ誰もスクリーンに定着させたことがない色)に恋しながらスクリーンを見つづけたが・・・。
映画は東洋人には分かりやすすぎて、というか、いつかどこかでぼんやり聞いたことがあり、なんとなく知っているつもりのことなので、逆に分かりにくいかもしれない。輪廻? どこまでが知っていることで、どこからが知らないことなのか、それがわからない。映画で描かれることが、ブンミおじさん特有のことなのか、それとも自分のおじいさん、おばあさんが「なんまいだぶつ」とつぶやきながら聞かせてくれた話、あるいはどこそこのお葬式やお寺で聞いたお坊さんの話か、はっきりと区別がつかない。
あまりにも当たり前のように、死んだ人間が幽霊(?)になってかえってくる、動物になってかえってくるということが描かれているからかもしれない。登場人物が幽霊や猿になってかえってきた人間に対して驚いて見せない。あたりまえの感じで自然に受け入れる。自然すぎておもしろくない。「ブンミおじさんの森」という「固有名詞」の感覚が伝わってこない。「わたしのおじさんの森」という感じになってしまうのである。(私のように、いなかの、山の中で育った人間には、と断りがいるかな?)
この「自然さ」がちょっと逸脱して、猥褻になる部分は、しかし、おもしろい。
醜い森の女王がなまずとセックスするところが秀逸である。なんといっても、セックスシーンが延々とつづくのがいい。そうか、輪廻というのは、違った生き物のセックスを体験することか、セックスをすることは生まれ変わることか、と感じ、その主張に監督の「思想」を感じるのである。単に、幽霊や猿になった息子が出てくるだけでは、セックスと死(セックスのエクスタシー自体、小さな死、生まれ変わり体験だよね。「死ぬ!」って言うでしょ?)と生まれ変わりの感じが抽象的になるからね。セックスシーンがあるから具体的になる。つまり、肉体で知っている不透明なものになる。これがいい。なまずが「力演」しているのに笑ってしまうが、美しいのは、このときの水の色。透明じゃない。にごっている。あいまいである。この不明瞭の明瞭さ――不明瞭な世界では、セックスのように「触覚」が大事だねえ。触れることで、確かになる。わからないものが、肉体的に納得できる何かに変わる。
姥捨て山へ行くみたいに、おじさん一行が洞窟のなかへ入っていくシーンもいい。なんだか女の体内へ入っていくよう。手探りのあいまいさがいいよなあ。ここでも魚が出てくる。なまずと違って小さい魚。透明な水のなかに群れている。女王との比較でいえば、今度は男のセックスだね。魚は精子だ。おじさんは、最後の旅に「女体」のなかへはいって行き、そこで「精子」になる。いいなあ。この「精子」は何にでも変わりうる、つまり何にでも輪廻して、生まれ変われるということだな。(と、男である私は勝手に想像する。)
何にでも生まれ変われるからこそ、死が悲しくない。なんでもない事柄になる。そこには「いのち」は描かれているけれど、ほんとうは死は描かれていないのかもしれない。
全編を揺さぶっている変な雑音みたいな音も、あいまいでいいなあ。わからなくていいのだ。何かわからないけれど、どこかで聞いたことがある音だなあ――という感じが、映像のトーンととてもあっている。洗練された「音楽」だったらわざとらしくなるよなあ。
感想を書き始めたら、どんどんいい映画に印象が変わっていくのだけれど。あ、でもソラリア3のスクリーンはひどい。で、★は2個のままにしておく。
(2011年06月03日、ソラリアシネマ3)