杉惠美子「うごく」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年04月01日)
受講生の作品ほか。
うごく 杉惠美子
白木蓮の落下のあとに
寂しさはない
拡がる一筋の
ぬくもりと その気配は
春をあつめ
私の部屋へと
春を届ける
行間に落ちる
花びらが
潤いと 時の動きを告げ
遅れてやってきた
風は
少しはにかみながら
今を届ける
あらゆるものを忘れて
落ち着いた
時がうごく
「尺八の音が聞こえてくる。精神性が落ち着いている。白木蓮の落下に春のすがすがしい空気を感じる」「一連目『特に寂しさはない』がいい。三連目の『行間に落ちる』という表現が好き」「落下ということばが具体的で強い響きを持つ。気配や時間が動く。『行間に落ちる』という表現が詩的。最終連、春らしく、ゆっくりした空気がいい」「最終連にこころを動かされた」
三連目、時の動きと漢字で書かれているのが最終連で時がうごく、とひらがなになっている。(タイトルのひらがな)このことを、どう読むだろうか。
「感情が変化している。深淵を感じる」「意識/無意識の対比。柔らかさ、しなやかさを感じる」「ひらがなの方が、動いている感じがわかる。漢字だと硬い」「漢字だと観念的な印象になる。行間ということばとはあっているが、最後はひらがながいい」
「最近の詩は、以前とは違った印象がある」という声も出て、それに対しては杉は「肩の力が抜けたのかなあ」と言っていたが、「爆発力が杉さんの特徴なので、以前のような作品も読みたい」との声も。
いろんなことばの響き、声の調子を試してみるのもおもしろいと思う。
私は四連目がとてもおもいしろいと思う。「遅れきてた」のなかに「時」が隠れていて、「今」と重なりながら、最終連に、もう一度「時」があらわれる準備をしている。とても丁寧な「伏線」だと思う。「少しはにかみながら」がどちらかというと観念的な世界に、やわらかな肉体感覚をもたらすのもとてもいいと思う。
*
めざめ 青柳俊哉
空のうえで涙をながしている
胚芽のようなもの
なみなみと泳ぐ球根の芽のようなもの
無意識への、植物的な覚醒
白く。うまれたばかりのわたし
淡く すがすがしく涙をながして
空をながれる
ふかふかのタンポポの帽子を被り 裸足のまま
時が根をおろさない風のようなもの
わたしの中から森や川や海をあふれさせて
岩々の嶺をくぐる 空から空へ
吹きぬけていくまっすぐな雪
「三連目、『白く。』という表記に注目した。六連目にはばたこうとする大きな意思を感じた」「タイトルについて考えた。最後に雪が出てきて、雪のことを書いているだとわかった。そして、こどもがはじめてる見る雪の印象をおとなのことばで書いているのだとおもった」「みずみずしさ、透明さを感じた。三連目の『白く。』は印象的」
そうした意見のなかで、こんな発言。
「最後の雪がないほうが好きだなあ。ないと、雪だとわからないけれど」
これは、とてもおもしろい。考えてみたい問題である。何かを読むとき、どうしても「わかる」を求めてしまう。しかし、「わからない」というのもとても大事。「わかる」と「わかった」と思って、すばやく通りすぎてしまうことがある。「わからない」につまずき、それが間接的に「通りすぎる」意識を覚醒させてくれる。
この詩に登場した句点「。」も、素通りしそうになる意識を覚醒させてくる。句読点というのは不思議なもので、そこには書き手の「呼吸」があらわれる。「呼吸」というのは、無意識の場合が多いのだけれど、無意識だからこそ、句読点が「誤植」されると、そこにたいていの筆者は気がつく。漢字やひらがなの「誤植」は見落としてしまうが、句読点の誤植には気がつくと、たしか五木寛之もどこかで書いていた。
この詩の場合「白く。」が最後の「雪」ということばを結晶させているようで、とてもおもしろいと思う。
*
「永遠に桜なるものが われらを高きに導く」 堤隆夫
会いたいときに 会えない
人生は いつもそうだった
ふるさとの桜の花よ
そなたは今日も しとどに濡れ
花嵐に泣いているのか
会いたい人に 会えなくて
切なくて 苦しくて
今日も こぼれ桜の涙なのか
思いながら 散って行く
この世から 思い出だけで散って行く
わたしと桜 わたしとまだ見ぬあなた
ひとの世は 一期の花筵
泣きながら 微笑みながら 散って行く
心に秘めたひとのことを
銀河の果てまで探し求め
泣きながら 微笑みながら 散って行く
すべて世はこともなしか?
桜の花よ そなたは徒花だったのか
純粋ゆえに儚きものたちよ
寂しくて散るのなら それも人生
人生の目的が 心の平安ならば
そを乱す 自らの死の想念を超え
花霞の桜川の此岸で そなたと共に 無心に舞い続け
共に闘い 桜雨に濡れながら 生き抜く
後世のより良き人生のため 現世の不条理と闘い続ける
それこそが あらまほしき人生
「あまりつかわないことばが多い。桜の花について、こんなに深く広くことばを展開していることに驚く。『寂しくて散るなら……』『銀河の果てまで……』が壮大な世界」「久しぶりに雄大な詩を読んだ。桜に仮託した強い意思が感じられる。最終連が強烈」「桜と人生を語る、力強く男性的な詩。『すべて世は……』が印象に残る。「こころの内を表現できるのはすばらしい。気持ちがわかる。生きる意味をこめて書いたのかなあ」
あまりつかわれないことば。たとえば「そなた」、「そを」。その音に含まれる太く重い響きがほかの漢字のことばと強く響きあっている。全体に「漢文」の響きがあり、ことばが凝縮されているのがとても印象的だ。
そのなかにあって、「思いながら 散って行く/この世から 思い出だけで散って行く」は「漢文体」というよりは、どちらかといえば「和文体」「ひらがな体」とでも呼びたくなるような文体だが、「思いながら」「思い出だけで」の呼応がとてもやわらかくて深い。「思い出だけで」の「で」という助詞がなんともいえず、不思議な味がする。「で」という助詞はつかいかたによっては、とても安易なものになってしまうのだが、ここでは「で」以外はありえないつかい方だ。
*
以下二篇は、受講生がみんなで読むためにもってきた作品。
スズメ やまもとあつこ
Ⓡ きのう
公園で スズメがすわっててん
Ⓐ どこらへんで?
Ⓡ あの大きい木の横の椅子のとこで
Ⓔ スズメ 何人いてたん?
Ⓡ ひとり
Ⓒ 誰かと一緒に見たん?
Ⓡ ぼくだけ
Ⓑ なんでスズメはすわってたん?
Ⓡ それはしらんけど…
そこに じっとおってん
あっ そうや
それで 近づいて
頭 なでてん
Ⓑ えーっ
逃げへんのん?
Ⓡ うん 逃げへんかった
Ⓒ スズメ 目つむってた?
Ⓡ 目は ぼくを見てた
Ⓛ どうやって 頭 なでたん?
Ⓡ こうやって
Ⓡは右手の人差し指一本でそっとなでてみせた
こどもの会話を聞き書きしたような作品。いままで見たことがないスタイルに注目があつまった。「聞き書き」であったとしても、どこまでほんとうかわからない。また、こどもの話していることばが、どこまでほんとうなのかもわからない。それが、たぶん、いちばん楽しいところだと思う。
「あっ そうや/それで 近づいて/頭 なでてん」と、突然雄弁になるところがポイントだと思う。最後の一行だけ「セリフ」ではなく描写なのだが、それが嘘だとしても、気持ちはほんとうなのだ。だから肉体が動く、というのは私の読み方だが。
気持ちが肉体を動かすのではなく、肉体が気持ちをつくっていく。そこから、ほんとうがうまれてくる、と私は感じている。
*
井上ひさし「せりふ」集
「うれしい」だけでは心もとないからこそ、
「キンツバを頬張った頬っぺたを
牡丹餅で叩かれたようなうれしさ」という具合に、
比喩の突支棒をかうのだ。
大袈裟であればあるほど、突飛であればあるほど、
比喩という名の突支棒は太くなり、丈夫になり、
そして「うれしい」ということばがたしかなものになる。
「国語事件殺人辞典」
人は誰でも口という楽器を持つス。
「國語元年」
(スは、原文は文字が小さい)
言葉こそ、
人間を他の動物と区別する
ただひとつの
よりどころなのであります。
「日本人のへそ」
闇がなければこの世は闇よ。
「夢の裂け目」
新しいもの、うつくしいもの、
すばらしいもの、
あらゆるものがゴミになる。
それが世界のありのままのすがた。
ただし、
ただひとつの例外は、時間じゃ。
「決定版 十一ぴきのネコ」
涙は各自(てんで)に手分けして
泣くのがいいのですよ。
「頭痛肩こり樋口一葉」
このなかで、どのことばがいちばん好きか。そう問いかけてみた。「涙は各自(てんで)に手分けして/泣くのがいいのですよ。」が人気があったように記憶しているが、ちょっとメモがなくなって、はっきりしない。「人は誰でも口という楽器を持つス。」はどういう意味だろう、という声もあった。ひとの声は、それぞれ響きが違うし、その響きが巻感情をなまなましくあらわすということかもしれない。「せりふ」なので、やはり役者の声をとおして聞いてみたいと思う。とくに「人は誰でも口という楽器を持つス。」は(たぶん)東北訛りで語られることを想定していると思う。そのときの「楽器」としての声を聞きたいという欲望を刺戟するせりふである。
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