韓国の田舎。
9人の子ども達はすでに独立し、田舎に住んでいるのは腰の曲がったおばあさんと脚が不自由なおじいさんだ。
おじいさんはもう30年も一緒に畑を耕している牛と一緒に毎日畑に向かう。
畑仕事をしながらも、暇をみては牛のえさになる草を取りに行く。
おばあさんに「農薬をまけ」といわれながらも農薬を使わないのは、牛のえさになる草が農薬まみれになるからだ。
牛のえさを買わずに草を毎日食べさせたから牛がここまで元気にいられたのだ。
口数の少ないおじいさんの持論は、本人の口からよりもおばあさんの小言の一環として見ている私達に伝わってくる。
「本当に私は不幸者だよ。こんな人と一緒になったばかりに、こんなに腰が曲がってもまだ畑に出て、草取りをしなきゃならない。」
おばあさんは腰こそ曲がっているが口は達者だ。しかし脚が悪いおじいさんは両手に杖を持ち、歩くのもやっとだ。自分の体を支えるだけでも精一杯なのに、背中には自分の体と同じ位の草を背負う。
そしておじいさんが持つ紐の先に繋がれた牛もおじいさんと同じくらいによろよろしているのだ。
お互いがお互いを支えあい、畑仕事をする毎日。
「もう畑に出るのを辞めればいい」という息子達に「休むのは死ぬ時だ」というおじいさん。
お互いがお互いを支えあって畑に向かう姿を見ながら、月並みだけれど、働くってなんだろう。生きるってなんだろうと思ってしまう。
こんな男と結婚して本当に苦労続きだったというおばあさんだが、おじいさんの具合が悪くなると、「おじいさんが死んだらどうやってこの先暮らしていけばいいか分らない」というのだ。
そんな言葉を聞きながら、支えあって生きるの意味も考えることになる。
***
12月25日 クリスマスの夜 仕事帰りに一人で鑑賞。
牛の鈴音が教会の鐘のように聞こえたような気もする。
9人の子ども達はすでに独立し、田舎に住んでいるのは腰の曲がったおばあさんと脚が不自由なおじいさんだ。
おじいさんはもう30年も一緒に畑を耕している牛と一緒に毎日畑に向かう。
畑仕事をしながらも、暇をみては牛のえさになる草を取りに行く。
おばあさんに「農薬をまけ」といわれながらも農薬を使わないのは、牛のえさになる草が農薬まみれになるからだ。
牛のえさを買わずに草を毎日食べさせたから牛がここまで元気にいられたのだ。
口数の少ないおじいさんの持論は、本人の口からよりもおばあさんの小言の一環として見ている私達に伝わってくる。
「本当に私は不幸者だよ。こんな人と一緒になったばかりに、こんなに腰が曲がってもまだ畑に出て、草取りをしなきゃならない。」
おばあさんは腰こそ曲がっているが口は達者だ。しかし脚が悪いおじいさんは両手に杖を持ち、歩くのもやっとだ。自分の体を支えるだけでも精一杯なのに、背中には自分の体と同じ位の草を背負う。
そしておじいさんが持つ紐の先に繋がれた牛もおじいさんと同じくらいによろよろしているのだ。
お互いがお互いを支えあい、畑仕事をする毎日。
「もう畑に出るのを辞めればいい」という息子達に「休むのは死ぬ時だ」というおじいさん。
お互いがお互いを支えあって畑に向かう姿を見ながら、月並みだけれど、働くってなんだろう。生きるってなんだろうと思ってしまう。
こんな男と結婚して本当に苦労続きだったというおばあさんだが、おじいさんの具合が悪くなると、「おじいさんが死んだらどうやってこの先暮らしていけばいいか分らない」というのだ。
そんな言葉を聞きながら、支えあって生きるの意味も考えることになる。
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12月25日 クリスマスの夜 仕事帰りに一人で鑑賞。
牛の鈴音が教会の鐘のように聞こえたような気もする。