ヒンズー教のお寺があるというlonely planetの記載を見て個人的に訪ねてみました。(観光コースにはない)ご承知のようにヒンズー教はインド人の宗教です。この地には古くからインド人が活躍していました。ところがこのお寺を管理していた人に聞くとこの人を含めて今は5人のインド人しかこの島にいないそうです。しかもよく聞いてみるとこの夫婦と3人の子供たちという1家族の5人だけということです。モザンビーク独立戦争と続く内乱でインド人はこの島を出て行ったそうです。その理由を聞きたかったのですが、私の英語力ではそれは不可能でした。どなたかインド人がこの島を出て行った理由をご存知の方がいらしゃいましたらお教えください。
この島は古くから栄えた貿易中継港とたびたび紹介しましたが、そのため多くの民族、多様な宗教を信ずる人たちが平和共存していました。その象徴がお互いに隣接したところにあるイスラーム教徒、ヒンズー教徒、キリスト教徒のお墓です。この写真では何が何だかわからないようですが。手前がキリスト教、向がイスラーム教徒、右がヒンズー教徒(インド人)のお墓だったと思います。観光資源として考えてももう少し整理すれば、と思いました。もうひとつの疑問は本来ヒンズー教徒はお墓を作らないはずなのですが、この点よくわかりません。何はともあれ宗教間の対立を越えた平和共存の象徴であるこの墓地群はもっと注目されてしかるべしだと思いました。ここは正規の観光コースには入っていませんでした。
前項で以前から栄えた貿易中継港だと紹介しましたが、この写真を見てください。私たちはこの島を回るクルージングをしました。靴を脱いでズボンをたくしあげて海の中を歩いてこの小さな船に乗り込みました。船が小さく、しかも1艘しかいなくて午前と午後の2組に分かれてのクルージングでした。どうも港もないようで古の貿易が盛んなころの面影や 今いずこ、でした。
モザンビーク島はアフリカ大陸から3km離れたほぼ南北に長い、長さ3km、幅200m~500m、人口1万5000人の小さな島です。
この島を世界史的に有名にしているのは1498年ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を通ってこの島に到着し、オマーン人の水先案内人を雇いインドに到着したことです。(2009年8月18日~20日に紹介)その後ポルトガルはこの島を支配しポルトガル領東アフリカの首都を置きました。現在の国名モザンビークはこの島の名前に由来します。ポルトガルの影響は深くモザンビークのただひとつの公用語はポルトガル語です。(2010年1月12日)
写真はヴァスコ・ダ・ガマです。なおこの写真は以前紹介したグイリゼ村の踊りと同じく西遊旅行社のパンフレットとホームページに使用されています。(2010年1月28日)
教会の内部をのぞかせてもらいました。私は今までバプテイスト派の教会をのぞいた経験がないのでよくわかりませんが、なんだかキリスト教の教会のようでなく現地の伝統的な宗教の色彩が色濃くあるような感じがしました。
付録
22日の朝日新聞の”GLOBE”にケニア・ナッツの社長佐藤芳之さんの 記事がありましたが2009年12月19日のブログでも紹介しています。
リチンガはただ宿泊だけでしたが、あさの散歩で見かけたところを以下3枚。
広場に飛行機の残骸がありました。何の表示もないので故事来歴はわかりません。後尾についているマークで国籍がわかるのでしょうが。ご存知の方がいらっしゃいましたら教えください。モザンビーク独立戦争のときのものではないのかな、と妄想をしました。