男は出稼ぎで島外に出かけ相対的に女が増え家庭を守る女が強くなります。その典型を次回紹介予定の城邑民俗村のガイドに見ることができました。この面魂をご覧ください。彼女は完ぺきな日本語で済州島の男はいかに怠け者で、女好きで、道楽者であるかを滔滔と話してくれました。彼女の弁舌に酔った同行の人たちはこの地の名産、五味子茶・馬の骨・夏草冬虫を大量に買い込みました。
済州島は三多と言われます。三多とは「石」「女」「風」が多いということです。
火山島なので土が少なく石が多いのです。写真のように畑は(水はけが良すぎて水田は少ない)は石垣で囲われています。漆喰のような接着剤は使われていませんが頑丈で適当に隙間があって風通しはよいそうです。
ここでこのような揺籃を見ました。8月2日に紹介したように蒙古の侵略に三別抄がここ済州島に拠り抵抗しましたが結局敗北し済州島は蒙古の直轄地になりました。そのため多くの蒙古人がここに住みつきのちのちまで蒙古の影響が残りました。この揺籃も蒙古の風習の名残だそうです。
写真は「耽羅国発祥地」とあります。そうなんです。済州島は15世紀まで独立した国、耽羅国でした。沖縄も1872年いわゆる「琉球処分」で日本に併合されるまで独立国でした。
金賛汀氏は「日本の地で、長じて学校で国語(朝鮮語)を習った私にとって、済州島方言を理解することは最初は、ほとんど不可能に近かった」(「異邦人は君が代に乗って」p12)と述べられていますが、沖縄方言もそうです。その他差別問題もそうです。
今回の旅行の最初の訪問地は済州島でした。
古事記、日本書紀に記載されている田道間守が耽羅島(済州島)へ天皇の命令で橘を求めて出かけたに始まり古くから日本とのかかわりが深い済州島です。
モンゴルが高麗を屈服させたとき義兵(7月3日参照)として立ち上がった三別抄が済州島で最後の戦いに敗北しますが、その三別抄が珍島から鎌倉幕府にともにモンゴルと戦うことを提案した文書を送っています。
日本植民地時代には済州島から多くの人々が日本(特に大阪猪飼野地区)にやってきています。1934年の統計では全島民の25%が渡日しています。(済州島からの渡日者が多くそれが猪飼野地区に集中した理由については金賛汀著「異邦人は君が代丸に乗って」をご覧ください)
「代書屋」という上方落語がありますが、そこには猪飼野の在日朝鮮・韓国人が登場します。(現在は差別的な要素があるということでそこの部分は削除されています)
したがって私がここで話をした全員が日本に縁がある人ばかりでした。土産物の女性は父が大阪生まれで済州島に帰国私が生まれたが、最後まで韓国語が不自由であったと話してくれました。
写真は済州島のガイド梁丁心さんです。彼女は済州島と日本の沖縄とは似たところがあると話してくれました。具体的なことはあまり話がありませんでしたが、なるほどと思いました。そこで次ページでそのことを考えてみます。
マックスバリューさんコメントありがとうございました。これからもときどき見てください。
釜山の商店街で見かけたお坊さんです。ちなみに韓国では仏教徒が約2割、キリスト教徒が約3割と言われています。アジアではフィリッピンに次いでキリスト教徒が多い国です。キリスト教はカトリックとプロテスタントに大別されますが、今回の旅行での私の感触ではその区別はあまり意識されていないような気がしました。プロテスタント?カトリック?と尋ねてもキョトンしている人が大部分でした。
ただし、藤原聖子氏によると「韓国は日本と比べると、宗教上のアイデンティティ意識強い人が多いようです」(「世界の教科書でよむ宗教」p159)とのことです。
全州韓屋村(後日紹介予定)で見た猫です。よく見てください。鎖につながれています。昼間はこのように鎖につながれ夜になるとネズミを取るため放されるそうです。韓国全土でこのような風習になっているのかどうかは確認しませんでしたが、この地方では一般的のようでした。