河はネレトヴァ河で川幅は狭いですが、かなりの急流で水深もかなり深そうです。
建造当初からこの橋から若者たちの飛び込み競技が行われてきました。内戦時には中止されていました。戦後復活しましたが、参加者はムスリム人だけでクロアチア人の参加がありませんでした。最近のNHKの世界遺産の番組でこの問題を取り上げ初めて一人のクロアチア人の参加があったことをレポートしていました。
写真はオスマン帝国時代11566年に建てられ1993年の内戦時に破壊、2004年に復元されたスタリ・モスト橋です。
歴史的価値だけでなく、再建を経ることによって、多民族・多文化の共生や和解の象徴となったという側面が評価され2005年に世界遺産に登録されました。
右側がキリスト教徒クロアチア人、左側がイスラーム教徒ムスリム人のコミュニティーです。
現地ガイドの言葉を添乗員が日本語に翻訳した言葉によれば「現在でも原始人はいまだこの橋を渡らない」そうです
ユーゴ内戦の3段階目は1992年に始まるムスリム人(イスラーム教徒)セルビア人(セルビア正教徒)、クロアチア人(カトリック教徒)によるボスニア内戦です。現在に至るまでその傷跡を生々しくとどめているモスタルの町を訪れました。
写真の下の白いところは補修していますが、上部には銃弾の跡が見えます。
私は疑い深いたちなので、添乗員に本当に運転手がクロアチアから来たクロアチア人ですかと尋ねました。バスを見てください、クロアチアのバスでしょう、とのことでした。というわけでバスがクロアチアから来たものであることが分かりました。
1991年のスロヴェニアの独立に始まったユーゴ内戦は第2段階のクロアチア独立とそれを阻止しようとするセルビア勢力との内戦になだれ込みます。お互いの排他的ナショナリストたちは民族の対立を全面に押し出します。クロアチア人はローマカトリック、セルビア人はセルビア正教会、使用する文字はラテン文字とキリル文字といった具合です。しかし言語は文字の違いがあっても大阪弁と東京弁との違いくらいしかなく、人種も同じスラブ系です。この内戦は1995年まで続きました。
写真は前半のガイドと運転手に代わっての、後半(ボスニア・ヘルツゴビナとセルビア)のセルビア国のセルビア正教徒のガイド(右)と、クロアチア国のローマカトリック教徒のクロアチア人の運転手(左)です。彼らは仲良くお互いに自国の言葉クロアチア語とセルビア語で話しているようですが、はたから見てもスムースに会話が成り立っているようでした。
私は今回の旅行で最も印象深い対照的なことがありました。ひとつはこの2人の仲良く会話をして仕事をしていたことです。片や10月22日に紹介したコソボのパスポートスタンプがセルビアで×印で消されたことでした。前者は平和へ歩みであり、後者は「平和いまだ来らず」を象徴していると思いました。
ブトリント(2010年10月1日の地図)は古代ローマ時代から6世紀のキリスト教時代に至るまでの遺跡が残され世界遺産に登録されています。
写真は古代ギリシア神話で医学の祖といわれるアスクレピオスの聖域です。アスクレピオスについては2008年2月8日~10日に紹介しているのでご覧ください
セルビアの民族的英雄はラザル侯ですが(2010年10月24日紹介)アルバニアではスカンデルベク(1405~1468)です。
彼はアルバニアの領主の子供として生まれましたが、オスマントルコに人質として送られイスラーム教徒になりオスマントルコの勇敢な騎士として活躍しその勇敢さからアレクサンダーにちなんでスカンデルベクの名前を受けました。1434年ごろ帰国しオスマントルコの軍司令官としてアルバニアを支配していました。1443年にキリスト教徒に改宗してオスマントルコに反旗を翻しました。その後25年にわたってアルバニアの独立を保ちますが、彼の死後アルバニアは1912年に独立するまでオスマントルコに併合されます。19世紀アルバニアの民族意識の高揚と共にスカンデルベクは対オスマントルコの戦士として民族的英雄になります。また彼はアルバニアの民族的英雄としてだけではなくイスラーム教オスマントルコに対してのキリスト教ヨーロッパの防波堤になったと考えられキリスト教ヨーロッパ世界の英雄でもあります。彼の子孫はイタリアに移住して対オスマントルコの戦士であるマルタ騎士団(2008年3月7日をご覧ください)に参加しています。そのせいか、イタリアの作曲家ビバルディはスカンデルベクというオペラを作っていますし、私は見たことはありませんが、ローマに彼の彫像があります。
写真はアルバニアの首都ティラナの中心部にあるスカンデルベク広場にある彼の彫像です。