アンタルヤから北西のコンヤを訪れました。最初に訪れたのは1251年セルジューク朝に作られた神学校、現在は陶器博物になっているカラタイ博物館です。写真左は建物の内部から天井を見たものです。ちょっと変わった天井ですがターキッシュ・トライアングルと呼ばれるトルコ独特の建築様式だそうです。展示物を一つだけ紹介(写真右上)ムハンマドがタイルに描かれていますが、現地ガイドのハーカンさんに言わせると「お釈迦様」似ているとのこと。(彼の知日、親日からか?)皆さんはどう思われますか? ここにもたくさんの子供たちが遊びに(勉強に)来ていました。
アンタルヤから東へ39㎞にあるアスペンドス遺跡に向かいました。ここには小アジア最大で保存状態完ぺきに近い大劇場があります。(写真左上)水道橋もありました。昼食は洞窟のレストランでいただきました。(写真左中)観光客もたくさん来ていました。写真左下の子供たちが手にしているのは?
パムッカレから南西にある地中海沿岸で最も発展しているリゾート地アンタルヤに向かいました。写真上はアンタルヤのホテルから見た地中海です。
写真中はアンタルヤ北東にあるローマ時代の都市ベルゲの遺跡です。この地は原始キリスト教の重要な拠点となったことで知られパウロがこの地で説教をしたことが聖書にも記載されています。(使徒言行録14-25)
土産物店が準備されていました。(写真下)
パムッカレで出会った食べ物を二つ紹介します。「ナン」のような薄いパンのギョズレメの製造工場?を訪れました(写真上)。おばさん(写真)の目がギョロメだから付いた名前ではありません。「燃え止しの上で焼く」と言う意味のトルコ語「közleme」に由来しています。中にチーズや野菜物など包んで食べる朝食やファーストフードのトルコでの定番の食べ物です。
昼食にレストラン「アパメカ」でトルコ名産「はちみつヨーグルト」(写真中)をいただきました。水分をほとんど含まなく粘着力が強いのでウエイターが逆さにしても落ちてきません(写真下)
アフロディシャスから少し内陸部に入ったパムッカレを訪れました。パムッカレとはトルコ語で「棉の城」という意味を持つようにこのような白い台地がありました。台地上部から流れ出た石灰成分が結晶したものだそうです。(写真上)
この地にヘレニズムからビザンツ時代にかけての共同墓地群があります。1000を超す墓地があるそうです。(写真中)
写真下はBC190年に始まった都市遺跡ヒエラポリスです。もちろん定番の円形劇場もあります。
エフェソスから少し東にあるアフロディシャスを訪れました。やはりエフェソスと同じ古代ギリシア、ローマ時代の遺跡群です。写真上は出土した石棺です。写真中はアフロディテ神殿です。
写真下は1世紀〰2世紀にかけて建てられた競技場です。長さ262m、幅59mで3万人を収容できました。競走、レスリング、ボクシング、種々のコンテスト、後には動物の競技場としても使用されました。その他収容1万人の円形劇場もありました。わたくしはこのような古代ローマの定番の遺跡を見るたびに思います。これだけの人々を楽しませる施設を作った古代ローマの支配者と、神社、お寺を作って祈るだけの日本の支配者との違いを。中国も。やっぱり古代ローマ、ギリシアの文化はすごい。
4回にわたって「エフェソス」を紹介してきましたが、その後、もう一度エフェソスに行く機会がありました。それは7年後(2007年)の「ギリシア周遊とエーゲ海クルーズ」というツアーでした。その時はトルコ領内にある「古代ギリシャ遺跡」訪問というわけでした。
その時はエーゲ海を渡りエフェソス観光の玄関口クシャダス港(もちろんトルコ領)に降り立ちました。(写真)その時一番に目に触れたのが“When in Turkey ***Do what most Turkish people do.”です。直訳すれば「トルコに来た時は、トルコ人がするようにしなさい」日本の諺で言えば「郷に入れば郷に従え」となるのでしょう。普通ならば” Welcome to Turkey”「トルコへようこそ」だと思うのですが。なぜちょっと失礼したような文言になっているのでしょうか。関空や成田空港に”When in Japan ***Do what most Japanese people doという看板があればどうなりますかね。皆さんどう思われますか?
この謎解きのキーワードは「ギリシアとトルコは犬猿の仲」と思います。添乗員の稲葉さんが面白い話しをしてくれました。煮出しのトルココーヒーは有名ですが、全く同じものがギリシアのもあります。そこでギリシアでトルココーヒーをくださいというと突然不機嫌になりそんなものはありませんというそうです。
さてその不和の原因は両国の歴史にあります。それについては2007年5月11日、14日に少し紹介しているので今回は省略します。
写真上はAD135年、ユリウスがローマ帝国のアジア州の総督だった父ケルススに捧げるため造らせた図書館です。このような巨大な図書館を、どのような階層の人が?どれだけの人たちが利用していたのでしょう?
写真中は演劇の上演や全市民参加の民会の会場にもなった市民にとって大切な大劇場です。2.4000人が収容できました。
写真下は遺跡を観光する人たちです。
公衆便所がありました。隣同士の会話は?(写真右上)
娼婦宿が残されていましたが、当時修復中で見ることはできませんでした。しかし「足跡の道しるべ」(写真右下)がありました。足跡の方向が娼婦宿の方向を示しているのだそうです。娼婦宿跡から見つかった粘土像がここの博物館の日本語パンフレットに記載されていたので転載します。(写真左)
聖母マリアの死地については2説あるそうです。通説では「エルサレム」ですが、ここ「エフェソス」という説があるようです。(ここの歴史博物館の日本語パンフレット)というわけで晩年の住居跡がありました。(写真左上)写真右は読みにくいですが、そこに掲示されていた日本語の説明文です。
なおこの地の有名人の一人にかの有名な古代ギリシア哲学者ヘラクレイトスがいます。panta rhei”(万物は流転する)で有名ですね。余談話ですが、わたくしの持病リューマチ(rheumatism)はこのrheiが語源です。痛みが流転するところから来ています。
写真左下は市公民館跡です。列柱の上には常時聖火が灯されていました。聖火を守る要職に就くのは、選ばれた市民でした。
写真左中では以前紹介したスルーガイドハーカンが説明をしていますね。
「桂連アップルバウム」さん、「NARUE」さん激励のコメントありがとうございました。
古代ギリシア→ヘレニズム→古代ローマにいたるエーゲ海最大の遺跡群エフェソスを訪れました。子供たちもたくさん遊び(勉強)に来ていました。(写真左上)最初に訪れたのは考古学博物館でした。写真左中は博物館の中庭です。何となく趣があったので。受付の女性二人が出迎えてくれました。(写真左下)日本語のパンフレットもありました。(後日紹介))展示物の紹介は一枚だけ。(写真右)古代ギリシア神話に登場するアルテミス女神です。
「arnrinana」さん、「izukun」さん、「ビオラ」さん、「Haru」さん、激励のコメントありがとうございました。
再開します。
トルコ観光は遺跡が多いのですが、現在のトルコ人とは直接には関係ないものが多いのです。というのはトルコ人がこの地にやってきたのは11世紀になってからです。最大の都市イスタンブールがトルコ領になったのは1453年のことです。したがってトルコの遺跡観光は古代ギリシア・ローマ、それ以前の遺跡がほとんどです。今回紹介するペルガモンもヘレニズム時代からローマ時代にかけて避けてペルガモン王国の遺跡です。写真左上はアクロポリスです。古代ギリシアと同じ名前ですね。写真左中は王宮です。古代ギリシア、ローマの円形劇場もありました。(写真省略)
写真左下はギリシアの医療の神アスクレピオンを祀った古代医療センターの跡です。
写真右はこの地で見かけたゲームで楽しんでいる人です。どんなゲームなんでしょうね。
エンディングノート
4日直腸がんの摘出手術を受けました。手術は無事終了。リンパ10のうち2にがんの転移が見られた(わたくしにはその意味は不明) ステイジ3。再発は20%〰30%。抗がん剤の使用は80歳以上の人には勧めない。22日退院。現在も便秘~下痢の繰り返し。早く酒が飲みたい!
今回の件に関して多数の人より激励のコメントをいただきありがとうございました。全くの天涯孤独のわたくしにはうれしくありがたいコメントでした。ありがとうございました。
ダーダネルス海峡をわたって小アジアの最初の観光地は有名なトロイ遺跡でした。ホメロスの叙事詩で古代ギリシア人が10万人の軍隊でこの地に遠征した話は従来架空の伝説物語とされていました。それを実際の物語と幼小児時に信じてハインリッヒ・シュリーマン(1822~1890)がトロイ遺跡を発掘して史実と確定しました。
写真右はホメロスの叙事詩で最も有名な「トロイの木馬」(あまりにも有名なので説明省略)です。写真左下は出土した水道管です。水道施設が整っていたのですね。
シュリーマンについて通常知られていることは間違ってという説を2008年2月4日に紹介しているので一部修正再録します。
トロイ発掘についてこの項の最初に述べたのはシュリーマンが幼少時にホメロスのイリアスに感動したのがきっかけと紹介しました。当時トロイの実在は疑問視されていました。彼は実在を証明するため事業を起こし費用をためました。そしてついにトロイの遺跡発見となるのが彼の自伝「古代への情熱」のストーリーでした。
しかし、最近の研究によればどうやらこの話しはシュリーマンのウソであったようです。
「シュリーマン 黄金と偽りのトロイ」(トレイル著 青木書店)はシュリーマンの日記などを厳密に考証し彼の幼少時の話しをウソであると主張しています。この本は私も読みましたが、キワモノ的なものでなく信頼が置けるものと感じました。(読んだのが数年前のため詳細は忘れたので以下のようなことを付け加えておきます)
インターネット上の百科事典ウィキペディアもこのトレイルによっているのか幼少時の話しをシュリーマンの虚言癖、見得によるものとしています。そして30歳年下の再婚相手の教養と美貌にコンプレックスを感じトロイの発掘が子供の時からの夢だったと語ってしまい発掘する羽目になったとしています。 また英語版のウィキペディアも幼少時の話しを証明するものはないと言う説を紹介しています。
トレイルの本で紹介されているシュリーマンの離婚、再婚の話しも面白いです。興味のある人はこの本をお読みください。
ついでにもう1つ。シュリーマンはトロイの発掘以前に日本を訪れ(1865年)約1ヶ月滞在して将軍家茂の行列など見学し日記風の記録を残しています。
エンディングノート
直腸がんの手術のため10月2日に入院します。そこでこのブログを当分(約4週間)または永久に休載します。
最近「生」への執着が薄くなってきました。生きるのが面倒くさくなっています。それで手術? 直腸がんの終末期の身体的苦痛は耐えられないほど辛いとのことで。
最初の訪問地は人口1410万人のイスタンブールでした。トルコ最大の都市ですが首都ではなく人口442万人の小アジア(アナトリア)にあるアンカラです。蛇足ですがイスタンブールはヨーロッパにあります。トルコの面積の97%はアジアで3%がヨーロッパ側にあります。
最初に観光したのはアヤソフィアでした。(写真上)ビザンチン帝国時代に作られたキリスト教の大聖堂でした。1453年ビザンチン帝国がオスマントルコに滅ぼされアヤソフィアはイスラームのモスクになりました。その時壁などに描かれていたキリスト関係のモザイク画などは土壁によって隠されました、その後第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北してケマルパシャの政教分離的政策で壁の一部がはがされキリスト教関係のモザイクが露出し博物館となりました。その博物館アヤソフィアをわたくしたちは訪れました。しかし2020年にエルドアン大統領のイスラーム強化の政策によりモスクに復活しました。
その他イスタンブールには歴史的建造物などが数多くありますが、それらは今回の旅行の最終日に訪れたので「トルコ」編の最期に紹介予定です。
写真中はイスタンブールのホテルからダーダネルス海峡→小アジアを望んだ風景です。
イスタンブールから(アレクサンダー大王も渡った)ダーダネルス海峡を渡ってトロイ遺跡に向かいました。(写真下はダーダネルス海峡渡る舩中・学生のようですね)
2000年10月2日〰16日「トルコ物語」というツアーに参加しました。 わたくしの初海外旅行は1995年の「エジプト・ギリシア・トルコ」でトルコはわずか2日間でしたが、今回は15日間フルです。なおその時の失敗談は2020年1月12日に「恥ずかしくて、怖くて、不思議なはなし」として紹介しています。(以下2006年2月27日の再録。一部修正追加)
今回の15日間のトルコを通じての現地ガイドはハーカンさんでした。写真左上はエフェソスの遺跡で説明しているハーカンさんです。写真左下はハーカンさんの名刺です。「波歓」の印鑑はカッコいいですね。
彼はイスラーム教の信者ではなくトルコでは珍しい存在だと自分で説明していました。なかなかのナショナリストでビザンチン帝国を1453年滅ぼしたオスマン帝国の征服王メフメトⅡ世(在位1951年~81)を尊敬していました。また4世紀にエジプトのカルナック神殿から運ばれてきた(合法?非合法?)オベリスク(写真右)がイスタンブールにありますが、これを見て私がハーカンさんにからかい気味に「エジプトが返してくれといっているよ」というと絶対に返さないと本気でいきまいていました。
彼の日本語は完璧でした。バスの中で日本からの添乗員が日本語に詰まった時すかさず助けを出した時は全員拍手喝さいでした。日本人よりも上手な日本語の使い手でした。その彼は日本語を始めてから5年くらいで、英語は子供の時からでペラペラのようでした。英語のガイドもするそうですが、日本語の方が疲れないそうです。語順が同じからだそうです。
ちなみに、トルコでは半分以上の大学に日本語学科があるそうです。
彼の祖父は現在のギリシャ領に住んでいたそうです。第一次世界大戦でトルコが破れ当時ギリシャに住んでいたトルコ人は現在のトルコ領に戻り、トルコに住んでいたギリシャ人はギリシャに戻りました。現在のトルコ領にあったギリシャ人の住居跡(カッパドキア近くのムスタファパシャ村)が観光地になっています。(後日紹介予定)
彼はイスラーム教の信者ではなくトルコでは珍しい存在だと自分で説明していました。なかなかのナショナリストでビザンチン帝国を1453年滅ぼしたオスマン帝国の征服王メフメトⅡ世(在位1951年~81)を尊敬していました。また4世紀にエジプトのカルナック神殿から運ばれてきた(合法?非合法?)オベリスク(写真右)がイスタンブールにありますが、これを見て私がハーカンさんにからかい気味に「エジプトが返してくれといっているよ」というと絶対に返さないと本気でいきまいていました。
彼の日本語は完璧でした。バスの中で日本からの添乗員が日本語に詰まった時すかさず助けを出した時は全員拍手喝さいでした。日本人よりも上手な日本語の使い手でした。その彼は日本語を始めてから5年くらいで、英語は子供の時からでペラペラのようでした。英語のガイドもするそうですが、日本語の方が疲れないそうです。語順が同じからだそうです。
ちなみに、トルコでは半分以上の大学に日本語学科があるそうです。
彼の祖父は現在のギリシャ領に住んでいたそうです。第一次世界大戦でトルコが破れ当時ギリシャに住んでいたトルコ人は現在のトルコ領に戻り、トルコに住んでいたギリシャ人はギリシャに戻りました。現在のトルコ領にあったギリシャ人の住居跡(カッパドキア近くのムスタファパシャ村)が観光地になっています。(後日紹介予定)