100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「古代文明ロマンの旅」編 恥ずかしくて、怖くて、不思議な話

2020年01月12日 08時00分57秒 | トルコ

 2016年3月8日の再録です。(一部修正)
この旅の最初の観光はトルコのイスタンブールでの「ベリーダンス」(注)でした。写真はベリーダンサーと脂下がった私です。そこでかなりのアルコール(種類は記憶喪失)を飲みホテルへ入りました。そこでちょっと外に出たところ「マイフレンド・マイフレンド」と叫んで近寄ってきたポン引き(イタリア人)と酔っ払った勢いで片言の英語のやり取りをしました。そのうちに自分のホテルへの帰り道もホテルの名前も忘れていました。そこで彼に近所のホテルの名前を挙げてもらいました。さすがにいくつかの名前の中から思い出しました。そこで義理を感じた私は「テンダラーズオッケー」という所に行くことになりました。そこでウクライナ出身のミニスカートの美女二人に挟まれてお酒を飲みました。
 オスマントルコ時代の宮廷ではウクライナ美女がたくさんいたことを思い出し歴史は繰り返すなどと暢気に思っていましたが、少し正気に成りヤバイと思い帰ろうとしました。やはり巨額な請求書が付きつつけられました。テンダラーズだったはずと抗弁しましたが、当然のことですが了解されるはずもありません。屈強な男4,5人に取り囲まれ小さな部屋に入れられました。そこでいくつかのやり取りがあって正気になった私はあきらめかけていました。とするとボスみたいな人が現れ首を部屋の入り口のほうに向け「帰れ」のサインをしたようでした。そこテンダラーをおいてすばやく?脱出しました。なぜ助かったのかはいまだに謎です。考えられるのはトルコが親日国であるということしか考えられません。 
 危機を脱してもその後もいけません。さすがホテルの名前は覚えていましたが帰り道がわかりません。通りがかり人に尋ねると親切に教えてくれるのですが、まったく方向違いばかりです。ホテルに帰ったのは空が明るくなってからのことでした。
(注)日本べリ-ダンス連盟「世界最古の踊りと言われるベリーダンスは、女神崇拝のための儀式として巫女たちが踊ったのがそのはじまりだと言われています。そして、豊穣を祝うための踊りとして、脈々とアラブの女性たちに受け継がれていきました。
広辞苑「(bellyは腹部に意)腹部をひねったり腰を振ったりする女性の踊り。西アジアやアフリカ北岸で行われる」


「イスラーム圏での例外的な自然崇拝」

2010年11月09日 09時23分42秒 | トルコ

 イスラーム教圏もキリスト教圏と同じですが例外的な光景をイスラーム教圏のトルコで見ていたので紹介します(トロイの遺跡の近く)。日本では神社などでよく見られる風景ですね。紙に願い事を書いています。現地ガイドのハーカンさんが珍しいもの見せると言って連れて行ってくれました。観光スポットではありません。ハーカンさんは何か秘密のものを見せるといった様子でした。イスラーム教徒にとっては許すことのできない異端の風習です。ハーカンさんはイスラームが来る以前の信仰だと説明していました。

 

 

 

 


世界のナン」編 トルコの巻 ギョズレメ

2007年08月31日 08時51分54秒 | トルコ

 トルコの有名な世界遺産パムッカレの近くで見かけかナンの製造工場?です。トルコではギョズレメといいます。おばさんがギョロ目だからではありません。これに野菜などを包んで食べます。

 写真はフイルムなので一回クリックして右下に拡大のアイコンが出るのでそれをも一度クリックしてください。


「ふれ合い 出会い」編 トルコ ハーカンさん1

2006年02月27日 09時02分02秒 | トルコ

 15日間のトルコを通じての現地ガイドはハーカンさんでした。写真はエフェソスの遺跡で説明しているハーカンさんです。

 彼はイスラーム教の信者ではなくトルコでは珍しい存在だと自分で説明していました。なかなかのナショナリストでビザンチン帝国を1453年滅ぼしたオスマン帝国の征服王メフメトⅡ世(在位1951年~81)を尊敬していました。また4世紀にエジプトのカルナック神殿から運ばれてきたオベリスク(次ページの写真)がイスタンブールにありますが、これを見て私がハーカンさんにからかい気味に「エジプトが返してくれといっているよ」というと絶対に返さないと本気でいきまいていました。

 彼の日本語は完璧でした。バスの中で日本からの添乗員が日本語に詰まった時すかさず助けを出した時は全員拍手喝さいでした。日本人よりも上手な日本語の使い手でした。その彼は日本語を始めてから5年くらいで、英語はコドモの時からでペラペラのようでした。英語のガイドもするそうですが、日本語の方が疲れないそうです。語順が同じからだそうです。

 ちなみに、トルコでは半分以上の大学に日本語学科があるそうです。

 彼の祖父は現在のギリシャ領に住んでいたそうです。第一次世界大戦でトルコが破れ当時ギリシャに住んでいたトルコ人は現在のトルコ領に戻り、トルコに住んでいたギリシャ人はギリシャに戻りました。現在のトルコ領にあったギリシャ人の住居跡(カッパドキア近くのムスタファパシャ村)が観光地になっています。(次々ページの写真)


[ふれ合い 出会い」 トルコ コンヤ4 旋舞教1

2006年02月25日 08時46分41秒 | トルコ

 コンヤはイスラーム教のスーフィズム・イスラーム神秘主義の一つメヴィレヴィー教団(旋舞教団)の発祥地として有名です。創始者はジャッラールッディーン・ルーミー(?~1273)です。牧野信也氏によれば「スーフィーとは神秘家をさすアラビア語であるが、元来これは(スーフ)『荒い羊毛』をまとった者、すなわちはかない現世をのがれ、粗末な衣をまとって禁欲的な生活をするムスリムを意味しており、後に神秘家そのものをさすようになった」(「イスラームの根源をさぐる」p55)また「(日本の)踊る念仏を思わせるもので、理論、理屈や教義としての宗教ではなく、体で、そして全存在で受け止め、体験できるものであったので、忽ち、民衆の間に広まっていった」(p59)

 私たちはイスラーム教にはスンニ派とシーア派しかないような理解をしていますが、このスーフィズムはイスラーム教史で重要な役割を果たしています。

 さてこの旋舞教団の創始者ルーミーの廟(博物館)に彼の言葉が書かれていました。近くに日本語訳もありました。(写真をなぜか写していない)「私のもとへ来なさい。あなたが無神論者でも偶像崇拝者でも拝火教信者でもかまわないから来るのです」私たちが理解するイスラーム教ではないですね。

 1927年アタチュルクによってこの教団は解散されましたが、ルーミーの廟は博物館になっています。そしてその特異の旋舞も観光用として毎年12月10日~17日だけ公開されているとガイドブックには書いてありましたが、なぜか2000年10月でも見ることができました。(写真)ガイドブックにもこの写真が載ってないので貴重?のような気がしたので紹介します。
 


「ふれ合い 出会い」編 トルコ コンヤ1

2006年02月23日 09時35分18秒 | トルコ

 トルコのコンヤで早朝の散歩をしていた時、写真のようにパンを売っていた青年?に出会いました。メルハバ(今日は)というトルコ語の挨拶をしてその後無言の会話?をしました。そこへ弟らしき中学生が出てきました。彼は弟にお茶を持ってくるように指示したようでした。香草が入ったお茶を勧めてくれました。大変おいしくいただきました。彼らも商売だろうと思い代金を支払おうとしましたが受け取りませんでした。
 トルコはクルド人を迫害し、アルメニア人の虐殺に対しても謝罪もしていません。しかし一人一人のトルコ人は非常に親切でした。しかも親日的でした。