文豪チェーホフ(1860~1904)は晩年病気療養のためヤルタに移り住みます。現在そこがチェーホフの家博物館として一般公開されています。白状しますと前回紹介したバルザックと違って彼の小説は読んだこともありませんし、彼の戯曲の芝居も日本ではポピュらーのようですが見たこともありません。写真は屋敷内の彼の像です。
部屋のテーブルにこのような紙が置かれていました。キリル文字、フランス語、英語などの文章です。これは英文に翻訳したもののようです。よく見るとラブレターですね。1836年6月19日の日付がありますね。興味のある方は拡大してお読みください。私も一度でもよいからこんなラブレターを書きたかったなー
その後1850年3月二人は正式に結婚します。バルザックの女たらしは有名ですが正式に結婚したのはこのハンスカ夫人だけでした。しかしバルザックは同年8月死亡します。バルザックは大食いで糖尿病だったと言われています。
このホテルに泊まったのはバルザック一人だけではありません。彼の愛人ハンスカ夫人と一緒でした。ハンスカ夫人(1801~1882)は現在ウクライであるヴェルヒヴニァという村で3000人の農奴を持つポーランド貴族ハンスキ伯爵の妻でした。彼女が暇を持て余しパリ在住のバルザックに手紙を書いたのが(1832)きっかけになりついに1833年スイスで密会をします。
1841年ハンスキ侯爵が死にバルザックは1847年ウクライナにやってきます。その時にとまった宿がこのジョルジョホテルと言うわけです。そこで部屋にはこのような物が飾られていました。
ウクライナのリヴィウのジョルジュホテルで指定された部屋に入ろうとすると写真のようなプレートが目につきました。フランスの小説家バルザック(1799~1850)がこのホテルに泊まりこの部屋を気に入ったと書いてあるのにビックリしました。
私は小説をあまり読まない方ですが、なぜかバルザックが好きで東京創元社「バルザック全集26巻」を購入して夢中で読んだ青春後期がありました。今は手元にはありませんが確かピンク色のクロスの表紙だったように記憶しています。
というわけで青春後期への思い出に「ミーハー」の嬉しいホテルの2泊でした。
この戦争時に兵士の看護、衛生管理などで活躍したのがかの有名なナイチンゲールでした。この活躍に感銘を受けたスイス人のデュナンが赤十字の創設を提唱することになります。ナイチンゲール自身は赤十字には参加しませんでしたが、彼女の活動が赤十字の発足に寄与したことは間違いないようです。現在は写真のように平和な市民の憩いの場所になっていました。
クリミア戦争(1853年~56年)はロシアの南下政策を阻止しようとしてイギリス、フランス、トルコが戦った戦争です。その最も激戦地であったのがクリミア半島のセヴァストーポリでした。その時の沈没船の記念碑がありました。
下からです。
佐藤さん沢山ご覧いただきありがとうございます。ドイツへお出かけとのことですね。すでにご覧頂いているかもしれませんが、ぜひ2007年3月16日、18日をご覧ください。ご覧いただければお分かりのようにどちらの写真も古いフィルムでボケています。できればきれいで鮮明な写真をと思っています。もし現地に行かれて撮影されたならば厚かましいお願いですが、お送りいただけないでしょうか。
映画の歴史スポットとしてはオデッサのポチョムキン階段は超弩級です。
第一次ロシア革命の1905年オデッサで起きた戦艦ポチョムキンで起きた水兵の反乱をエイゼンシュタインが映画化(1925年)した「戦艦ポチョムキン」の有名なスポットがポチョムキン階段です。
またも「他人の褌で相撲を取る」類で申し訳ありませんが、前回、紹介した朝日新聞記者伊藤千尋氏の一文をまた引用させていただきます。
「(モンタージュ手法の―私注)画面で名高いのは『映画史上最も有名な6分間』だ。反乱を起こした水兵に呼応する市民に向けて、皇帝の兵士が発砲する。銃を撃ちながら整然と階段を下る兵士、逃げまどう市民、母の手を離れた乳母車が赤ん坊を乗せたまま階段を落ちていく」
伊藤氏はこの階段に出会った感動を次のように書いています・
「映画を見た学生時代に、いつかはこの階段を歩こうと思った。それから40年以上。2日間の滞在中に10回も、上がっては下りをくり返した」
写真は上から見たもの。