第二次世界大戦中ウクライナのオデッサは1941年8月にナチス・ドイツに攻撃され73日間抵抗しますが10月に陥落し、その後地下に潜ってのレジスタンスが続きます。その地下が文字通り地下でした。300万年前にできたカルスト地形のオデッサは地下に広大な洞窟がありその後人間による石灰岩の採掘などにより総延長2500kmの地下通路になっていました。(この数字は現地のガイドとここの案内パンフレット。地球の歩き方では1000km。後記の伊藤氏によれば3000km)3000kmとすれば北海道~沖縄の距離です。オデッサの町の下は洞窟だらけなので高層ビルは建てることはできないそうです。此の洞窟で1500人パルチザン兵士と2000人の市民の抵抗運動が始まります。ここの現地ガイドによれば病人は無く少しの怪我人くらいで意気高く抵抗を続けたが最後は内部から裏切りが出て崩壊するに至ったということでした。
ところが日本に帰って「週刊金曜日5月18日」を見ると朝日新聞記者伊藤千尋氏のオデッサのルポがありかなり違ったことが書かれていました。そこでその一部を紹介します。
「彼らはここに3年間も住み続けた。外に出るのは夜だけ。悪臭と湿気のためリューマチや気管支炎になり、肌は灰色に変化した。暗闇の中での生活は精神に異常をきたす。ナチスの兵士が侵入しないかと監視するのは20分交代だ。それ以上監視を続けると気が狂ったという。1500人がここに入ったが、生き延びたのはわずか20人にすぎない」
案内のパンフレットにもただパルチザン兵士は勇敢に戦ったという話のみでこの間の経緯についての記載がありませんでした。
真相は?
写真は洞窟内の射撃訓練所ですね。ナチスのシンボルマークハーケンクロイツが見えます。
実は今はこの地は1941年のナチス・ドイツの攻撃を1カ月間耐えた要塞と言うことで有名のようで要塞公園として残されており写真のようなモニュメントがあり広大な広場に要塞博物館もありました。条約が締結された「白亜館」はこのナチス・ドイツの攻撃の時破壊されました。旅行社のパンフレットにもブレスト・リトフスク条約の締結の場所としての案内もありませんし、私が質問しなければ現地ガイドの前項のプレートの指示もなかったかもしれません。
第一世界大戦の終わり近くロシアでは革命が起きロマノフ王朝は崩壊しソヴィエト政権が成立します。革命政権は政権維持のためドイツ側とかなり不利な条件での単独講和を余儀なくされます。その講和条約が結ばれたところが現在のベラルーシのブレストで1918年のことでした。そこでこの条約のことをブレスト・リトフスク条約と呼ばれています。その場所は本来修道院として建てられたもので「白亜館」と呼ばれていました。現在は写真のように廃墟になっています。
写真を見てナンジャコレハと思われるでしょうが、じつはバスの窓から見える赤い屋根のようなものがウクライナのフォロスにあった当時のゴルバチョフ大統領の別荘で1991年反対派によってここに軟禁されクーデタが起きたところです。此のクーデタは失敗に終わりますが、これが契機になりソ連邦と共産党は崩壊します。ということで世界史的にもロシアにとっても重要な場所です。
残念ながらこのような写真になった理由は道路が高速で車は停車も徐行もしないので事前に教えてもらっていたにもかかわらず私の運動神経の鈍さのためこのような次第にあい成りました。この別荘を完全に写真に収めた人もいましたが。海は黒海です。
ソ連邦共産党時代の残像がありました。そうです。レーニン像をいくつか見ました、この写真は同じミンスクの国会議事堂広場です。さすがにスターリン像は見ませんでした。今までの旅行ではスターリンの生地グルジョワのゴリで見かけただけです。(2008年8月20日紹介)
歴史スポットとしては、すでに紹介したヤルタ会談のリヴァーディア宮殿は超弩級ですがその他にもこの地域には歴史に名をとどめるところがいくつかあります。そこでそのいくつかを紹介します。
ベラルーシのミンスクで1898年にロシア社会民主労働党、のちのソ連共産党の創立大会が開かれた木造家屋を訪れました。(写真)観光コースには入っていなかったので内部の見学ができなく外からの写真だけになりました。
当時レーニンはシベリア流刑中で参加をしておらず、参加したのは9人でしたがロシア革命で名を残したしたような人はいませんでした。
9人のうちの一人アレクサンドル・ヴァノフスキーは1919年に日本に亡命し、東京でロシア語教育と日本研究に携わります。そのまま1967年日本で亡くなりました。(「歴史の狭間のベラルーシ」p40)
ウクライナのチェルノフツイにある1875年創立のチェルノフツイ大学は2011年に世界遺産に指定されました。写真は正面入り口から見たものですが、lonely planet は「夢見る尖塔」と呼ばれていると紹介し、覚せい剤を使用しながらの旅行の感じがするとも言っています。建物を疑似ビザンチン様式、疑似アラブ様式、疑似ハンザ様式と説明しています。私にはよくわかりませんが、皆さんはどう思われますか。
ヨーロッパ最後の森と言われるベラヴェジ自然保護区はポーランドとベラルーシの両国にまたがり1万7千ヘクタールの広さがあります。ここの目玉はヨーロッパバイソンです。以前はヨーロッパ全土に生息していましたが一時絶滅しその後動物園などで飼育されていた数頭を基に回復されこの保護区で約300頭が生息しています。
最初に出迎えてくれたのはバイソンではなくイノシシでした。