100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「イラン」編 宗教 イスラーム教13 ニザール派2

2008年06月16日 08時25分25秒 | イラン

 到着したところは崖の上から砦を見下ろすところでした。右に見えるのが廟で左の小高いところが砦です。

 このニザール砦は日本のガイドブックにはありませんし、世界的に有名なlonely planet にも記載がなく学問的な研究も進んでいないようです。ここには盗掘を監視する役所があり、観光客は年に何人くらい訪れますかと、私は尋ねてみました。50人という返事でした。どうやら西遊旅行社ぐらいのようです、ここを訪れるのは。 

 旅行社からの資料にテヘラン大学留学中の山内和也氏からの(西遊旅行社への)イラン便りが記載されているのでその一部を紹介しておきます。

 「サミーラーン砦は本来はダイラム人が9世紀に建てた地方王朝の首都であった」それをアサシン(ニザール派)が占拠します。「アサシン占領中のサミーラーン砦については何ら文献中に言及がなされていないが多くのアサシンの砦の一つとして機能したものと推定されている」「砦の内部はひどく崩れてしまっているため、内部の構造は殆ど明らかになっていない」「これらの建造物はダイラム人の手になるものと考えられ残念ながらアサシン教団の活動の跡を明らかにしてくれるものはないようである」

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「イラン」編 宗教 イスラーム教12 ニザール派1

2008年06月16日 08時17分56秒 | イラン

 ニザール派はイラン北部のアラムート山城を根拠地に、11世紀から13世紀にかけて東はアフガニスタンからシリアに宗教王国を形成していました。彼らは刺客で政敵を暗殺するということで十字軍に恐れられ暗殺教団(アサシン教団)と呼ばれました。英語のassassination(暗殺)の語源は彼らが麻薬の大麻hasheeshを吸って暗殺を行うことからきているといわれています。しかし実際に彼らが大麻を使用していたとの証拠はないそうです。 このように彼らは対十字軍の戦士でしたが13世紀にこの地にモンゴル軍が侵入してきた時も中東最大の抵抗勢力でした。しかし教団の内部分裂もあり1256年アラムートは陥落しました。強力なニザール教団の敗北はモンゴル軍団の恐ろしさを中東に広めました。

 この信徒たちはその後各地に散らばり現在数100万人がパキスタン、インドなどに点在し社会的に重要な役割を果たしています。それについては近日パキスタンを訪れることにしているので「パキスタン」編で紹介する予定です。

 また、その後のモンゴル軍はイル汗国としてこの地に居座るのですが、首都などについて後日に紹介する予定です。 このアラムート砦を中心にいくつかの砦がありました。その一つサミーラーン砦にいきました。写真のように荒涼とした山岳地帯の道なき道をタクシーに分乗し、約1時間かけて到着しました。事前の話では路が途中でなくなるだろうから20分ほど歩くということでしたが、幸いどうやら車のまま到着しました。

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「イラン」編 宗教 イスラーム教 11 スーフィー教2

2008年06月14日 08時47分49秒 | イラン

 写真はシラーズにあるハフェーズ(1325~1389)というイスラーム圏で有名な詩人の廟です。彼はスーフィーの詩人で今も尊敬されてこの廟への参詣者は絶えることはないそうです。このようにスーフィー派は文化、政治に多大な影響力を持って来ました。今もイスラーム圏では強い影響力を持っており、隣のアフガニスタン、パキスタンでもそうです。イスラームはスンニー派、シーア派だけではないのです。 

 花谷みち子さんコメントありがとうございました。今後ともよろしく。

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「イラン」宗教 イスラーム教10 スーフィー教1

2008年06月14日 08時43分19秒 | イラン

 前述のようにイスラーム教にもたくさんの分派?がありますが今回スーフィー教団、次回にニザール派(暗殺教団?)を紹介します。

 スーフィー教そのものについては以前2006年2月25日にトルコのコンヤの旋舞教(スーフィー教の一派)で紹介しているのでそちらを見ていただくとして、ここではイランに関係する二つのことを紹介しておきます。

 1501年にイランに成立したサファヴィー朝はシーア派を国教(これが現在に至っています)にしますがこの王朝はもともとはサファヴィー教団というスーフィーの教団に由来します。写真はアルダビールにあるサファヴィー教団の祖シェイフ・サフィーオッディーンの廟です。

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「イラン」編 宗教 イスラーム教9 モスク3

2008年06月12日 08時16分32秒 | イラン

 モスクは前述のように「平伏してお祈りする場所」ですから中には何もありません。大切なのはメッカの方向(キブラ)ですから、その方向の壁が少し窪んでいます。ミフラーブといいます。

 写真はナタンズという村にあるモスクの内部ですが、この壁の窪みがミフラーブですが、見ての通り何もなく特別に神聖な場所でもありません。左に見える階段はミンバルと呼ばれる説教壇です。集団礼拝の時(金曜日)にここで導師が説教をします。 ミフラーブの下も少し窪んでいますが、これはシーア派だけにあるものだそうです。添乗員の瀬川さんの説明によればモスクがいっぱいになったとき外で礼拝する人と同じ位置にするためだそうです。 

 余談話を最後に一つ。イスラームの教えの根幹は神アッラーへの絶対的帰依ですがそのこと象徴するのがイスラーム圏で多いアブドゥーラという人の名前です。その意味は「神の奴隷」です。

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「イラン」編 宗教 イスラーム教8 モスク2

2008年06月12日 08時10分11秒 | イラン

 このモスクの入口です。14~15世紀にかけてゾロアスター教神殿(後記の予定)の跡に建てられたヤズドで一番大きいモスクです。

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「イラン」編 イスラーム教 7 モスク1

2008年06月12日 08時06分25秒 | イラン

 私はごく最近までモスクはどこでもモスクで多分アラビア語だと思っていました。ところが、これはとんでもない間違いで自分の無知の再発見となりました。モスクは英語でアラビア語ではマスジドmasjid だそうです。このmasjid が中世イスラーム圏になっていたスペインでメスキターmezquita に訛りそれがもう一度訛り英語のモスクになったというわけです。 (ドイツ語もフランス語も似ています)

 さてそのマスジドの意味は「平伏する場所」です。写真はヤズドにあるマスジドです。2本の尖塔(ミナレット=英語 ミナーレ=イラン)が見えますがイランでは一番高く48mあるそうです。尖塔は一般的にはアザーン(お祈りの呼びかけ)をするところと説明されていますがその他の意味もあるようです。

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「イラン」編 宗教 イスラーム教6 お祈り6

2008年06月10日 08時33分37秒 | イラン

 ホテルのロビーで休憩していたら添乗員の瀬川さんが「あの人ハーッジ(注)ですよ」と教えてくれました。どうやら帽子で分かるようです。そこで本人にそのことを確かめ写真の許可を得ました。後に「あの人の額にアザがあったでしょう」といわれて慌ててカメラを出して眺めなおしたところ(デジタルなので)確かにアザがありました。「祈りだこ、よ」と教えてもらいました。たびたびのお祈りでできたあざでした。

 イスラーム教徒にはこのような「祈りだこ」をつけている人は多いそうで「エジプトの故サダト大統領もその一人」とは片倉もとこ氏の話です。(イスラームの日常世界p69) 

 (注)  イスラーム教徒にとって大切な実践義務の5柱の一つメッカ巡礼を果た   した人で社会的な尊敬を受けている。

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「イラン」編 宗教 イスラーム教 5 お祈り5

2008年06月08日 08時21分20秒 | イラン

 前回紹介した「お祈り石」(この語は私の勝手な訳語です。又、石と表記しましたが実際は土くれ、)はお祈りする時、絨毯にこの石をおき額をつけて平伏します。したがってお祈りする場所であるモスクにはこの写真のようにたくさんの「お祈り石」が用意されています。

 ところでこの「お祈り石」を使用するのはシーア派だけです。そこで毎日のように新聞に出ている「シーア派」と「スンニー派」について少しだけ紹介しておきます。どの宗教でもたくさんの分派がありますがイスラーム教も例外ではありません。その代表的な宗派がスンニー派とシーア派で世界的には前者が多数ですが、イランでは後者が多数派です。 スンニー派はムハンマド(マホメット)の言行(スンナ)を尊重するところからきています。シーア派はムハンマドの従兄弟で娘婿のアリーの系統を指導者とする立場です。シーアというコトバは「派」という意味でアリーのシーア(アリーの派)のシーアが残ったものです。したがって厳密に言えば「シーア派」というのは「派派」ということになります。

 さてこのアリーの息子でムハンマドの孫に当たるフサインが680年カルバラー(バグダードの近く)で殺されました。そのとき遺体を持ち出すことのできなかったので近くの土くれを持ち帰りそれが「祈り石」になったと添乗員の瀬川さんが説明してくれました。

 日本に帰っていろいろ調べてもそのような話を見つけることができなかったので、再度旅行社に尋ねてみましたが良く判らなくイラン人の友達に尋ねてもらった結果、イスラームの教えでは人は神が土くれで作ったものでその土くれに返るという意味だとの返答でした。どちらが正しいのか、ご存知の方お教えください。

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「イラン」編 宗教 イスラーム教4 お祈り4

2008年06月06日 08時15分50秒 | イラン

 ホテルの部屋にはこのようなお祈りのための3点セットが用意されています。まずコーラン(ここでは英語の対訳がついていました)、お祈りをする時に敷く絨毯、それに左にあるのがモレーナ・マズと呼ばれる「お祈り石」です。これについては次回に紹介します。

 「ミチ」さんコメントありがとうございました。ぜひ「コンニャク問答」を観(これが肝要)、聴いてみてください。

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「イラン」編 宗教 イスラーム教3 お祈り3

2008年06月06日 08時09分01秒 | イラン

 前回紹介したようにメッカの方向に向かって5回または3回の礼拝はイスラーム教徒にとっては大切な行為です。このメッカの方向をキブラといいます。

 インドネシアの宇宙飛行士が「宇宙に出たらキブラはどっちだ」という問題を提起して論争になったことがあったそうです。

 そこでホテルの部屋には必ず写真のようにキブラの方向が矢印で示されています

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「イラン」編 宗教 イスラーム教2 お祈り2

2008年06月04日 08時17分27秒 | イラン

 お祈りは大切な行為ですから、テヘラン空港(ホメイニー空港)に写真のような表示がありました。” prayer room “ ( お祈り部屋)の方向が指示されています。

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「イラン」編 宗教1 イスラーム教1 お祈り1

2008年06月04日 08時12分01秒 | イラン

 旅行していて宗教に接するといつも落語の「コンニャク問答」(注1)と狂言の「宗論」(注2)を思い出します。私はこの二つは日本人の一般的な宗教観を表現していると思っています。この芸能は日本が世界に誇る文化遺産で日本国憲法9条とともに世界文化遺産に登録すべきだと日ごろから思っています。しかしそうはいってもこの3つが世界の常識になることなかなか難しいでしょう。というわけで「コンニャク問答」「宗論」の世界から宗教を考えるのはどだい無理ですが、イランでは宗教が生活の一部または全部を支配していることを考えイランでの宗教を少しばかり紹介します。間違いがあったり不敬なことがあればどうか寛容の精神でお許しください。 

 まず宗教生活の第一歩はお祈りでしょう。写真はメッカの方向に向かい(後記)お祈りをしている5月21日に紹介した運転手フセインさん親子の息子さんです。おやじさんは紹介したように休憩時は水タバコですが、息子さんはこのようにお祈りをよくしていました。親父さんのお祈りは20日間見たことはありませんでした。スンニ派は一日5回の礼拝ですが、シーア派は3回です。(スンニ派とシーア派については後記の予定) 

 (注1)「コンニャク問答」  旅僧のしかけた禅問答を住職に化けたコンニャク屋の主人が受け、互いに誤解して滑稽なやり取りをする話。

 (注2)「宗論」 身延山へ参詣した法華僧と善光寺へ参詣した浄土僧が道ずれになりお互いにわが仏が尊いとして争う。浄土僧は「南無阿弥陀仏」を唱え、法華僧は「南無妙法連華経」を唱えるうちにその文言が互いに逆になり分けが分からなくなる話。

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「イラン」編 ホメイニーとハメイニー2

2008年06月02日 08時09分12秒 | イラン

 これはモスクにあった彼ら二人の肖像です。私は現地ガイドに宗教施設にこのような肖像を置くのはイスラーム教の偶像崇拝禁止の教えに反するのではないかと尋ねました。彼は、黙して語らず、でした。

 あるホテルのレセプションに同じ写真があったので受付の若い美人に尊敬していますか?と尋ねました。” a little” と答えてくれました。微妙ですね。” Do you speak English? “ と尋ねられた時の私の返事はいつも” a little “ です。

 ある田舎のレストランのレジに紙幣のコピーが飾ってありました。それを見ていたらレジにいた中年の男性がホメイニーの肖像の紙幣を指して” bad “ (悪い)といい、もう一つの紙幣を指差して” good “ (良い)といいました。それを見ると前回紹介したパフラヴィー王朝の最後の王様の肖像が入った紙幣のコピーでした。

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「イラン」編 ホメイニーとハメイニー1

2008年05月31日 08時21分11秒 | イラン

 これはイスファハンのホテルの側壁にあったものですが、イラン国中にこの写真は氾濫していました。これほど政治的指導者(独裁者)の写真が町中に氾濫していたのは私の経験した範囲ではトルクメニスタンのニヤゾフ大統領だけです。(2006年12月23日~12月27日をご覧ください) 

 「指導者(イマーム)ホメイニー、ハメイニーに従いなさい」と書いてあります。 イランの日本語でのフルネイムはイラン=イスラーム共和国ですがそれ以前1979年まではパフラヴィー王朝でした。1979年民衆が立ち上がりパフラヴィー王朝が崩壊し亡命していたホメイニー(1902~1989)は民衆の圧倒的歓迎を受けて帰国し「ヴェラーヤテ・ファギーフ」(イスラーム法学者による統治)を唱え政治の実権を握ります。彼の死後後継者にハメイニがなり現在に至っています。

 私がホメイニーの名前を聞くたびにいつも思い出すことがあります。2002年11月パリのルーヴル美術館から美人ドライバーのタクシーに乗りました。車内では音楽が聞こえました。彼女はこのまま音楽を流してもよいかと尋ねました。いいですよと、答えました。これは祖国イランの音楽ですと、説明してくれました。そこで私はホメイニーを尊敬していますか、と尋ねました。彼女は強い語調で「ノー」と答えました。

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