メルハンガル城塞をぶらぶらしているとこのような正装?をした貴婦人?たちに出会いました。了解を得て写真を。
ジャイサルメールの次の観光地はジョードプルでした。1459年マルワール王国の首都として建設され1947年インド独立まで藩王国として機能しました。この写真はこの王国メルハンガル城塞の鉄鋲の門にある女性の殉死(サティー)の手形です。 インド(ヒンドゥー教徒)ではつい(最近まで)、夫に先立たれた妻は、夫を葬る荼毘の火中に身を投じて殉死することが美徳とされました。これをサティーといいます。19世紀以来たびたび禁止命令が出されましたが最近では1987年のサティーが話題を呼びました。賛美者が毎日数千人参拝に訪れました。賛成派、反対派で議論が沸騰しました。私は今でも非公然の形で行われているのではないかと疑っています。
その証拠に平均寿命の男女比を調べてみました。日本では2009年の統計では男100に対して女108.6です。(以下女性のみ表示)。2017年、107.6. インドでは2002年~2,006年には102.5 2012年~2016年には104.1
インドではかなり男女比が日本より接近しておりそれが最近では少し開いてきていますね。これはサティーが少なくなってきたことと関係していると考えるのですが。私の妄想かな。
ついでに妄想の続き。人間の平均寿命には女性のほうが長いのですが、国によってかなり違いがあります。その理由を考えるのも面白いのですが今回は省略して他の動物では。10年ほど前に上野動物園や大学の獣医学部に尋ねたところ不明との返事でした。ところが2019年10月4日の朝日新聞の記事に京都大学の研究チームによると、チンパンジーの平均寿命が28.3歳でオスが30.3歳、メスが26.3歳だそうです。またところが、2020年3月7日の朝日新聞によると哺乳類は「メスの子育てによるホルモン」でメスが長生きと書かれていました。ただしこちらは数字の裏付けなしです。
ついでにインドの女性に関する風習を紹介しておきます。結婚時に、花嫁の家族から花婿および花婿の家族に対して支払われる持参財をダウリーといいます。この持参財の額が桁外れで花婿の年収の数倍から数十倍になります。嫁入り先で持参財が少ないため追加要求され、いびられ自殺したり、殺されたりする例が1961年に「持参財禁止令」が出されたにもかかわらず年々増加しています。
そこで男女の出生率を調べてみました。インドでは女性に対する男性の比率は1.108で日本は1.057です。この差はダウリーかな。もっとも一番高いのは中国で1.16です。
最近ジェンダー・ギャップが話題になっていますが、この問題を考える際に、男女の平均寿命、出生率、健康寿命などのファクターも入れて考えるべきだと私は思います。
ジャイサルメールはキャメル・サファリの拠点です。私たちはサファリには出かけず、ちょっとだけキャメルに乗ってサファリ気分を味わいました。
前回紹介したようにこの地は東西交易の拠点都市であったので交易商人、貴族たちの豪華な邸宅が残されています。この豪華な邸宅はハーヴェリーと呼ばれています。イスラーム様式ですね。今もホテルでも博物館でもなく個人の私邸です。
1367年に造られた美しい人造湖です。かっては町の生命線でしたが、今では渡り鳥の集う砂漠のオアシスです。
ジャイサルメールはパキスタン国境から100㎞にあり人口(2万人説~5万5千人説)のかっては東西交易の要所にあった城塞都市です。1156年ジャイサル王によって建設されました。ジャイサルメールはジャイサルのオアシという意味です。
ビカネールからジャイサメールへ向かう途中の風景です。この地はパキスタンとの国境近くで砂漠地帯です。
宿泊はマハラジャのラルガル宮殿ホテルでした。現在もマハラジャ一家はこの宮殿に住んでいて空き部屋がホテルというわけです。マハラジャは本来はヒンディー語で偉大な王という意味でしたが次第に日本でいう戦国大名の名称になりイギリス時代は3分の1の地域がこのマハラジャからの間接支配地になりました。当時マハラジャは600以上いました。3分2はイギリスの直接支配です。イギリス帝国の典型的な間接支配体制です。したがってマハラジャはイギリスからは可愛がられ(?)マハラジャ自身もイギリス国民のような気分になっていました。このビカネールのマハラジャもそうでした。
「1887年から1943年まで統治していたここビカネールのマハラジャ・ガンガ・シン将軍は、ラージャスターン州の王子の中で最もよく知られており、インドの英国総督のお気に入りでした。第一次世界大戦中の帝国会議でインド代表、ベルサイユ平和会議で大英帝国を代表する帝国戦争内閣のメンバーを務めました。」(ウィキペディア英語版)
横道ついでに。ガンディーも最初はそうでした。イギリス留学を終えてアフリカに行ったとき差別を受け、始めてインド人意識に覚醒して、そこからインド独立を考え始めます。
もうひとつ横道。このガンディーのインド人意識の覚醒の時、南アフリカ原住民への差別についてガンディーはどう考えていたのかが、わたくしの長年の疑問でした。1999年に大阪外国語大学助教授秋田茂氏の論文「植民地エリートの帝国意識とその克服」(「大英帝国と帝国意識」の内の論文)に関連して秋田氏に質問をしました。以下氏の回答文の一部
「***ガンディーの関心は、もっぱら在住インド系住民の権利擁護に向けられており、現地人については、意識的に無関心を装っていた。あるいは、関心を振り向けるだけの余裕はとてもなかった、というのが実情ではないでしょうか。私も今回の論文では、ご指摘の点は少し意識しておりましたが、十分にフォローできませんでした」
アンダーラインの部分について(私)実証性がないのでわたくしの長年の疑問はいまだに疑問のままです。
ジャイプルの次の訪問地は北西330㎞にあるビカネールでした。「ラクダ国立研究所センター」があり見学しました。
マン・サガール湖にある藩主の避暑用の別荘ジャル・マハル(水の宮殿)です。同行者一同「行きたい!」でも駄目でした。
アンベール城から平地に降りてきた時の藩主(日本でいえば大名)はジャイ・シング2世でした。ジャイプルという名前は彼の名前に由来します。「ジャイの都市」です。
ジャイプルはピンクシティとも呼ばれますが、その象徴的な宮殿がこの「風の宮殿」です。1751年~68年にかけて造られました。宮廷の女性たちが、街の賑わいを見下ろされるように、と造られた5層の建物です。
アンベール城は1600年に築城された広大の山城で1728年に現在のジャイプルに遷都するまでのこの地を支配する宮殿でした。日本の中世の城が山城であった同じです。妹尾河童は「延々と広大なこの城塞の全貌をこの頁に描きつくせない」(p255 )と記述しています。写真は「勝利の間」と呼ばれているところでイスラーム様式ですね。