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100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「北インド周遊15日間の旅」デリー デリー城

2020年02月05日 08時01分08秒 | インド


 デリー市内の歴史的建築物を以下四つ紹介します。最初はデリー城です。ムガル王朝5代皇帝シャー・ジャハーンによって、1639~48年に建てられたお城です。赤い砂岩で築かれていて「赤い城」を意味する「ラール・キラー」と呼ばれています。

「北インド周遊15日間の旅」 アンベードカルと不可触民

2020年02月02日 07時59分52秒 | インド


 (30日はPC故障のため休みました。心身の故障ではありません)
 ガンディーと並んで忘れてはならない人物がアンベードカルです。日本では比較的馴染みが薄いようですが、わたくしにはガンディーと同等な人物です。(以下 2006年6月22日に紹介したものに一部修正)
インドムンバイ(旧称ボンベイ)の街中をバスで走っていると銅像が見えたので現地ガイドのセチさんに尋ねるとアンベードカルという人でインド独立後初代の法務大臣という説明でした。慌ててバスの中から写真を撮りました。私が写真を撮った理由は彼が法務大臣であったからではありません。彼は不可触民出身でその解放に一身を捧げその方法について、かのガンディーと鋭く対立しヒンドゥー教を捨て、最晩年に仏教徒へ改宗しました。それが理由でした。
 不可触民についてはご承知の方が多いと思いますので簡単に説明しておきます。ヒンディー語でアチュート(触ってはいけない)が英語のuntouchable になりそれが日本語訳で「不可触民」になったようです。ガンディーが名づけたハリジャン(神の子)は当該の人たちには不評のようです。彼らはインド独特のカーストの最下層というよりはアウトカーストと呼ばれるように制度の外に存在し「穢れ」て、いるとされ差別を受けてきました。現在は法的には差別はなくなりましたが社会的には強く残っています。数は全人口の約15%で1億5000万人になるとされ、日本の被差別民に比べて非常に多いのです。
 15日間通じての現地ガイド、セチさんはこの存在について最後まで言及しませんでした。彼は最上層のバラモン(ブラーフマン)の出身でした。余談ですが彼の毎日読むのはヒンディー語新聞ではなく英字新聞だそうです。
 アンベードカルとガンディーとの対立について少し紹介しておきます。「ブッダとそのダンマ」(山際素男訳、光文社新書)というアンベードカルの著書に寄せた山崎元一氏の解説(p397)に次のような簡潔な文章があります。
  「ガンディーが不可触民制はヒンドゥー教そのものとは関係なく、その廃絶はカースト=ヒンドゥーの懺悔・改心を通じてもたらせると主張したのに対し、アンベードカルは、不可触民制の廃絶はカースト制度とヒンドゥー教を打倒することによって、また不可触民自身の自覚と向上によって得られると唱える」
このようにしてアンベードカルは早くからヒンドゥー教から決別していましたが正式に仏教徒への改宗宣言は1956年のブッダ生誕2500年祭でのことでした。その年12月に享年65歳で「ブッダとダンマ」の最終稿に目を通しつつ世を去りました。この著書で彼は仏教が神と霊魂の存在を否定する宗教であることなど主張しています。
この本以外に彼の業績とカースト制について興味のある方は少し古くなりますが(1979年)「インド社会と新仏教」(山崎元一著 刀水書房)が参考になると思います。
また、日本からインドへ国籍を移し彼の衣鉢を継ぎ彼のこの新仏教の布教に奮闘している佐々井秀嶺氏が以前TBS系テレビの「不思議発見」で紹介されました。その後、彼の著書「必生 闘う仏教」が集英社新書で出版されました。

 (以下は2006年6月24日紹介の修正版)下部の写真は洗濯村の洗濯場です。
「洗濯」は不可触民の典型的な職業の1つです。(インドでは職業と身分とが密接不可分です)
 余談になりますが、インドは長期間ヨーロッパの植民地であったにもかかわらず現在に至るまでキリスト教徒が少ない理由は、最初に不可触民がキリスト教徒に改宗したのでそれを上層のカーストが嫌ったからだという説があります(「アジアの聖と賎」野間宏、沖浦和光共著p74)

「北インド周遊15日間の旅」 ガンディー2

2020年01月27日 08時07分18秒 | インド


 ガンディーは世界的な人物でした。例えばアメリカの黒人牧師、人種差別撤廃運動家、ノーベル平和賞受賞者のキング牧師(1929~1968)も彼に強く影響を受け尊敬していました。彼の記念館にはガンディーの銅像があります。(2017年9月23日に紹介)
 ガンディーの遺灰は世界各国に分骨されました。その一つをアフリカ・ウガンダのナイル河源流のヴィクトリア湖畔に見ました。(以下2009年11月29日紹介のものを縮小修正再録)写真はその記念碑ですが、ちょっと見にくいのでその英文を転記します。
             MAHATMA GANDHI (2 10 1869 –30 11 19489)
Universal  apostle of peace and non-violence whose ashes were immersed in the River Nile in 1948.
*****************
Unveiled by H.E Mr . Ik Gujral the prime minister of the Republic of India on 5th October1997
Lonely planet によればガンディーはここで筏遊びをしていたと書かれており、現地ガイドによればアフリカの独立を鼓舞するためにここに遺灰を流したと説明してくれました。、遺灰は1948年にナイルに流され1997年に当時のインド首相Gujral がこの碑の除幕式を行ったと書かれています 。
 この地はウガンダのインド人の巡礼地になりつつあるそうです。

「北インド周遊15日間の旅」 ガンディー1

2020年01月27日 08時03分18秒 | インド


 ガンディー(1859~1948)は非暴力の抵抗でインドの独立を勝ち取った人としてインド建国の父として世界的にも著名な人物であるかとは常識ですね。その彼の火葬場がデリー郊外に残されていて(写真)インド人の礼拝の場となっています。ヒンズー教は墓を作りません。したがって彼の墓もありません。
ついでの話ですがヒンズー教の親戚の仏教徒にも墓はありません。日本では「仏教=墓」というイメージがありますが、日本だけが特殊で日本以外の仏教徒は墓を作りません。
「お墓があるのは、仏教国では日本だけである。日本人は仏教と言えば、お墓を連想するほど、仏教にとっては不可欠なもの、仏教の一部だと思い込んで、お墓のない仏教など夢想だにしない。しかし、現在仏教が信奉されているアジアの各地を訪れれば明らかのようにお墓はどこにもない」(今枝由郎著『ブータンから見た日本仏教』p115)
もひとつ余談話。最近遺骨の取り違えが話題になっていますが、本林靖久氏はその著「ブータンと幸福論」(p135)で「(日本人は)葬送儀礼においても骨に対する執着が強すぎ、死者の儀礼の行きつくところが、遺骨の処理や保存に囚われすぎではないかと思う」と述べています。
終戦直後のベストセラーの本、竹山道夫の「ビルマの竪琴」はわたくしの初期青春時代の愛読書でした。この本に書かれている遺骨収集の話はビルマ人(ミャンマー人)にとってはほとんど意味のないことだったのですね。

「北インド周遊15日間の旅」 忘れることのできない話 二つ

2020年01月21日 08時01分16秒 | インド


この旅で経験した一生忘れることのできないことを二つ紹介します。前半は2006年6月2日の再録(一部修正)で後半は初出です。
 私はこの写真のすぐ後に起きた事柄を24年たった今も忘れることは出来ないし、一生忘れないでしょう。
 この写真はインドのジャイサメールというところのキャラバンサライ(隊商宿)がホテルになった、そして多分その昔、隊商たちのラクダを繋いだと思われる中庭でのものです。私と同行の1人とその中庭のテーブルでビールを飲んでいました。と見ると庭の片隅に父子が地べたに座ってみやげ物らしきものを広げていました。そこで私たちは子供にはつまみ、お父さんにはビールを勧め椅子に座るよう言いました。ところが二人とも椅子に座ろうとしません。地べたに座り込みました。どうやら彼らは不可触民(次回紹介)で同席は出来ないと思ったようです。
 同行の人が写真を撮りお父さんに送るから住所を書いてくださいといいました。お父さんは書けません。ホテルの人に書いてもらいました。そのときです。ホテルの人が住所を書いている手元に子供は食い入るような視線を投げかけていました。文字を知りたい、学校へ行って文字を習いたい、学校で勉強したいという強烈な眼差し、顔つきでした。多分プロの写真家であればその一瞬を切り撮っていたでしょう。私には出来ませんでした。しかし私の脳裏には強く焼きつき消えることはありません。今こうしてこの文章を書きながら老いの眼から涙が止まりません。

 この旅は最初から少し身構えたことから始まりました。最初のホテルで手持ちのスーツケースをホテルの従業員が運び入れてくれますがチップは事前に支払っているのでその場での支払はしないでくださいと添乗員からの指示がありました。ところが運び入れてくれた従業員は部屋にとどまり立ち去ろうとしません。明らかにチップを要求しているようでした。しばしにらみ合いの状態でしたが、あきらめた様子で立ち去りました。翌日、前回紹介したように釣銭をごまかされました。
ついでにあと二つ。ペットボトルの水を購入しました。ところがそのペットボトルは使用済みに水を入れたものでした。そのことに気づき抗議したところにやりと笑って新品と交換してくれました。両替所でのインドリラの束はホッチキスで止めてありました。
このようにインド人に対して身構えた状態の中で2月1日のエローラの観光(後日紹介)後ホテルに帰ると強烈な下痢がはじまりました。翌日まで続きその日のアジャンタの観光を取りやめホテルで休みを取りました。部屋のトイレのペイパーは2,3回使用するとなくなるなど不便がありました。その時このホテルの従業員(中高生ぐらいの男の子)がいろいろと世話をしてくれました。しかし身構えての気持ちは残っていました。翌日ホテルをバスで出発するときこの少年は手を振って見送ってくれました。その時初めて気が付きました。なぜお礼を言ってチップを渡さなかったのかと。24年たった今も胸が痛み後悔反省をしています。ごめんなさい。

「北インド周遊15日間の旅」 デリー2 大道商人(芸人)2

2020年01月18日 07時58分14秒 | インド


蛇使いです。不可触民の「蛇使い村」の人たちです。右側の蛇使いは少年ですね。もちろん撮影料は支払いました。
五島昭氏がその著「インドの大地で」(p68~69)で次のように紹介しています。
「ニューデリー南東120キロのウッタルプラデシュ州モラウバンド村の住民496人は全員蛇使いとその家族。全国蛇使い協会会長のドゥルガトナ曰く。『冬の10月~12月をのぞけば全員商売に出ています。ニューデリー、カルカッタ、ボンベイなどインドの都会は勿論、遠くネパールのカトマンズにも足を延ばします』」


「北インド周遊15日間の旅」 デリー2 大道商人(芸人)1

2020年01月18日 07時54分01秒 | インド


山田和はその著「インドの大道商人」(p299)で「インドを訪れたことのある人は、インドは一握りの富める人々に代表されるのではなく、大道で生きる商人たちのような貧しい人たちによってこそ代表されるということに異論を唱える人は少ないと思う」と書いています。というわけで人のいるところには必ず大道商人です。この写真の店であったかどうかは忘れましたが、ペプシコーラーを買って釣銭をごまかされたと、わたくしのメモにありました。

「北インド周遊15日間の旅」 デリー1

2020年01月15日 08時02分07秒 | インド


 1996年1月21日~2月4日の旅でした。今回からは土産物店への無駄な時間は無くなりました。
 香港経由でデリーに夕方到着しホテルに直行でした。デリー空港の出迎えは前回のカイロ空港の排気ガスとは違って香辛料の匂いでした。(注)
 翌日は終日デリー観光でした。上の写真はオールドデリーです。下はニューデリーで官庁街、各国大使館、高級ホテル、高級住宅地があり木々が多く広々としてきれいな街です。オールドデリーは庶民の街でこのような雑踏ぶりです。この繁華街チャンドニーチョクを私たちはリキシャー(日本語の人力車に由来)で観光しました。中央の二人の女性は同行者です。マスクをしていますね。よく覚えてはいませんがかなり空気が汚染されていたようでした。
 当時のわたくしのメモでは「オールドデリーとニューデリーでは極端な差がある」とあります。
 現在のインド人が学校で習う言葉に「Unity in diversity(多様性の中の統一)」があります。インド理解のキーワードです。ただし、Unityの現実にはいろいろと議論があるようです。

(注)この香辛料の匂いについては後日談があります。当時私はこんなにたくさん旅行をする予定はありませんでした。したがって旅行用のスーツケースは持っていませんでした。カメラは前回はインスタントで、今回ようやく安いフィルムカメラを購入しました。そのカメラ店で無料のスーツケース借りることにしました。帰国後スーツケースを返しに行きスーツケースを開けました。その瞬間強烈な香辛料の匂いが店内に立ち込めました。店主はびっくり仰天。以下省略。というわけで次回からは自前のスーツケースで。 インド旅行は香辛料の匂いで始まり香辛料の匂いで終わりでした。


「インドの結婚式」編1

2010年01月18日 08時14分38秒 | インド

 「盛大な結婚式ですね。西洋式でしょうか、アフリカ伝統な結婚式はどのようなですか」 というFengdanさんのコメント有難うございます。

 私もアフリカの伝統的な結婚式を見たかったです。世界各地で数は少ないのですが結婚式を見る機会がありましたが、服装は西欧流が多いような気がします。最近次のよう文章に出会いました。

 「バルカンを知るための65章」という本です。「結婚式と葬式」(p243~244)の章に次のようなことが書かれていました。

 「葬式と違って当事者の意識よる変化の速い結婚式である。私がその村で出席した結婚式で、新郎新婦が民族衣装を着て登場したことはなかった。***結婚式と違って葬式は当事者の意思が介入しないだけアルカイックな特徴を残す家庭儀礼である」 

 結婚式は当事者である若者の意思が強く働き伝統にとらわれないのに対して葬式は古い伝統を残す傾向があるということでしょうね。

 このブログでもいくつかの国の結婚にまつわる話題を紹介しました。 イスラームのヘンナの習慣(2006年5月31日)、イラン(2008年5月7日~9日)、馮丹さんの大連レポート(2088年12月5日~9日)、現職添乗員伊藤さんのヨルダン(2007年6月30日)、中国(2008年5月11日)、イエメン(2007年5月13日)レポートのなどです。

 未紹介のインドのウダイプールで出会った結婚式を紹介します。新郎が前後に子供を連れて乗り物で行進をしています。乗り物が何であったかは14年前のことで完全に記憶喪失です。象だったかな


「ちょっと珍しい」編 インド 孤独な青年?

2006年07月06日 08時47分26秒 | インド

  忘れ得ない写真の1つです。その理由を述べるのは日本語力の乏しい私には難しいことです。状況を述べておきます。ジャイサルメール近くのタール砂漠隣接のステップ地帯です。写真の向こうは茫漠たるタール砂漠です。近くに人家は見当たりません。1人の青年がたった4匹の羊を放牧して写真のようなスタイルで見守っていました。たったこれだけのことです。いろんなことを妄想しました。

 インドはものを考えさす国です。決して忘れることの出来ないシーンでした。