26日からこのブログの再開を約束しましたが、前回の「シリア、レバノン、ヨルダン」と違って構想がまとまりません。
ということでとりあえず予告のバインブルグ大草原を紹介します。雪山は天山山脈です。 白い鳥は白鳥です。
「『番外編』お墓 イタリア カタコンベ2」へのboschさんの9月2日のコメント「納得できません」について、以下のように考えています。
コメントをいただきありがとうございました。対応が遅れてごめんなさい。
boschさんのお考えは「カタコンベは本来墓地ではない(→迫害を逃れての地下である)」と「すべての皇帝が寛容であったわけではありません」の2点に要約されると思います。
まず前者からですが、私の知識の範囲では、カタコンベを「迫害」と関連づけて書いているのは130年前の岩倉使節団の「米欧回覧実記」(岩波文庫四p310この本については後日紹介の予定)と日本の世界史の教科書、広辞苑だけです。
手ごろのところから紹介しますと、正確さにおいて、かのブリタニカに匹敵されるとされるインターネット上の百科辞典wikipedia(日本語版、英語版)では墓地であるとしか書いていません。
ノーマン・デイヴィスの膨大なヨーロッパ史全4巻(各冊500ページ以上)では「死者の復活に対する信仰は、初期キリスト共同体の中で埋葬に特別な意味を与えた。*****42のカタコンベのうち3つはユダヤ人の墓である」(ヨーロッパ1 p364~365)とあります。
ヨーロッパでは共通の歴史認識を共有しようということで1992年に15歳から16歳を対象として欧州共通教科書「ヨーロッパの歴史」が作られました。そこにはカタコンベについての記述はありません。日本の世界史の教科書とはえらい違いです。
塩野七生氏の膨大な「ローマ人の物語」にもカタコンベの名前は出てきません。新潮社編集部の編の「塩野七生『ローマ人の物語』の旅」にはカタコンベについて項目としては取り上げられてはいなく他項目の中に少し記述がありますが「迫害」の文字はありません。(p77)
次に「すべての皇帝が寛容であったわけではありません」についてはその通りだと思いますが、私は「がいして寛容」を取りたいと思います。なおネロについては古代ローマ史の研究者秀村欣二氏の論文「ネロのキリスト者迫害は、その動機と性格に不明な点があり、またそれはローマ市に限定され属州に及んでいない」(岩波講座 世界歴史3 p59)に注目したいと思います。
なお塩野氏の「ローマ人の物語Ⅶ」(p466)にも同趣旨のことが述べられています。
boschさんの反論を期待します。
追記
わが乏しい蔵書の片隅に置かれていた世界宗教史叢書「キリスト教史1」の存在を忘れていました。
そこで蛇足的に。
カタコンベについての記述はありません。
迫害については「帝国の迫害は伝えられるほど継続的でもなければ凄惨なものでもなく、一方,教会側は多くの背教者の群れを出した」(p116)
ネロについては「キリスト教徒であること自体を処罰の対象とする一般法が確立され、これを発動した迫害であった、と断定することは困難」(p129)
ディオクレティアヌスについては「全治世22年間のうち20年近くもキリスト教に対して寛容政策とってきたディオクレティアヌスが、なぜ治世もおわりに近い303年に突如身を翻して迫害に転じたのか、その理由は必ずしも明らかでない。ディオクレティアヌスの宮廷、側近にはキリスト教徒が多く登用されていたし、皇妃と皇女もキリスト教に接近したといわれ、属州官僚にも軍隊にもキリスト教徒の存在は許されていた」(p171~172)