その後シラクーサはシチリアで強国になりますが北からはローマ、南からはカルタゴがシチリアに勢力を伸ばしてきます。その狭間で悩み結局はカルタゴを選びローマに滅ぼされます。(BC2 12) その時アルキメデスはローマ兵に殺されます。こうしてシラクーサはローマの属州になります。写真はそのローマ時代に作られたローマ円形闘技場です。(AD3世紀~4世紀) なおこの円形闘技場は長らく土砂に埋もれゴミ捨て場のようになっていましたが、1839年に発掘されました。
その後シラクーサはシチリアで強国になりますが北からはローマ、南からはカルタゴがシチリアに勢力を伸ばしてきます。その狭間で悩み結局はカルタゴを選びローマに滅ぼされます。(BC2 12) その時アルキメデスはローマ兵に殺されます。こうしてシラクーサはローマの属州になります。写真はそのローマ時代に作られたローマ円形闘技場です。(AD3世紀~4世紀) なおこの円形闘技場は長らく土砂に埋もれゴミ捨て場のようになっていましたが、1839年に発掘されました。
この写真はギリシア劇場近くにある「天国の石切り場」です。よく見ると上部に溝のようなものが見えますが、これは当時すでに利用されていた水道跡です。手前に見える樹木が密生しているところは、ペロポネソス戦争で犠牲になったアテネ(古代名アテナイ)の兵士の墓地です。ペロポネソス戦争はスパルタとアテネの2大勢力の覇権争いでしたが、シラクーサはスパルタ側についたためアテネが4万人の遠征軍をシラクーサに送り込みました。結果はこの遠征軍は敗北しそれがペロポネソス戦争のアテネ側の最終的敗北につながります。その時のアテネ軍の兵士たち(7千人)が埋められているところです。
前回、「多文化」と言いましたが、古くからいろんな民族が往き来しいろんな文化を今回訪れた地域に残していると意味で使用しました。おもなものをあげれば、フェニキア(カルタゴ)、ギリシア、アラブイスラーム、ノルマンということになります。
シチリア島のシラクーサも勿論例外ではありません。古代ギリシアの大数学者、物理学者アルキメデス(BC287 ?~212)の名前を聞いたことある人は多いと思いますが彼がシラクーサの人であるということを知らないは多いようです。したがって、彼を古代ギリシア人と呼ぶのは正しくなくシラクーサ王国の人、またはギリシア系シチリア人と呼ぶべきだとは坂本鉄男氏の説です。(「イタリア 歴史の旅」254)
古代ギリシアの一つのポリス、コリントスの人たちがこの地に移住して先住民シクリ人を捕虜、奴隷にしてここに彼らの移住都市(よく植民都市と呼ぶことがありますがこれは間違いだと思います。なぜならばコリントスとは全く対等であったからです)をつくったのがBC734年と言われています。
このコリントスから移住して人たちが、シラクーサを建設しギリシア劇場(写真)を造りました。その子孫の一人がアルキメデスです。このギリシア劇場はBC5世紀(6世紀説あり)岩場をくり抜いて作られ現在残されているのはBC3世紀に改修されたもので観客1万5千人を収容でき当時のギリシア半島を含めて最大でした。