1999年9月28日〰10月12日「ルーマニア、ブルガリア物語」というツアーに参加しました。その時のルーマニアについてはすでに紹介済みなので今回は未紹介のブルガリアの紹介です。ただブルガリアのスルーガイドのテオドラさんについては紹介済みですが、今回一部省略して再録します。それから未紹介部分を始めます。
ブルガリアを通じての現地ガイドは24歳の美人のテオドラさんでした。(写真)元駐日大使の娘さんでブルガリア語(当たり前)、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、ギリシア語がペラペラで日本語も少し分かる才女でした。(なお旧社会主義国では現地ガイドが大学教授のアルバイトであったことがよくありました)
テオドラという彼女の名前を聞いて私は「ローマ法大全」で有名なビザンツ帝国の皇帝ユスチアヌス大帝(在位526~565年)の后テオドラ(注)を思い出し尋ねると、にっこり笑って「そうです、同じ名前です」と答えてくれて自分の母親がギリシア人であると教えてくれました。(ギリシアではテオドラという名前はポピュラーのようです)しかし次の私の質問が良くありませんでした。「テオドラはprostitution(売春) に関係ある人と聞いていますが」彼女はやんわりとそれを否定しましたが。
(注)彼女(?~548年)はサーカスの踊り子から后妃になりました。彼女を 一躍有名にしたのは532年のことでした。この年増税への不満が爆発し、反乱が起きユスチアヌスは追放されそうになりました。絶望した彼は逃亡を決意しその準備をしました。そのときテオドラは次のような演説をしてユスチアヌスをいさめました。「たとえそれによって命ながらえるとしても今は逃げる時ではありません。****そこまでして生きながらえたところで、果たして死ぬよりよかったといえるでしょうか。私は古の言葉が正しいと思います。『帝衣は最高の死装束である』」この演説でユスチアヌスは逃亡を思いとどまり反撃に出て専制皇帝への道を歩むことになりました。
ブルガリアのプロヴディフ民族博物館で奴隷が描かれている壁画を見た時、ふとスパルタクス(注)の故地がブルガリアではなかったかと思いテオドラさんに確認しました。すると彼女は誇らしげにそうだと答えモニュメントは何処そこにあり、その他詳しく話してくれました。(英語なので殆ど理解不能)そこで私は今の話を同行の皆さんにも話してくださいと頼みました。彼女答えて曰く「日本人観光客はパチパチ(写真を写す格好)とショッピングだけに興味があるようなので」ということで話してくれませんでした。これにはひどく傷つきました。この一言で彼女は私の忘れえぬ人になりました。旅行するたびにこのことを思い出します。
(注)ブルガリアの地の先住民トラキア人の剣闘士奴隷で古代ローマを震撼させた奴隷反乱(BC73~71)の指導者。ハリウッド映画にもなっていて、確かカークダグラスが主演。
なお剣闘士奴隷について余談話を少しだけ。彼らは奴隷の中でも最下層とされていましたが、一面、現代のアイドル的な存在でもあリました。有名なポンペイの剣闘士訓練所の遺跡に貴婦人の遺体が発見されています。(未公開)アイドルとのデイト中にヴェスヴィオ火山が噴火したのです。
「プロヴディフを見ずしてブルガリアを見たことにならない」という現地英語版観光小冊子に次のような文章がありました。
The Thracian tribes would die rather than be slaves and it is little wonder that the legendary Spartacus , the leader of one of the biggest uprisings of slaves in Antiquity was a Thracian .
(トラキア人は奴隷になるくらいならばむしろ死を選びました。古代最大の奴隷反乱の有名な指導者スパルタクスはまさに1人のトラキア人であったことは疑いありません)(私注 実は古代ローマでの剣闘士奴隷にはトラキア人がかなり多かったようです)
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