韓国旅行(2011年)は10日間という比較的長いパックツアーでしたが、韓国と日本との関係を示すところにはほとんど案内されませんでした。意図的にそのような歴史的な場所への観光は削除されているようでした。そこで旅行最終日の38度線の観光をキャンセルしてこうしたところを訪れました。そのいくつかを紹介します。
まずは前回紹介した安重根のソウルにある記念館です。
安重根義士記念館については現地手配会社の高さんは「今後とも日本人のツアーコースには絶対に入らないでしょう。なぜならば安重根は韓国では国民的英雄だが、日本ではと、ここで言い淀みました」。そこで私が続けて「日本ではテロリストですか?(私がそう考えているのではありません)と尋ねましたが、答えは返ってきませんでした。
さてホテルでタクシーの手配を頼みました。ところが驚いたことにホテルの人は安重根義士記念館は知ってはいるが場所を知らないのでガイドブックを見せてくれとの話です。ホテルの前に駐車していたタクシーにホテルマンが話をしてくれました。これまた驚いたことにタクシーも知らないのです。ようやく知っているタクシーを見つけ出発しました。
1905年韓国を保護国にする乙巳条約を強要したときの責任者でありその後この条約によって設置された統監府の初代統監になった伊藤博文を日本に抵抗する義兵闘争をしていた安重根は1909年10月26日ハルビンで射殺しました。
安重根は伊藤博文の罪悪15カ条をあげ義挙の理由を以下のように述べています。
「私が伊藤を殺害したのは韓国独立戦争の一部であり、また私が日本の法廷に立つようになったのも戦争に敗れて捕虜になったからである。私は個人の資格でこのことを決行し
たのではない。韓国義勇軍参謀中将の資格で祖国の独立と東洋平和の為に実行したのであるから『万国公法』によって処理すべきである」
このように彼は今でいうテロリストではないと主張しています。
1910年2月5日死刑判決、3月26日死刑執行」
その彼を記念する安重根義士記念館が1970年造られました。写真は記念館の前にある銅像です。(キャプション)安重根銅像
安重根は1879年生まれ、1894年結婚、1897年カトリックに入信、1908年抗日義兵に参加、義兵戦争に敗れ1909年断指同盟を結成します。
抗日義兵とは、朴殷植はその著「韓国独立運動之血史」で以下のように定義しています。
「義兵は民軍である。国家有急のとき、ただちに義をもって起ち、朝令による徴発を待たずして従軍する適愾者である」
また、宮本正明氏は「1910年の『韓国併合』は、粘り強く継続された義兵闘争を徹底的な武力弾圧により圧殺するなかでなしとげられた」(東アジア近現代通史4)岩波書店 p317)と述べています。
断指同盟については写真の説明文をご覧ください。これは韓国の古い習慣で「弑逆の宣誓をあらわしています。(「週刊金曜日」825号鎌田慧「残夢」p53)
逮捕拘禁裁判をした日本の当局も安重根については一定の敬意をもって接していたようです。獄中では拷問もなかったようですし、死刑の判決後裁判官が上告を勧めてもいます。彼はそれを断ります。彼はまた獄中で自叙伝と東洋平和論を執筆していますが、裁判長はそれが完成するまで死刑執行を延期する処置を執っています。
彼の東洋平和論はヨーロッパの侵略に対して韓・日・中がお互い平等の立場で協力し共同で事にあたり東洋平和を守ろうと論じたものでした。
ちょっと余談噺になりますがでっち上げの大逆事件で幸徳秋水が逮捕された時(1910年5月)鞄の中に安重根の肖像写真がありそこに「安君一挙 天地皆振」と快哉の一句が書きつけられていました。(「週刊金曜日」852号鎌田慧「残夢」p52~53)
彼の手形です。前記のように断指で薬指が短くなっています。(キャプション)安重根の手形
彼は書が好きだったようです。彼の書が石に刻まれ記念館の入り口には沢山展示してありました。
記念館の広場には自然石の記念碑がいくつかありました、これは1979年に誕生110年記念事業として建立した故朴正煕大統領の揮毫碑です。
入館料は無料でしたが、来館者は少ないようで館内は閑散としていました。なぜか私には私の一挙手一投足を監視するように一人の女性がついて回りました。日本語も通じなくしたがって何の説明も案内もしません。ただ展示物の撮影の可、不可をやかましく指示しました。私の邪推かもしれませんが、日本人が何か展示物にいたずらをするのではないかと監視しているように感じました。館内には日本語を話す人は一人もいませんでしたが日本語のパンフレットはありました.
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