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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

臨時特別編「ケレン・ハオール13号」1

2011年12月22日 09時12分50秒 | イスラエル・パレスチナ

 「エチオピア」編の予定でしたが、変更してイスラエルの山崎智昭さんから送られてきた「ケレン・ハオール13号」の一部を2回に分けて紹介します。

 山崎さんは201044日に紹介したようにイスラエル旅行でお世話になった現地ガイドさんです。彼はイスラエル国籍を持つ日本人でアラブ人とユダヤ人の共学運動をしている方です。奥さんはユダヤ人で彼女の父親はアンネ・フランクに似た境遇の方です。「ケレン・ハオール」はその運動の機関誌です。詳しくは2010617日をご覧ください。

 

       恵伝、ハンド・イン・ハンド幼稚園入園

          中島ヤスシ

 

    恵伝ちゃんのプロフィール

       年齢:4才9ヵ月

       出生地:京都

       母親:日本人

       父親:ユダヤ人

 

9月4日、晴れて初登園

今年の9月から娘の恵伝が、エルサレム、ハンド・イン・ハンドの幼稚園に通うことになりました。偶然にも同じ保育園から他にも2人の子どもが入園しました。一人はアラブ人の男の子、もう一人はユダヤ人の女の子です。それぞれ5歳組、4歳組、混合組とクラスは違いますが、少しでも知っている顔があることは心強いものです。

今年はイスラムのお祭りが9月初めにあったため、新学期は9月4日から始まりました。その前の週に、幼稚園に新しく入園する子どもたちが,教室に慣れるように招待され、半日自由に園の中で遊びました。

そして9月4日に晴れて初登園しました。特別な入園式などはなく、普通に朝、親と別れて教室に入りました。恵伝は、事前の訪問で教室もわかっていたし、遊びたいおもちゃも見つけていたので、すんなり私から離れて園に入って行きました。このように最初の1週間は問題なく過ぎていきました。  

最初に直面した問題は……

ところで、私たちの住んでいる地区と幼稚園のある地区は街の正反対にあり、朝の渋滞のなか往復1時間半かけての送迎に負担を感じていました。近所でハンド・イン・ハンド校に通っている子どもたちの親と協力して、送迎を始めましたが、恵伝は、一番小さくてうまくいきませんでした。それに、送迎費として1カ月1万5千円分担しなければなりません。かなり高額の出費なのです。

朝の「お別れ」に泣く恵伝

そして再び私が送迎を始めました。ところが、園に着くと恵伝はなかなか私から離れず、別れる時泣くようになりました。10月に入り、以前の同じ保育園からハンド・イン・ハンドに入園した2人の子どもたちは、すっかり新しい環境に慣れたのに、恵伝は「お別れ」をいやがるようになり、毎朝問題を起こすようになりました。私は、最初のアプローチを間違えたことを痛感しました。そこで、恵伝が望むように朝しばらく一緒にいてあげたりして、再びクラスに慣れるよう手伝いました。その後2週間が過ぎて、恵伝が少し園に慣れてきた頃、ユダヤの新年で10日間の休みがありました。再び園から遠のいたので、また「慣らし」を始めなければなりませんでした。先生も協力してくれて、少しずつ朝一緒にいる時間が減っていきました。

帰りを嫌がる恵伝

ところが、朝これだけ嫌がるのに、午後迎えに行くと今度は帰りたがりません。これは良いサインです。そんな風に10月が過ぎ、11月に入りました。朝の通園も落ち着き、帰宅後、幼稚園でどんな風に過ごしたかも話してくれるようになりました。先生たちも恵伝は大分落ち着いてきたと連絡してくれました。

周りの人たちからは、なぜそんな遠くの幼稚園に通わせたのかと非難され、恵伝からは「もうハンド・イン・ハンドの幼稚園に行きたくない。近所の前の幼稚園に戻りたい」と言われました。主人は真剣に近所の保育園に戻すことも考え始めました。私は、当惑し挫折寸前の状態に追い込まれました。

なぜハンド・イン・ハンドを選び続けるのか

私はそれでも、なんとかがんばって恵伝をハンド・イン・ハンドの幼稚園に通わせ続け、1年後にもう一度検討しようと主人を説得しました。

なぜ私がそこまでハンド・イン・ハンドに幼児期から通わせることにこだわったのかというと、この時期の彼女の世界では、まだ自己と他者との境界があいまいだからです。人は普通大きくなれば、相手の属する集団でその人を判断するようになります。例えば、「恵伝がハンド・イン・ハンドの幼稚園に通っている」と私が言うと、周りの大人たちは「恵伝にアラブ人の友だちはできた?」と聞いてきます。でも彼女はその質問の意味がよくわかりません。なぜなら彼女にとっては、みんな同じクラスメートで、違いはその子がアラビア語を話すのか、ヘブライ語も話せるのかだけなのです。だから友だちの誰がアラブ人かと聞かれても、そのような境界線は、彼女の中にはまだ存在しません。

言語的側面から見れば1年前から通わせればもっと良かったのですが、丁度下の子が生まれたため、この送迎が困難だと思い断念しました。そのため4歳を過ぎた彼女は、すでにコミュニケーションを言語表現に頼るようになっていました。アラビア語に対しては、まだわからないもどかしさがあるようですが、それでも、一つずつ理解すると、そのアラビア語を私に教えてくれるようになりました。

そんな頃、イスラムの「犠牲祭」が始まりました。その前夜,父母も招待されて教室で夕食会がありました。夕方、下の子も連れて園に着くと「犠牲祭」とはどのようなお祭りかを、サブリン先生がアラビア語とヘブライ語で保護者たちに説明している最中でした。その後、男性がアラブの鍵盤楽器を弾き始めました。恵伝の話では、その人はサヘルという音楽の先生で、みんなに歌を教えてくれるそうです。子どもたちが教わった歌を、両親たちの 前で披露しました。アラビア語の歌で、最初子どもたちは恥ずかしがって、小さな声で歌っていました。そこで、周りのアラブ人の親たちが歌に参加、最後にはみんなで合唱になりました。それから、子どもたちが、音楽に合わせて遊戯をしたり踊ったりしてくれました。その後食事になりました。保護者の持ち寄りで、それぞれの家庭の味がしておいしかったです。最後に、午後の学童保育をしてくれるライラ先生が、子どもたちに一人一人プレゼントをくれました。

ハンド・イン・ハンドの特徴として、3つの宗教の祝日が休みになるため、休みが大変多いのですが、それぞれ休みの期間も何人かの先生が、有料で休日保育をしてくれます。この時期は子どもの数は通常より少ないので、保育は各教室合同で行われます。私はせっかく幼稚園に恵伝が慣れてきたので、この一週間の休みは長すぎると思い、この休日保育に通わせました。上の教室の子と仲良くなったり、先生の子どもたちも加わったりしました。恵伝曰く、「とても楽しかった」そうです。最近は朝、教室にはいると友達がやってきて、恵伝は一緒にその輪に入って行きます。また、帰宅すると、その日幼稚園でしたことを話してくれます。11月に入ってやっと新しい生活に恵伝は慣れてきました。私はほっとしています。

 写真は恵伝ちゃん。

 

 


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