昔、履歴書なんかに、趣味と言う項目があって、何を書けばよいのか、迷ったことがある。
大辞泉によると、趣味とは、1 仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄。「―は読書です」「―と実益を兼ねる」「多―」2 どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方。好みの傾向。「―の悪 ...」と書いてある。
昔から、私は、読書やレコード鑑賞と言ったものなら、すぐに書けるが、これなどは、好きでやっているような程度なら、趣味と言えるほど大げさなことでもないし、また、海外美術鑑賞旅やオペラやクラシック音楽鑑賞のための欧米旅行などということなどになると、1年に一回程度行くだけなら、本人にとっては大そうなことかも知れないが、趣味とは言えないような気がする。と言った感想を持っていた。
欧米に暮らしていた時には、頻繁に、あっちこっちの美術館や博物館、劇場、コンサートなどを巡っていたので、これらの鑑賞も趣味と言えたが、帰国してからは、例えば、イギリスの頃とは違って、シェイクスピア劇鑑賞も、殆ど機会が少なくなってしまったので、シェイクスピア劇鑑賞と言っても、戯曲を読むだけになってしまった。ので、趣味とは言えなくなってしまったと思っていたのである。
しかし、大辞泉の2の項目の「どんなものに美しさや面白さを感じるのかその人の感覚のあり方や好みの傾向」と言うことなら、頻度や関わりの深さを問題としている私の趣味感は、少し、ずれていると言うことになる。
音楽鑑賞の場合にも、私は、実際に劇場やコンサート・ホールに出かけて、生演奏を聴いて楽しむのを鑑賞と考えていて、DVDやCDで楽しむのは、いうならば、今様レコード鑑賞であって、同じ音楽鑑賞であっても、全くジャンルが違って来ると思っている。
この差は、実際に海外旅行をするのと、海外旅行の番組をテレビや映画やビデオで見たり、海外旅行記を本で読んだりするのと同じで、実体験と臨場感など経験的な観点から言っても全然別物だと思うのだが、それよりは、音源の違いによる差と言う要素もあって、旅程の違いはないのかも知れない。
しかし、昔、日本の音楽評論家など、クナッパーツブッシュなどの実演を聴いたこともないのに、レコードだけ聞いただけで貶して、某日本人指揮者を褒め上げていたのを知っているが、これなどは、比較以前の良心の問題であろうと思う。
音楽でも芝居でも、やはり、実演に接するのと、奏者なり役者が眼前で、生身の体で芸術を演じているので、機械的に反復される記録媒体とは、雲泥の差があるように思う。
まずもって、コトが行われる場所へ出かけると言うことから始まって、劇場での臨場感や雰囲気そのものも一種の鑑賞のセレモニーの一瞬であるし、何よりも、鑑賞の対象である奏者なり役者が、眼前で演じており、同じ空間を共有して呼吸していると言う掛け替えのない経験が、音楽そのものを聴くと言うことと同時に、何よりも大切なのである。
音楽や物語など、細かいディーテールなどは、劇場での鑑賞時よりも、テレビなどで見ている方がはるかに良く分かるのだが、感激なり喜びなりの感覚や感動は、劇場での方がはるかに強い。不思議だが、私の経験ではそうである。
したがって、同じ音楽鑑賞や観劇鑑賞でも、趣味としての違いはかなり大きくて、芸術云々、芸云々と言うことになると、もっと、差が大きくなるのではないかと思っている。
さて、趣味は読書です、と言う感覚だが、「どんなものに美しさや面白さを感じるのかその人の感覚のあり方や好みの傾向」と言うことになると、私の場合には、読書が趣味と言うことになる。
面白さを感じると言うよりも、読者そのものが、私の生活の重要な部分を占めていて、食べ物を食べて生きているように、読書をしながら、仕事も楽しみも娯楽も、すべて、読書が中心で動いていると言うことであろうか。
生き甲斐だと言うつもりはないが、生活時間の相当部分を読書が占めているのだから、本のない生活など考えられないと言うことである。
東京に出れば、と言っても、片道1時間と少しだが、必ず、書店の2~3軒ははしごして、時間があれば、神田神保町に出かけて行き、読めもしない筈なのだが、何冊かの本を求めて帰ってくる。
速読術ではなく、じっくり味わいながら傍線を引いたり付箋を貼って読んでいるので、読むのはかなり遅いのだが、もう少し若くて元気な頃には、専門書的な本が主体で、年間、200冊は下らなかったのだから、これまでの人生でも、何千冊かを読んだと言うか、本を通り過ぎたことになる。
今では、読書量も、随分少なくなってしまったが、それでも、本に囲まれた生活は変わっていない。
e-Bookや電子書籍や、タブレットには全く興味がないので、分厚くて重い紙媒体の本であり、地震の度毎に書棚から転げ落ちる。
しからば、「美しさや面白さを感じるのか」と言うことだが、確かにそう感じているから本を読んでいると思うのだが、もう少し言葉を変えると、知らなかったことを知る喜びと言うか、新鮮な知や美や善に触れる喜びと言うか、それを経験したくて、それを求めて本を読んでいると言う気がしている。
幸せなことは、友人の多くは、歳の所為で目が悪くなって本を読むのが辛くなってきたと言うのだが、私の場合には、近視用メガネを掛けてはいるが、全く苦痛なく何時間も机に向かうことが出来ると言うことである。
この幸せついでが、私の趣味読書を支えていると言うことのようである。
大辞泉によると、趣味とは、1 仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄。「―は読書です」「―と実益を兼ねる」「多―」2 どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方。好みの傾向。「―の悪 ...」と書いてある。
昔から、私は、読書やレコード鑑賞と言ったものなら、すぐに書けるが、これなどは、好きでやっているような程度なら、趣味と言えるほど大げさなことでもないし、また、海外美術鑑賞旅やオペラやクラシック音楽鑑賞のための欧米旅行などということなどになると、1年に一回程度行くだけなら、本人にとっては大そうなことかも知れないが、趣味とは言えないような気がする。と言った感想を持っていた。
欧米に暮らしていた時には、頻繁に、あっちこっちの美術館や博物館、劇場、コンサートなどを巡っていたので、これらの鑑賞も趣味と言えたが、帰国してからは、例えば、イギリスの頃とは違って、シェイクスピア劇鑑賞も、殆ど機会が少なくなってしまったので、シェイクスピア劇鑑賞と言っても、戯曲を読むだけになってしまった。ので、趣味とは言えなくなってしまったと思っていたのである。
しかし、大辞泉の2の項目の「どんなものに美しさや面白さを感じるのかその人の感覚のあり方や好みの傾向」と言うことなら、頻度や関わりの深さを問題としている私の趣味感は、少し、ずれていると言うことになる。
音楽鑑賞の場合にも、私は、実際に劇場やコンサート・ホールに出かけて、生演奏を聴いて楽しむのを鑑賞と考えていて、DVDやCDで楽しむのは、いうならば、今様レコード鑑賞であって、同じ音楽鑑賞であっても、全くジャンルが違って来ると思っている。
この差は、実際に海外旅行をするのと、海外旅行の番組をテレビや映画やビデオで見たり、海外旅行記を本で読んだりするのと同じで、実体験と臨場感など経験的な観点から言っても全然別物だと思うのだが、それよりは、音源の違いによる差と言う要素もあって、旅程の違いはないのかも知れない。
しかし、昔、日本の音楽評論家など、クナッパーツブッシュなどの実演を聴いたこともないのに、レコードだけ聞いただけで貶して、某日本人指揮者を褒め上げていたのを知っているが、これなどは、比較以前の良心の問題であろうと思う。
音楽でも芝居でも、やはり、実演に接するのと、奏者なり役者が眼前で、生身の体で芸術を演じているので、機械的に反復される記録媒体とは、雲泥の差があるように思う。
まずもって、コトが行われる場所へ出かけると言うことから始まって、劇場での臨場感や雰囲気そのものも一種の鑑賞のセレモニーの一瞬であるし、何よりも、鑑賞の対象である奏者なり役者が、眼前で演じており、同じ空間を共有して呼吸していると言う掛け替えのない経験が、音楽そのものを聴くと言うことと同時に、何よりも大切なのである。
音楽や物語など、細かいディーテールなどは、劇場での鑑賞時よりも、テレビなどで見ている方がはるかに良く分かるのだが、感激なり喜びなりの感覚や感動は、劇場での方がはるかに強い。不思議だが、私の経験ではそうである。
したがって、同じ音楽鑑賞や観劇鑑賞でも、趣味としての違いはかなり大きくて、芸術云々、芸云々と言うことになると、もっと、差が大きくなるのではないかと思っている。
さて、趣味は読書です、と言う感覚だが、「どんなものに美しさや面白さを感じるのかその人の感覚のあり方や好みの傾向」と言うことになると、私の場合には、読書が趣味と言うことになる。
面白さを感じると言うよりも、読者そのものが、私の生活の重要な部分を占めていて、食べ物を食べて生きているように、読書をしながら、仕事も楽しみも娯楽も、すべて、読書が中心で動いていると言うことであろうか。
生き甲斐だと言うつもりはないが、生活時間の相当部分を読書が占めているのだから、本のない生活など考えられないと言うことである。
東京に出れば、と言っても、片道1時間と少しだが、必ず、書店の2~3軒ははしごして、時間があれば、神田神保町に出かけて行き、読めもしない筈なのだが、何冊かの本を求めて帰ってくる。
速読術ではなく、じっくり味わいながら傍線を引いたり付箋を貼って読んでいるので、読むのはかなり遅いのだが、もう少し若くて元気な頃には、専門書的な本が主体で、年間、200冊は下らなかったのだから、これまでの人生でも、何千冊かを読んだと言うか、本を通り過ぎたことになる。
今では、読書量も、随分少なくなってしまったが、それでも、本に囲まれた生活は変わっていない。
e-Bookや電子書籍や、タブレットには全く興味がないので、分厚くて重い紙媒体の本であり、地震の度毎に書棚から転げ落ちる。
しからば、「美しさや面白さを感じるのか」と言うことだが、確かにそう感じているから本を読んでいると思うのだが、もう少し言葉を変えると、知らなかったことを知る喜びと言うか、新鮮な知や美や善に触れる喜びと言うか、それを経験したくて、それを求めて本を読んでいると言う気がしている。
幸せなことは、友人の多くは、歳の所為で目が悪くなって本を読むのが辛くなってきたと言うのだが、私の場合には、近視用メガネを掛けてはいるが、全く苦痛なく何時間も机に向かうことが出来ると言うことである。
この幸せついでが、私の趣味読書を支えていると言うことのようである。