熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立劇場十二月歌舞伎~「元禄忠臣蔵」

2011年12月26日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   5年前に、この国立劇場で、3回にわたって、真山青果の「元禄忠臣蔵」全編が上演されたのだが、あの時は、吉右衛門、藤十郎、幸四郎の3人が、内蔵助を演じ分け、内匠頭もお浜御殿の綱豊卿も梅玉が演じたと記憶している。
   「仮名手本忠臣蔵」のように古典歌舞伎として定着した見せて魅せる舞台とは違って、真山青果の「元禄忠臣蔵」は、虚実皮膜と言うか、真に迫った臨場感豊かな芝居であるので、感情移入が容易であり、そのまま舞台に入り込めるのが良い。
   その翌年に、仁左衛門が綱豊卿を歌舞伎座で演じたのだが、素晴らしい上方役者たちの登場で、正に、感動的な舞台を見せてくれた。

   最初の「江戸城の刃傷」の場では、定番の内匠守の殿中での刃傷の直後から始まって、切腹のために庭先に向かうところまでだが、千両役者梅玉の内匠頭の死を前にした静寂な芸を見る楽しみとは別に、歌六演じる多門伝八郎の情けある捌きと、駆けつけた片岡源五右衛門(歌昇)を庭先に伺候させて目を合わさせるシーンなどが山場で、今回の舞台では、あくまで導入部の役割を果たしている。

   何故、大石が仇討を目指して苦悶しているのか、そして、赤穂浪士の吉良暗殺が何故重大な意味を持つのかと言った真山青果の意識の核心部分は、次の「御浜御殿綱豊卿」以降で展開されている。
   吉良の面体を知りたいばかりに、綱豊の愛妾お喜世(芝雀)の身元保障上の兄・富森助右衛門(又五郎)が、「お浜遊び」見学を口実に御殿に潜り込むのだが、それを知った綱豊が、御座に呼び出して、煽りに煽って大石たちの動向を問い詰め、大学跡目相続の嘆願と仇討との矛盾に苦悶する大石の心情を説き、それとなく浪士たちの仇討への願望を示しながら、助右衛門たちの仇討の思いを確かめて笑みを残して座を立って行く。
   その前に、綱豊は、新井勘解由(梅玉)に、儒学の教えには反するが、浅野家の再興よりも仇討を応援したいと「討たしたいのう」と心情を吐露して、白石が涙を拭って応える。
   綱豊が、将軍にお家再興を嘆願して仇討の目がなくなったと早とちりした助右衛門は、能衣装を身に着けた綱豊を吉良と勘違いして切りつけるのだが、取り押さえられて、「義人の復讐とは、吉良の身に迫るまでに、本分をつくし至誠を致すことだ」と一喝される。

   この綱豊卿の舞台は、梅玉と仁左衛門の芝居を見ているが、二人とも匂う様な気品があって惚れ惚れとするお殿様ぶりであったが、吉右衛門は、また、別な風格と気品があるのだが、もう少し骨太で、どことなく野人の雰囲気があって、助右衛門を煽っていても丁々発止の迫力の差なのであろうか、響きに重厚さが増す。
   その意味でもあろうか、又五郎が、負けじとばかり全身全霊をぶち込んで、綱豊に立ち向かって挑戦しており、襲名披露後の進境著しさを感じて爽快であった。
   心を決めておきながら、明日、登城して綱吉に直々に願い出て認められると仇討ちの機会がなくなるぞ助右衛門を煽り、キッとした口調で「憎い口を利きおったぞ」と富森に言葉を残して笑みを浮かべて部屋を出て行く綱豊の余裕と、感極まって敷居を越えて綱豊に近づき涙を流して綱豊を凝視する助右衛門の火花の散るような魂と心の葛藤、正に、魅せるシーンである。

   大詰めは、「大石最後の一日」で、大石たちがお預けとなった細川家での切腹の当日の話である。
   同士を見送って、最後に、見送りの堀内伝右衛門(歌六)に、「初一念が届きました」と微笑んで、大石が、切腹の場へ向かって花道を去って行くところで終わるのだが、磯貝十郎左衛門(錦之助)とおみの(芝雀)の仇討に散った激しい恋が、実に切なくて感動的であり、ふたりを引き合わせようと必死になって奔走する歌六演じる伝右衛門と大石の優しさ温かさが、胸に響く。
   この二人の舞台は、前回も同じであったが、仇討のために結納の直後に消えた許嫁の本心を知りたい一心で生きて来たおみのの壮絶な思いと、結納の席で連れ爪弾いた琴爪を後生大事に懐中に忍ばせていた磯貝の至誠。大石は、それを知っていて、磯貝に琴爪を出せと命じるが、おみのにとっては、それで充分。泣き崩れるおみのに、知らぬ存ぜぬと拒み続けていた磯貝は、感極まって「婿に相違ござらぬ。」と叫ぶ。

   芝雀は、綱豊卿と助右衛門の板挟みになって右往左往するお喜世も様になっているが、このおみのの一途に思い詰めて、大石の諌めも願いも蹴って必死に「偽りを誠にしてみせる」と縋り付く姿は、正に、感動的で、この時だけは不思議にも、芝雀が女形であることを忘れてしまっていた。
   それに、今回は、歌六が、良い役に恵まれていたこともあるが、公明正大で潔白な目付の多門伝八郎の胸のすくような演技も良いが、この人情味あふれる伝右衛門も感動的で、おみのを語る時の長台詞の語り口の上手さは抜群である。

   最後になったが、吉右衛門は、歌舞伎ファンが、最も期待している大石内蔵助像を、最も的確に演じ切って、観客を満足させて喜ばせている歌舞伎役者であろうと思う。
   特に、今回の真山青果の「元禄忠臣蔵」のように、長台詞が、殆どを語り切ってしまっているような舞台では、その陰に隠れた心の叫びと言うべき奥に秘められた宝物のような作者の熱情を炙り出すことが必須であるのみならず、本当の大石なり綱豊卿の魂に乗り移ったような迫真の演技が要求されると思うのだが、そのあたりの芸の確かさは、流石であると感じ入りながら鑑賞させて貰った。
   梅玉は、正に、はまり役を、何時もながら立派にやりおおせているので文句の付けどころがなく、華のある舞台であった。
   今回、細川内記で登場した初々しい鷹之助を見て嬉しかった。
   
   ところで、忠臣蔵を見ながら、いつも思うのだが、この浅野内匠頭の切腹事件は、当時、繁栄を極めて大きな収入源になっていた赤穂の製塩業に対して、将軍綱吉と吉良義央の幕府側が、強引に製塩技術と塩販売の利権の譲渡を要求しており、この利権争いが伏流にあったと言う事実と、大石内蔵助が、製塩業で敏腕を振るおうとしていた実業家的な家老であり、スペイン文学をも学んだ学者で近松門左衛門の友人であったと言う歴史的な事実を、もう少し勘案すると、大石内蔵助像が全く変わってくる。
   そのあたりに視線を移した大石の一代記を忠臣蔵と絡ませて描いた舞台が出来れば面白いと思っている。
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