熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

宮崎駿著「本への扉ーー岩波少年文庫を語る」

2011年12月09日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   昨年、「借りぐらしのアリエッティ」公開と岩浪少年文庫創刊60周年を機に、宮崎駿が、400冊の中から、特に薦める50冊を選んだのだが、その本の紹介と、自らの読書遍歴や児童文学に対する熱い思いや、現在の世相を見つめながら、物語や挿絵や映画などについて語っている、非常に滋味深いほんのりとした香り豊かな本が、この岩波新書の「本への扉」である。
   最初の半分は、50冊の本をカラー写真で紹介し、一つ一つ、宮崎駿の思い入れと愛情のこもったコメントがついていて楽しい。
   世界的なアニメ映画製作者の芸術家と、猛烈企業戦士として突っ走って来た私とは雲泥の差ではあるが、ほぼ同じ年代であり、ある意味では、同じ時代に日本の歴史を生き抜いて来た経験から、共通の思いもあって、懐かしく読ませて貰った。

   まず、私自身が、ここに挙げられた岩波の本を読んだかどうかは定かではないが、似たような物語や同じような作品は、結構読んでいるが、著者のように、大学で児童文学研究会に入ったり、入社したアニメーション・スタジオに揃っていた少年文庫を片っ端から読んだと言うような経験がないので、この方面の本との付き合いは限られていて、まして、児童書籍の絵や挿絵に感動したり、魅せられたりと言った経験などは皆無に等しい。

   著者は、本は読まなければいけないとか、勉強はしなければならないと思っていたと述懐しているが、私には、そのような思いや強迫観念は全くなかった。
   それ程勉強はしなかったけれど、別に、嫌いではなかったので、苦痛ではなかったし、子供の頃は、宝塚の田舎に居たので、貸本屋なども近くになかったので、小学生の頃から、本屋に出かけて自分で読みたい本を探して買っていたし、小遣いは殆ど本に消えてしまっていたと思う。
   高校生の時に、総合雑誌「世界」を購読していたので、世界文学や日本文学と言った本は、かなり早い時期に切り上げていて、小説などを読むことはなく、政治経済社会や歴史、時事関連の本が多くて、そのまま、大学の経済学部に走り込んだとと言う状態で、リベラル・アーツ関係の読書に心掛けたのは、それ以降のことである。
   
   著者は、何かを仕入れるために怒涛の如く本を読んでいたので、例えば、「魔女の宅急便」の主人公の女の子のイメージは、児童書の中に沢山取り上げられているので、何だか、自分のなかに抽斗(ひきだし)があるぞと思ったと言っているが、とにかく、発想を豊かにするためにも、精力的な読書が必要だと述べている。
   茂木健一郎が、人間には無から有を生むオリジナリティの発想などはなくて、必ず、過去の経験や知識が何らかの形で結合して生まれ出でるものだとして、脳に記憶された経験と知識の豊かさが如何に大切かを語っていたことがあるが、これに相通じる発想であろう。
   また、創造性を生むのは、経験×意欲の函数で、経験を豊かにするのみならず、高い意欲・高いビジョンを保ち続けることが大切であると言っているのだが、読書は、正に、典型的な代理経験の手段であるから、本を読むことによって触発されるアウフヘーベンへの意欲が如何に大切かと言うことでもあろうか。
   更に、著者の場合には、絵に魅せられて、忘れられない挿絵が、映像の断片が視覚として強烈に記憶に残り、芸術を触発するのであるから、児童文学の価値には、計り知れないものがあると言うことであろう。

   ところで、ヴィクトリア朝のアンドルー・ラング世界童話集には面白い挿絵が沢山入っていて、あの頃は挿絵の黄金期として限りなく輝いていたが、経済的な没落の結果、イギリス文学の挿絵は、ぎすぎすしてきて、デザインチックになって、つまらなくなったと言う。
   丁度同じ現象が、今起こっていて、挿絵の時代から、映画になり、テレビになり、違うところに来て、更に、携帯で写した写真を転送すると言った調子で、個人的なものになって来て、現実に対するアプローチの仕方がどんどん脆弱になって行く。
   今や、アニメがなければ絵なんか描かなかったと言うような人がアニメをやっている時代になってしまって、画一化し、サブカルチュア―がサブカルチュア―を生み、どんどん薄まって行くと言うのである。

   「僕らは、この世は生きるに値するんだと言う映画を作ってきました。」と言う宮崎駿は、現在の崩れ行く社会を憂う。
   現在の状態は、衰えたとは言え、印刷物も溢れ、押しつけがましいテレビやゲーム、漫画が子供の中を埋め尽くし、悲鳴のような音楽も溢れ、この生活を続けようと必死になっているが、ダメな時が来て、惨憺たることが次々に起こる、終わりが始まったばかりである。
   先の話だが、敗戦後のような本当に焦土になれば、必ず、石井桃子が立ち上げた少年文庫のような新しいファンタジーが、また、生まれてくるだろうと言う。

   児童文学は、「生まれて来てよかったんだ」というものなんです。生きててよかったんだ、生きていいんだ、というふうなことを、子供たちにエールとして送ろうと言うのが、児童文学が生まれた基本的なきっかけだと思います。と宮崎駿は言う。
   本はいっぱいは要らない。50冊じゃなくて1冊あればよい。ハードカバーの重い本で、世界のことが全部書いてある本が出来ないものかと夢見ている。とも言っているし、子供の時に、自分にとってやっぱりこれだという、とても大事な1冊に回り逢うことが大切である。とも言う。

   私など、既に、何千冊と言う本を読んできたと思うのだが、良いと思う本は幾らかはあるが、これだと言う一冊は、残念ながら、思いつかない。
   児童文学に親しむ幼少年時代をミスった所為かも知れないと思ったりしている。
   
   

      
コメント
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