昨年の大震災で中断していた歌舞伎「通し狂言 絵本合法衢」の再演であるが、今回は、国立劇場創立45周年企画公演の掉尾を飾る舞台である。
お家乗っ取りを策す大名一族の左枝大学之助と、飛脚の無頼漢太平次と言う二人の極悪人を主人公とした殺人、殺人で話が展開して行く、救いようがないテーマの芝居なのだが、その全くキャラクターが異なった時代ものと世話ものの極悪人像を、歌舞伎界きっての二枚目俳優片岡仁左衛門が二役で演じるのであるから、当初から話題を読んだ歌舞伎公演だが、何せ極端に暗い芝居であるから、結構空席があって、日本芸術文化振興会のネット予約ページの空席表示が、いつまでも消えない。
四世鶴屋南北の円熟期の作品で、当初は、結構演じられたようだが、南北独特の悪人の魅力がテーマの残虐劇と言うことで、趣味の悪さと社会倫理観にそぐわないと言うことで、その後、上演は少なく、最近も、19年ぶりの仁左衛門による久々の再演だと言う。
もう一つ南北の作品で、私が引っかかるのは、登場人物の絡みが複雑で、話が込み入っていて、中々話の筋が分かり辛いことだが、今回のこの「絵本合法衢」の舞台は、本来、一日中延々と演じられている芝居を、たったの正味3時間少しの「通し狂言 絵本合法衢」に凝縮して上演しているのだから、これだけの素晴らしい舞台に仕上げた関係者の人たちの奮闘努力に敬意を表するが、とにかく、ごちゃまぜチャンポンで無理があって、すぐにはすんなりと芝居を楽しめないことである。
その点を考えれば、いくら長くても3時間くらいで2時間少しで戯曲の舞台を完結しているシェイクスピアの力量は大したもので、同じ極悪人を描いた劇でも、殺人などと言った凄惨さは一切なくても、オセロ―のイアーゴーがどんどんオセロ―を追い込んで行く悪人ぶりの凄まじさと凄さは、南北の及ぶところではない。
リアリズム主体の西洋劇のなせる業かも知れないが、私は、同じ複雑な芝居でも、メインテーマとサブテーマを巧みに組み込んで畳みかけるように舞台を展開して行くシェイクスピアとの差を、何故か、意識しながら芝居を追っていた。
今回の舞台を見ていて感じたのは、演じている仁左衛門の役者としての素晴らしさと言うか独特のキャラクターから醸し出す人間味だろうと思うが、これ程、殺人殺人のオンパレードで凄惨な芝居でありながら、話は話として芝居は芝居として楽しみながら、決して嫌味の一切ない舞台であったのに気付いて、おかしな言い方だが、感動さえ覚えているのである。
大名家の分家の大学之助は、いわば、仁左衛門にとっては、菅丞相と松王丸をミックスしたようなものであろうし、太平次は、いがみの権太の世界であろうから、千両役者仁左衛門にとっては、全くキャラクターの異なった二役を同時に演じるのは、何の造作もなかったのであろうが、今回の舞台は、孝太郎、愛之助、秀太郎と言った上方歌舞伎の役者たちが、重要な脇役として舞台をサポートしていたのも、雰囲気作りには大いに貢献していたのではないかと思っている、
今回の舞台で興味深かったのは、時蔵で、したたかな悪女うんざりお松と、大学之助を討つ高橋弥十郎(左團次)の妻皐月の二役を演じたのだが、四条河原の見世物小屋で屯する風来坊たちの親玉で蛇遣いのうんざりお松の悪に長けたしたたかさと悪辣さが秀逸で、
これが、結構色気があって、女房のお道(秀太郎)を差し置いて、男前の太平次にゾッコン惚れ込み、後釜になりたい一心でモーションをかけたり、太平次の欲しがる香炉をせしめるために、道具商田代屋へ強請に出かける。その口から出まかせの強請も結局暴かれるのだが、最後には、しつっこく付き纏うので煩くなった太平次に古井戸に投げ込まれて死んでしまうのだが、面白いキャラクターを好演していて楽しませる。
左團次は、今回は二役とも善玉で、重厚な舞台を務めており、重鎮として時蔵と東京組をしっかり纏めて華を添えている。
秀太郎のお道は、太平次の女房ながら、殺されそうになる田代屋与兵衛(愛之助)を助ける数少ない善玉で、仁左衛門や時蔵たちとの何でもない一寸した会話にも、実に味のある受け答えで応じており、流石であり、
義理の息子愛之助のしっとりとした爽やかな立ち居振る舞いや、実に豊かな情感と雰囲気を醸し出していつも好演する孝太郎たちの上方陣の演技は、上方の世話物の世界を髣髴とさせていて、不思議にも、南北ではないような感じがした。
ところで、私は、今回の「絵本合法衢」にしても、「白波五人男」などの任侠ものにしても、江戸歌舞伎には、悪人やアウトローが主役の芝居が結構多くて、悪の華などと言って、粋だ格好良いなどと言って囃す傾向があるのだが、なぜか、これにずっと抵抗を感じている。
ところが、先日、観世銕之丞の「能のちから」を読んでいたら、対談で三津五郎が、
「め組の喧嘩」とか、「加賀鳶の勢揃い」とか、別段深い意味はないけれど、ただただ、鳶頭がかっとしているだけで血が騒ぐような、喧嘩場の湯気が立つような場面はワクワクしました。そしてその場面に出ることが子供の頃からの憧れだった。この場面に出たかった。と言っていて、関東人は、やはり、江戸歌舞伎の任侠ものや荒事に共感しているのだと思った。
私は、やはり、元関西人である所為か、どうしてもナンセンスなアウトローものや筋も何もない荒事のパーフォーマンスにはしっくりと来なくて、どちらかと言えば、シェイクスピアに近い近松ものや上方の世話物・和事の世界の方が、楽しめるような気がしている。
尤も、猿之助が、蜷川幸雄との対談で、上方の和事にはまりこんで、大阪だ、名古屋だと、鴈治郎の追っかけから始まったと語っているから、役者夫々なのであろうが、幅の広さが、歌舞伎の世界なのかもしれないと思っている。
お家乗っ取りを策す大名一族の左枝大学之助と、飛脚の無頼漢太平次と言う二人の極悪人を主人公とした殺人、殺人で話が展開して行く、救いようがないテーマの芝居なのだが、その全くキャラクターが異なった時代ものと世話ものの極悪人像を、歌舞伎界きっての二枚目俳優片岡仁左衛門が二役で演じるのであるから、当初から話題を読んだ歌舞伎公演だが、何せ極端に暗い芝居であるから、結構空席があって、日本芸術文化振興会のネット予約ページの空席表示が、いつまでも消えない。
四世鶴屋南北の円熟期の作品で、当初は、結構演じられたようだが、南北独特の悪人の魅力がテーマの残虐劇と言うことで、趣味の悪さと社会倫理観にそぐわないと言うことで、その後、上演は少なく、最近も、19年ぶりの仁左衛門による久々の再演だと言う。
もう一つ南北の作品で、私が引っかかるのは、登場人物の絡みが複雑で、話が込み入っていて、中々話の筋が分かり辛いことだが、今回のこの「絵本合法衢」の舞台は、本来、一日中延々と演じられている芝居を、たったの正味3時間少しの「通し狂言 絵本合法衢」に凝縮して上演しているのだから、これだけの素晴らしい舞台に仕上げた関係者の人たちの奮闘努力に敬意を表するが、とにかく、ごちゃまぜチャンポンで無理があって、すぐにはすんなりと芝居を楽しめないことである。
その点を考えれば、いくら長くても3時間くらいで2時間少しで戯曲の舞台を完結しているシェイクスピアの力量は大したもので、同じ極悪人を描いた劇でも、殺人などと言った凄惨さは一切なくても、オセロ―のイアーゴーがどんどんオセロ―を追い込んで行く悪人ぶりの凄まじさと凄さは、南北の及ぶところではない。
リアリズム主体の西洋劇のなせる業かも知れないが、私は、同じ複雑な芝居でも、メインテーマとサブテーマを巧みに組み込んで畳みかけるように舞台を展開して行くシェイクスピアとの差を、何故か、意識しながら芝居を追っていた。
今回の舞台を見ていて感じたのは、演じている仁左衛門の役者としての素晴らしさと言うか独特のキャラクターから醸し出す人間味だろうと思うが、これ程、殺人殺人のオンパレードで凄惨な芝居でありながら、話は話として芝居は芝居として楽しみながら、決して嫌味の一切ない舞台であったのに気付いて、おかしな言い方だが、感動さえ覚えているのである。
大名家の分家の大学之助は、いわば、仁左衛門にとっては、菅丞相と松王丸をミックスしたようなものであろうし、太平次は、いがみの権太の世界であろうから、千両役者仁左衛門にとっては、全くキャラクターの異なった二役を同時に演じるのは、何の造作もなかったのであろうが、今回の舞台は、孝太郎、愛之助、秀太郎と言った上方歌舞伎の役者たちが、重要な脇役として舞台をサポートしていたのも、雰囲気作りには大いに貢献していたのではないかと思っている、
今回の舞台で興味深かったのは、時蔵で、したたかな悪女うんざりお松と、大学之助を討つ高橋弥十郎(左團次)の妻皐月の二役を演じたのだが、四条河原の見世物小屋で屯する風来坊たちの親玉で蛇遣いのうんざりお松の悪に長けたしたたかさと悪辣さが秀逸で、
これが、結構色気があって、女房のお道(秀太郎)を差し置いて、男前の太平次にゾッコン惚れ込み、後釜になりたい一心でモーションをかけたり、太平次の欲しがる香炉をせしめるために、道具商田代屋へ強請に出かける。その口から出まかせの強請も結局暴かれるのだが、最後には、しつっこく付き纏うので煩くなった太平次に古井戸に投げ込まれて死んでしまうのだが、面白いキャラクターを好演していて楽しませる。
左團次は、今回は二役とも善玉で、重厚な舞台を務めており、重鎮として時蔵と東京組をしっかり纏めて華を添えている。
秀太郎のお道は、太平次の女房ながら、殺されそうになる田代屋与兵衛(愛之助)を助ける数少ない善玉で、仁左衛門や時蔵たちとの何でもない一寸した会話にも、実に味のある受け答えで応じており、流石であり、
義理の息子愛之助のしっとりとした爽やかな立ち居振る舞いや、実に豊かな情感と雰囲気を醸し出していつも好演する孝太郎たちの上方陣の演技は、上方の世話物の世界を髣髴とさせていて、不思議にも、南北ではないような感じがした。
ところで、私は、今回の「絵本合法衢」にしても、「白波五人男」などの任侠ものにしても、江戸歌舞伎には、悪人やアウトローが主役の芝居が結構多くて、悪の華などと言って、粋だ格好良いなどと言って囃す傾向があるのだが、なぜか、これにずっと抵抗を感じている。
ところが、先日、観世銕之丞の「能のちから」を読んでいたら、対談で三津五郎が、
「め組の喧嘩」とか、「加賀鳶の勢揃い」とか、別段深い意味はないけれど、ただただ、鳶頭がかっとしているだけで血が騒ぐような、喧嘩場の湯気が立つような場面はワクワクしました。そしてその場面に出ることが子供の頃からの憧れだった。この場面に出たかった。と言っていて、関東人は、やはり、江戸歌舞伎の任侠ものや荒事に共感しているのだと思った。
私は、やはり、元関西人である所為か、どうしてもナンセンスなアウトローものや筋も何もない荒事のパーフォーマンスにはしっくりと来なくて、どちらかと言えば、シェイクスピアに近い近松ものや上方の世話物・和事の世界の方が、楽しめるような気がしている。
尤も、猿之助が、蜷川幸雄との対談で、上方の和事にはまりこんで、大阪だ、名古屋だと、鴈治郎の追っかけから始まったと語っているから、役者夫々なのであろうが、幅の広さが、歌舞伎の世界なのかもしれないと思っている。