熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ピーター・アクロイド「シェイクスピア伝」:シェイクスピアは頻繁に加筆訂正

2023年10月21日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   興味深いのは、シェイクスピアは、生涯ずっと自作に改訂を加え続けたことは、すでに注目の対象となっていたとして、自作の戯曲を頻繁に加筆訂正して、決して、決定することも固定することもなかったというアクロイドの指摘である。レオナルド・ダ・ヴィンチが、死の床まで、「モナリザ」を持ち込んで筆を加え続けていたと言うことを思い出して、非常に感慨深い。

   シェイクスピアは、ものすごい速さと緊張感を持って執筆していたようだという。思いのままにエネルギーとインスピレーションを呼びおこすことが出来たらしく、自身の存在の深淵から言葉を出していた。急速で慌ただしい創作の過程で、台詞を最後まで書かなかったことさえあったと言う。
   しかし、初期の劇には、インスピレーションやエネルギーを失って、台詞や韻文の途中で道を見失って最初に戻ってやり直したり、うめくさが所々で見られる。普通は白熱状態で執筆しているのだが、散文を書いているのか韻文を書いているのか自分でも分からなくなったりして、すべてを書き留めたいと言う抑えがたい欲望のために、散文と韻文形式上の相違が雲散霧消している。実際、シェイクスピアのテクストは流動的で未完成の状態にあって、役者が重みと意味を与えてくれるのを待っていたと言えるかも知れない。
   この結果、混乱が生まれる。人名をごっちゃにしたり、登場人物に異なる名前を与えたり、その人物描写や職業が異なる場合もある。話の筋が完結せずに終っていたり、時と場所に一貫性のないこともある。必ずしも、場面の順番に書かなかったのであろうことが分かる。

   改行や書き直しの過程で、シェイクスピアは、韻文にさらに磨きを掛けたいと言う漠然とした望みを持って、微少な細部に変更を加えている。本能的に、自分でも気付かないうちにしたことかも知れないが、場面全体の流れが変ってしまうことがある。シェイクスピアが劇作家として、生涯ずっと自作に改訂を加え続けたことは、すでに注目の対象となっており、たとえば、新オックスフォード版では、異なる時に書かれた「リア王」の二つの版をそのまま出版している。「ハムレット」でも、「ロミオとジュリエット」でも、多くの作品には書き加えた跡がある。実のところ、書き直しや構成の改訂の形跡のない戯曲は殆どないと言って良く、つまり、シェイクスピアの戯曲は恒に暫定的なあるいは流動的な状態にあったと言うことで、どこかの時点で、自分の書いたものを見直していたのである。キャスト変更に合わせて内容を変えることもあったと言う。

   勿論、役者は新しい台詞を覚えなければならないので、こうした役者の承認を得られるようにしなければならなかったし、また、抜本的な改定をして祝宴局長の許可を得るために再提出せねばならないなどと言うことのないように、気をつける必要もあったはずで、こうした制約の中では、シェイクスピア劇は、決して固定することも完成することもなかった。シェイクスピアは、恒に芝居に手を入れ続け、毎公演、少しずつ異なっていただろうと考えられる。と言うのである。

   さて、この話は、シェイクスピアが生存していた現役時代のことであって、当時の芝居事情を語っていて興味深い。
   他の戯曲作家の作品を剽窃盗作するのは日常茶飯事で、シェイクスピアなど、マーロウの作品から頻繁に想を得るなど利用していたし、記憶術や筆記術が花盛りの頃であったから、大当たりの芝居が、翌日他の劇場でそっくりそのまま演じられるという信じられないようなことが起こっていたから、決定版など作り得なかったのであろう。
   それに、シェイクスピアの場合でも、オリジナルのテーマなどなく、多くの種本や他の戯曲から想を得て戯曲を作り上げているのであるから、どんどん、発想やストーリーが変ってきて当然であろう。
   しかし、気になるのは、シェイクスピア戯曲のテキストが出版されている以上、現代の舞台では、これに縛られている、ないし、伝統の演出なり舞台が何らかの形で足枷となって、原典たるテキストの改編など無理なので、固定化してしまっているのではないかと言うことである。
   
   片岡秀太郎の「上方のをんな」をレビューしたときに、紹介したのは、
    「上方には型がない」と言うことについて。
   江戸歌舞伎では、伝統仕来たりが、頑ななほど、守られ継承されているが、上方では同じ芝居をしていると芸がない工夫がないと批判されることについてだが、秀太郎は、
   私に言わせれば、上方には型があり過ぎるんで、藤十郎などは、毎日少しずつ違っていて新鮮である。上方の芝居をこれから継承して行く後輩たちには、数多くある型を熟知した上で、選択していって欲しい。と言う。
   私は、元大阪人で、阪神が勝てば嬉しい口、
   上方歌舞伎に軍配を上げたい。

   伝統だから尊いのだと宣った某学者がいたが、あの伝統的だと目されているスコッチのタータンチェックも中村仲蔵の斧定九郞も、最近の創作、
   伝統などと言うものは何かの拍子に居座ってしまった固定観念であって、時には悪弊となることもある。
   変な話になってしまったが、このアクロイドの本、600ぺーじにもなる大著なのだが、色々教えられることが多くて面白い。
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