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署名入りの高峰秀子と松山善三の「旅は道づれ ツタンカーメン」を、古書店で求めて、パラパラ読んでいて、急に、高峰秀子の自叙伝とも言うべき「私の渡世日記」を読みたいと思った。
この本の出版は、1976/2/26であるから、半世紀近く前の本であり、高峰秀子の映画の方も結構見たつもりだが、晩年の作品のようで、「二十四の瞳」「喜びも悲しみも幾歳月」「無法松の一生」「名もなく貧しく美しく」など、いくらか強烈な印象が残っていて、大女優の姿は脳裏に残っている。
また、これまで、何冊か高峰秀子の著書を読んでおり、その文才と機知にとんだ筆さばきが気に入っていたので、人気を博した著書でもあるので、読み始めたのだが、非常に面白く、まず、上下二冊のうち、上を読み終わったところで、第一印象を書こうと思う。
ウィキペディアには、
1975年(昭和50年)、『週刊朝日』誌上で『わたしの渡世日記』を連載。この本では関係者を実名で登場させ、国民的女優、かつ一人の女性としての半生を率直な態度で回想している。その内容に「本当に本人が書いているのか」という問い合わせが殺到したが、当時の週刊朝日の編集部では、「ゴーストライターを使っているなら、あんな個性的な文章にはなりません」と答えたという。
私も何かの本で読んだが、大学教授か何かが、高峰秀子に、「自分で、文章を書いているのか」と聞いたと語っていたのだが、幼いころから、映画映画で、寸刻を刻んでわき目も振らずに働き続けてきて、小学校さえ真面に通えなかった高峰秀子が、このような教養豊かな文章を書けるはずがないと言う先入観なのであろう。
この本でも、無学だと本人が自嘲気味に書いているのだが、30歳で松山善三と結婚した時に、二桁の掛け算もできなくて九九も満足に言えなかったので、掛け算や割り算を教えてもらい、漢和大辞典があることも知らず、神田へ行って「国語辞典」を買って辞書の引き方を教えてもらうなど、結婚と同時に、タダの家庭教師を獲得したわけだと言っているように、小学校もロクに行っていない情けない奴と、自分で自分をののしり同じ年頃の娘に嫉妬していたし、人一倍学校生活にあこがれ続けており、松竹から東宝への移籍の時に、文化学院に入学し、制服などのない学校だったので、本郷の「学習院制服専門店・宮内省御用達」の洋服店で、カシミアの布地でセーラー服を誂えて着て行き、私も女学生なのよとそう叫びたい思いを抑えるのがやっとで、おなかの底から、嬉しい笑いが沸き上がるのを抑えるのが精いっぱいだった。書いている。
もっとも、この学校生活も、月に2~3日の当校では許されず短期間で退学となった。
ウィキペディアには、シナリオ読みや読書による独学で熱心に教養を蓄え、また松山との結婚後は、自宅で松山のシナリオ執筆を口述筆記するなどの機会も得て、筆力を育てたと書いてあるが、この本では、母が世話をしていた早稲田の学生に風呂の帰り道に本屋に連れて行かれて初めて自分で本を買うことを知って、岩波文庫を片っ端から買って読んだと語っている。
ところで、私自身は、高峰秀子は、独学独習で、凄い文才を築き上げたことは間違いない事実だと思っており、全く疑いはない。
シェイクスピアを考えればわかるが、詳しくは分からないのだが、ストラトフォード・アポン・エイボンのグラマー・スクール、エドワード6世校に通ったと言われているが、どんな勉強をしたのか、そして、卒業したのかさえ分かっていないのだが、あれだけの凄い戯曲を、シェイクスピアが学校での教育だけで創作できるはずがないし、あの偉大な建築家の安藤忠雄が、世界中を駆け回って独学独習して最高峰の素晴らしい実績を上げている事実などを考えれば、正規の学問ではなく、一心不乱の人生を掛けた独学独習の威力が如何に素晴らしいかを証明している。
それに、この本を通して見ても、高峰秀子が接している人々、その群像は、谷崎潤一郎、新村出、梅原龍三郎等々を筆頭にして、超一流の人々ばかりで、その桁外れの交友からえた直接間接の影響感化は勿論、耳学問を含めて、途轍もない価値を持っており、我々凡人の域をはるかに超えている。
映画界では、子役の時から、最高峰の監督や映画俳優と仕事をし、エノケンや古川ロッパとも共演し、琴の演奏が必要だと言うと、宮城道雄に教えを請うなど、超一流との接触を通して、成長してきているのである。
映画「馬」の撮影風景を克明に描いているが、山本嘉次郎の薫陶を受けて私淑し、忘れることのできない師であり、兄であり、遠くはなれた父のような人だったと言っており、このような、仕事を通じての切磋琢磨の威力も、高峰秀子の成長に大いに貢献したのであろうと思う。
さらりと書いているが、私には、黒澤明との、線香花火のような本当の、しかし、儚い恋物語が、興味深かった。
それに、この本は、戦争時代の描写も鮮やかで、おそらく、映画界を通しての昭和史としても貴重な本だと思っている。
この上巻は、天皇陛下の玉音放送のあった終戦、高峰秀子21歳の時点で終わっている。
北海道から転がり込んできた多くの親族の生活を一手に引き取って面倒を見なければならなかったので、金のために無我夢中で必死になって馬車馬のように働き続け、無学で身勝手な義母の厳しい監督下で、黒澤明との恋も叩き潰された悲惨な運命を駆け抜けてきたのだが、その後、どのように人生を歩んできたのか、このあたりになると、神武景気以降くらいから、私の生きた時代とも重なるので、楽しんで読めそうである。
この本の出版は、1976/2/26であるから、半世紀近く前の本であり、高峰秀子の映画の方も結構見たつもりだが、晩年の作品のようで、「二十四の瞳」「喜びも悲しみも幾歳月」「無法松の一生」「名もなく貧しく美しく」など、いくらか強烈な印象が残っていて、大女優の姿は脳裏に残っている。
また、これまで、何冊か高峰秀子の著書を読んでおり、その文才と機知にとんだ筆さばきが気に入っていたので、人気を博した著書でもあるので、読み始めたのだが、非常に面白く、まず、上下二冊のうち、上を読み終わったところで、第一印象を書こうと思う。
ウィキペディアには、
1975年(昭和50年)、『週刊朝日』誌上で『わたしの渡世日記』を連載。この本では関係者を実名で登場させ、国民的女優、かつ一人の女性としての半生を率直な態度で回想している。その内容に「本当に本人が書いているのか」という問い合わせが殺到したが、当時の週刊朝日の編集部では、「ゴーストライターを使っているなら、あんな個性的な文章にはなりません」と答えたという。
私も何かの本で読んだが、大学教授か何かが、高峰秀子に、「自分で、文章を書いているのか」と聞いたと語っていたのだが、幼いころから、映画映画で、寸刻を刻んでわき目も振らずに働き続けてきて、小学校さえ真面に通えなかった高峰秀子が、このような教養豊かな文章を書けるはずがないと言う先入観なのであろう。
この本でも、無学だと本人が自嘲気味に書いているのだが、30歳で松山善三と結婚した時に、二桁の掛け算もできなくて九九も満足に言えなかったので、掛け算や割り算を教えてもらい、漢和大辞典があることも知らず、神田へ行って「国語辞典」を買って辞書の引き方を教えてもらうなど、結婚と同時に、タダの家庭教師を獲得したわけだと言っているように、小学校もロクに行っていない情けない奴と、自分で自分をののしり同じ年頃の娘に嫉妬していたし、人一倍学校生活にあこがれ続けており、松竹から東宝への移籍の時に、文化学院に入学し、制服などのない学校だったので、本郷の「学習院制服専門店・宮内省御用達」の洋服店で、カシミアの布地でセーラー服を誂えて着て行き、私も女学生なのよとそう叫びたい思いを抑えるのがやっとで、おなかの底から、嬉しい笑いが沸き上がるのを抑えるのが精いっぱいだった。書いている。
もっとも、この学校生活も、月に2~3日の当校では許されず短期間で退学となった。
ウィキペディアには、シナリオ読みや読書による独学で熱心に教養を蓄え、また松山との結婚後は、自宅で松山のシナリオ執筆を口述筆記するなどの機会も得て、筆力を育てたと書いてあるが、この本では、母が世話をしていた早稲田の学生に風呂の帰り道に本屋に連れて行かれて初めて自分で本を買うことを知って、岩波文庫を片っ端から買って読んだと語っている。
ところで、私自身は、高峰秀子は、独学独習で、凄い文才を築き上げたことは間違いない事実だと思っており、全く疑いはない。
シェイクスピアを考えればわかるが、詳しくは分からないのだが、ストラトフォード・アポン・エイボンのグラマー・スクール、エドワード6世校に通ったと言われているが、どんな勉強をしたのか、そして、卒業したのかさえ分かっていないのだが、あれだけの凄い戯曲を、シェイクスピアが学校での教育だけで創作できるはずがないし、あの偉大な建築家の安藤忠雄が、世界中を駆け回って独学独習して最高峰の素晴らしい実績を上げている事実などを考えれば、正規の学問ではなく、一心不乱の人生を掛けた独学独習の威力が如何に素晴らしいかを証明している。
それに、この本を通して見ても、高峰秀子が接している人々、その群像は、谷崎潤一郎、新村出、梅原龍三郎等々を筆頭にして、超一流の人々ばかりで、その桁外れの交友からえた直接間接の影響感化は勿論、耳学問を含めて、途轍もない価値を持っており、我々凡人の域をはるかに超えている。
映画界では、子役の時から、最高峰の監督や映画俳優と仕事をし、エノケンや古川ロッパとも共演し、琴の演奏が必要だと言うと、宮城道雄に教えを請うなど、超一流との接触を通して、成長してきているのである。
映画「馬」の撮影風景を克明に描いているが、山本嘉次郎の薫陶を受けて私淑し、忘れることのできない師であり、兄であり、遠くはなれた父のような人だったと言っており、このような、仕事を通じての切磋琢磨の威力も、高峰秀子の成長に大いに貢献したのであろうと思う。
さらりと書いているが、私には、黒澤明との、線香花火のような本当の、しかし、儚い恋物語が、興味深かった。
それに、この本は、戦争時代の描写も鮮やかで、おそらく、映画界を通しての昭和史としても貴重な本だと思っている。
この上巻は、天皇陛下の玉音放送のあった終戦、高峰秀子21歳の時点で終わっている。
北海道から転がり込んできた多くの親族の生活を一手に引き取って面倒を見なければならなかったので、金のために無我夢中で必死になって馬車馬のように働き続け、無学で身勝手な義母の厳しい監督下で、黒澤明との恋も叩き潰された悲惨な運命を駆け抜けてきたのだが、その後、どのように人生を歩んできたのか、このあたりになると、神武景気以降くらいから、私の生きた時代とも重なるので、楽しんで読めそうである。