
養老孟司先生は「ルイ・パスツールを現在から考える」と言う演題で講演をしたのだが、同じフランス人でも好きなファーブルの話の方が多くなった。
先生の話を聴くのは今回で2度目だが、やはり、最後は豊かな感受性と「違い」の分かる感覚を失ってしまった現代人を語って終わった。
パスツールについては、「目に見えない小さな世界が、目に見える世界と、同じ法則で動いている、そう思っていたに違いない。そう思わないと、酒石酸の結晶に関する最小の研究も、それ以降の大きな仕事の総ても、成功した理由が分からなくなってしまう。多分パストゥール自身にとって、それは暗黙の前提だったはずである。」
顕微鏡で追求し続けた世界も、見える世界と同じ法則で動いている筈だと考えたから、パストゥールには見えない筈のミクロの世界を見通せたと仰るのである。
別な所で、独創性とは何か、そんなものはないと言う気がする。独創的なことなど考えたこともないし、もし自分が本当に独創的なら、自分の本など全く売れないだろうとも言う。
独創性について間違った理解が横行すると学問が歪むとも言っているので、私は、養老先生の話を聞いていて、パストゥールやファーブルが偉いのは、独創的だからと言うことではなくて、豊かな感受性故に違いが分かりその違いの価値を理解して追及し続けたからだと考えているのではないかと思った。
同じ花鳥風月を見ていても、凡人は何も感じないが、歌人や詩人達は限りなき詩情を感じて素晴らしいうたを創る。
独創性とは、即ち、あるものを凡人と全く同じ視点から客観的に見ながらも、その違いの価値を認めて法則化するなり、その素晴らしさを他に認識させることの出来る力のことを言っているような気がしている。
赤ちゃんは絶対音感があるが、年を取ると音の違いが分からなくなって音痴になってしまうが、動物達は何時までも絶対音感を忘れない。
そうでないと、かもめや海鳥達が、何万匹もいる大群の中で自分の子供を間違いなしに探し当てて餌を与えることなど出来る筈がない。
何時も庭に飛んできて木の実をつついているメジロたちが、この広い野山で自分の番の相手とはぐれることなく飛び回っているのを不思議に思って見ているが、これも鳴き声なのか匂いなのか分からないが他のメジロとは違う特性を何処にいても認識出来ているからであろう。
先日、聞くとはなしに歩きながらラジオを聞いていたら、男女が恋に落ちるのは、襟元の辺りから発散されているフェロモンを感じて相性が合うと互いに惹かれるのだと言っていた。
まだ、人間には、絶対音感とは違った動物的な嗅覚なり六感が残っていて、それが人間生活を豊かにしてくれていると思うと多少だがほっとする。
今回も、養老先生は、NHKが公平客観中立の放送に努力すると言いながら、一方向から見たカメラで撮影した独善的な番組を製作していて何が公平客観中立なのかと毒づいていた。
どこの階段も、道も同じ。例えば、階段など、段差やピッチを一段毎に変えたらどうかと言う。ファーブルやパストゥールたちは、一歩毎に全く違ったステップの野山を歩いていたので、あの素晴らしい発見が生まれたのだとも言う。
モンテスキューの話で、玉座に座っている王様は、玉座と言うよりは自分の尻の上に座っているのだと言う話にかけて、最近の学生は、自分で勉強や科学せずに出来上がった学問の上に座ってあぐらをかいていることを忘れていると叱るのだと言っていた。
画一化に向かう現在社会にも問題があるかも知れないが、いまだに、先生の教えたことをその通りに回答しないと点を貰えない日本の教育制度を続けている限り、学校も社会も永遠にNHKである。
せめて、欧米流に、先生が教えたことをそのまま回答したら零点で、勉強して自分独自の見解を書かなければ点を与えないような手段を取らない限り違いが分かるような感受性など育つ筈がない。
イノベーション、イノベーションと安倍内閣も、財界も騒いでいるが、意図して違いを育てなかった日本の土壌には中々難しい話で、もの作りは得意だが、特に、豊かな発想などものの考え方に比重を置いたプロセスイノベーション等ソフト面では外国勢に苦戦せざるを得ないであろう。
一番動物離れをした文明人(?)は、日本人かも知れないと思っている。
先生の話を聴くのは今回で2度目だが、やはり、最後は豊かな感受性と「違い」の分かる感覚を失ってしまった現代人を語って終わった。
パスツールについては、「目に見えない小さな世界が、目に見える世界と、同じ法則で動いている、そう思っていたに違いない。そう思わないと、酒石酸の結晶に関する最小の研究も、それ以降の大きな仕事の総ても、成功した理由が分からなくなってしまう。多分パストゥール自身にとって、それは暗黙の前提だったはずである。」
顕微鏡で追求し続けた世界も、見える世界と同じ法則で動いている筈だと考えたから、パストゥールには見えない筈のミクロの世界を見通せたと仰るのである。
別な所で、独創性とは何か、そんなものはないと言う気がする。独創的なことなど考えたこともないし、もし自分が本当に独創的なら、自分の本など全く売れないだろうとも言う。
独創性について間違った理解が横行すると学問が歪むとも言っているので、私は、養老先生の話を聞いていて、パストゥールやファーブルが偉いのは、独創的だからと言うことではなくて、豊かな感受性故に違いが分かりその違いの価値を理解して追及し続けたからだと考えているのではないかと思った。
同じ花鳥風月を見ていても、凡人は何も感じないが、歌人や詩人達は限りなき詩情を感じて素晴らしいうたを創る。
独創性とは、即ち、あるものを凡人と全く同じ視点から客観的に見ながらも、その違いの価値を認めて法則化するなり、その素晴らしさを他に認識させることの出来る力のことを言っているような気がしている。
赤ちゃんは絶対音感があるが、年を取ると音の違いが分からなくなって音痴になってしまうが、動物達は何時までも絶対音感を忘れない。
そうでないと、かもめや海鳥達が、何万匹もいる大群の中で自分の子供を間違いなしに探し当てて餌を与えることなど出来る筈がない。
何時も庭に飛んできて木の実をつついているメジロたちが、この広い野山で自分の番の相手とはぐれることなく飛び回っているのを不思議に思って見ているが、これも鳴き声なのか匂いなのか分からないが他のメジロとは違う特性を何処にいても認識出来ているからであろう。
先日、聞くとはなしに歩きながらラジオを聞いていたら、男女が恋に落ちるのは、襟元の辺りから発散されているフェロモンを感じて相性が合うと互いに惹かれるのだと言っていた。
まだ、人間には、絶対音感とは違った動物的な嗅覚なり六感が残っていて、それが人間生活を豊かにしてくれていると思うと多少だがほっとする。
今回も、養老先生は、NHKが公平客観中立の放送に努力すると言いながら、一方向から見たカメラで撮影した独善的な番組を製作していて何が公平客観中立なのかと毒づいていた。
どこの階段も、道も同じ。例えば、階段など、段差やピッチを一段毎に変えたらどうかと言う。ファーブルやパストゥールたちは、一歩毎に全く違ったステップの野山を歩いていたので、あの素晴らしい発見が生まれたのだとも言う。
モンテスキューの話で、玉座に座っている王様は、玉座と言うよりは自分の尻の上に座っているのだと言う話にかけて、最近の学生は、自分で勉強や科学せずに出来上がった学問の上に座ってあぐらをかいていることを忘れていると叱るのだと言っていた。
画一化に向かう現在社会にも問題があるかも知れないが、いまだに、先生の教えたことをその通りに回答しないと点を貰えない日本の教育制度を続けている限り、学校も社会も永遠にNHKである。
せめて、欧米流に、先生が教えたことをそのまま回答したら零点で、勉強して自分独自の見解を書かなければ点を与えないような手段を取らない限り違いが分かるような感受性など育つ筈がない。
イノベーション、イノベーションと安倍内閣も、財界も騒いでいるが、意図して違いを育てなかった日本の土壌には中々難しい話で、もの作りは得意だが、特に、豊かな発想などものの考え方に比重を置いたプロセスイノベーション等ソフト面では外国勢に苦戦せざるを得ないであろう。
一番動物離れをした文明人(?)は、日本人かも知れないと思っている。