熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

世界への旅立ち・・・憧れの新天地か?ブラジル

2005年10月12日 | 海外生活と旅
   先週NHK総合テレビで5回にわたって橋田壽賀子ドラマ「ハルとナツ 届かなかった手紙」が放映された。
   私は、放送を飛び飛びに見ながら、ビデオにも収録したが、まだ、通しては見ていない。涙が込上げて来るほど懐かしい、しかし、懐かしさと言うよりは、堪らなくて正視出来なかったのである。

   私がブラジルに赴任したのは、1974年、丁度ブラジルが、ブラジルブームに沸き、世界中から注目を浴びていた時期であった。
フィラデルフィアから、2年間の留学を終えて帰ってきて、やっと、船便が届いた日に赴任命令が出て、3ヶ月ほど日本に居ただけででサンパウロに向かった。
   当時は、お金を出せば簡単にパーマネント・ビザが貰えたし、進出企業の社員と言うことで、最初から身分が補償されていたので、殆ど苦労はなかった。
   サンパウロには、ガルボンブエノと言う日本人街があって、文句を言わなければ、日本のどこかの地方都市と殆ど変わらない雰囲気を味わえたし、日本食も食べられたし日本のものも手に入った。
   もっとも、ブラジルに移住した人々が苦労して作った品物が多かったので、多少、品質には差があり、似ても似つかないものもあったが、初めての海外生活の日本人には一番恵まれた外国であった筈である。
   

   進出企業にとって最も恵まれていたのは、優秀な日系の若い働き手の助けを借り得たことであろう。
   日本人は、いくら苦労をしても子供には教育をつけようとする民族なので、サンパウロには、日系の人口が1%程度の筈だったが、サンパウロ大学の学生数の10%以上が日系の学生であった。
   国際語と言っても英語はそれ程通用しなかったし、ポルトガル語は特殊な言葉で難しい。日本語とポルトガル語両方を駆使できる優秀な人材を確保できたのである。
   それに、日系の移住者達が、苦労しながらも頑ななほどに日本の文化と伝統に誇りを持って生活しており、それを子供達に継承していた。
厳しく躾て教育していたので、殆ど同じ考え方・感覚であり、若い2~3世の日系人とカルチュア・ショックを感じることなくコミュニケーションが出来て殆ど苦労がなかった筈である。
   全く異文化の、それも、アスタマニアーナ(何でも、またあした)とアミーゴ(友達)の日本とは雲泥の差があるブラジルで、架け橋として働いてくれたのだが、この貢献は大きいと思っている。(日系進出企業が海外で失敗するのは、総て異文化とビジネス慣行の差に足を掬われるからである。)

   ところで、ハルとナツに描かれているブラジル、すなわち、日系移民の塗炭の苦しみ、筆舌に尽くし難いほどの苦難の生活、であるが、結論から言うと日本政府の移民政策とその対応に問題の総てがあったように思う。
   戦前では、棄民政策としての対応、戦後では、欧米と比較して殆ど日系移民のサポートをしていないこと。
   ドイツ人やイタリア人の移住地を訪れたが、本国の援助で立派な学校など公共施設が整っていたし、継続的な援助は勿論、立派に立ち行くように大変な気の使いようであった。
   戦前の日本政府の棄民政策の片鱗があのテレビドラマにも垣間見えていたが、あんな生易しい程度ではなくもっと厳しく筆舌に尽くせないほどの苦難の連続であったはずである。
大切な自国民を見捨てた国がこの地球上にあったと言うことを、よくよく、肝に銘じて置くべきである。

   パラグアイへ移住した人にこんな話を聞いた。
船でサントスの港に着いたが、何日も留め置かれた後に、封印列車に乗せられて、何の説明もなく、何日もかかってパラグアイの奥地のジャングルに送り込まれた。
仮小屋に荷物を置いて仕事に出て帰ってきたら、大切に日本から持ってきたものは全部取られてなくなっていた。
徒手空拳、誰の助けもなく、熱帯雨林のジャングルとの大変な戦いが始まったが、毒蛇に噛まれても、マラリヤにかかっても、何日もジャングルを抜けて行かねばならない医者や病院などには縁がなく、苦しむ肉親を見殺しにせざるを得なかった。
よく、ここまで生きて来られたと思う。
「朝起きると、空は晴れ渡り、爽快な気分で、朝のカフェで気分を新たに・・・」政府の言ったことはここまではウソではなかったけれど、と言いながら顔をくしゃくしゃにした。

   「ジャングルの苦しい農業に耐えられずに夜逃げしてサンパウロに出て働いた人が出世している。
まだ、ブラジルのジャングルで、そのまま残っている日系人もいて、裸足で走っている女の子がいる。
農業でも先に行って成功した日系人が、新しく来た日本人移民を搾取していることもある。日本人どおしだって信用できない。」そんな話も聞いた。
   日本の文化や伝統が、移民船に乗ったその時点で凍り付いて化石化して残っている、そんな古くて懐かしい日本にブラジルで何度も出会っている。
   日本への愛国心、そして、望郷の念は、日本人より遥かに強い人が多くて、こちらの方が困った。

   1979年の末に日本に帰って、その後、10数年パーマネント・ビザを維持する為に2年ごとにブラジルに行っていたが、その後は、もう、随分ブラジルにご無沙汰している。
   テレビの最後の場面でサンパウロのパウリスタ通りを、ナツが車で走っているのを見たが、昔のままの風景で懐かしかった。

   ブラジルでは、柿のことをカキと言う。
   何にもなかったブラジルの農作物や果物を、あんなに豊かに作り出したのは、総て、日本人移民の丹精のお陰である。
   世界中で、苦労して頑張っている同胞を思いやり暖かい気持ちで接すること、これが、まず、国際化、グローバリゼーション社会での要諦ではなかろうかと思っている。
   
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