
寅さんは、雲のように自由に空を飛んで行きたいと言った。風の吹くままに旅をする、寒くなって来たので、南の方へ行こうか、と言う。
本土から遠く離れた孤島の神社の小さな境内で、バイをしている。
白雪を頂いた山々を遠望しながら奥深い田舎道を歩く寅、道祖神の微笑が草の陰から覗く。
寒風吹きすさむ連絡線の中、襟を立てて人影のない艀を見送る寅。
懐かしい日本の情景が、走馬灯の様に展開される寅さんの舞台は、庶民の世界。全員中流と言われて浮かれていた風潮に棹差して、執拗に柴又の世界を描き続けた。
豪華なホテルでの会食等の庶民離れした場面も、寅がぶっ壊して笑い飛ばすカリカチュアの世界。
私は、寅さんを見ると、ムソルグスキーの「展覧会の絵」を思い出す。絵が変わるごとに音楽が変わって行く。
まさに、旅は新しい別な世界へ連れて行ってくれて、別な世界を見せてくれる。必ずしも見たいものばかりではないが、新しいものに遭遇させてくれる。
時よ永遠にこのまま止まってくれ、と叫びたくなる幸せな瞬間に巡り合うこともある。
尤も、動かなくても自分を取り巻く小宇宙は、絶えず変転する。人生そのものが旅である。
私達が学生の頃は、安く旅が出来た。
国鉄の周遊券が学割で安く、それに、若者達の為の安宿・ユースホステルが花盛りで、ここでは全国の若者達と会うことが出来て、夜のキャンプファイアやパーティが楽しみであった。
学生達は、みんな等しく貧しかったが、休みに入るとせっせとアルバイトに励んでお金を貯めて旅に出た。
私の始めての旅は、友人と二人の北海道旅行。
大阪駅に長い間並んで、夜行の急行「日本海」に乗って、北陸、奥羽を経て青函連絡船に乗り換えて北海道に渡った。
あれから、もう何十年、世界のあっちこっちで汽車や電車に乗ったが、あんなに長い間同じ乗り物に乗っていたのは、ブラジル往復の飛行機だけであった。
旅の素晴らしさに味をしめて、その後、九州周遊を皮切りに少しずつ日本のあっちこっちを歩き始めた。
私の青春の相当部分は、京都や奈良の歴史散歩の思い出だが、日本を故郷、自分のアイデンティティの元であることを強く意識したのは、この時代であった。
長い海外生活では、この日本への思いが私の心の支えでもあった。
まだ、あの懐かしい初期の寅さんの世界が日本全国に残っていた頃である。
大学卒業と同時に会社生活に入った。大阪と東京勤務が続いたので、旅から遠ざかったが、8年してからアメリカへの留学でフィラデルフィアに出てから、今度は世界旅が始まった。
日本各地への旅は、長い海外生活を終えて日本に帰ってから、幸いなことにまた始まった。
仕事で、定期的に、全国に散らばっている事務所を回ることになった。
稚内から樺太を遠望したり、知床でちらりと蝦夷しかを見たり、沖縄の米軍基地の爆撃機を覗き見たり、出張の合間の休日や余り時間の寸暇を惜しんで日本を歩いた。
私の見たのは、荒廃してゆく地方の現状と、逆に残っている地方の民度と文化の高さと豊かさであった。
駅前のシャッターどおりの酷さは目を覆うばかりで、人口が毎年一万人単位で減っていく町があると言う。
私は、意識して古寺や神社、そして歴史遺産を回り、落着いた地方の料理店で地方の料理を頂くことにしていたので、その雰囲気と水準は非常に高くて、東京などから消えているかもしれない文化が色濃く継承されている。
廊下の片隅に置かれた茶花の風情、豊かな地方の街は、小京都とは言うが小東京とは言わない、地方には寂れた地方銀座が残っているだけである。
ヨーロッパ生活で覚えたワインと地方料理のマッチングを応用して、地方に行くと、地方料理を地酒で味わうことにしている。
何百年もその地方で培われた食文化は、その地酒で益々豊かにされていることに気付いたからである。
400年の幕藩体制のお陰で豊かな地方文化が日本全国に存在している。
ところで、日本の貴重な地方発の文化遺伝子が消え去ろうとしている。
地方叩き潰しの政策で、地方が瀕死の状態に直面している。
無駄な公共投資と言って地方への財政サポートが目の敵にされているが、豊かになってしまった日本では、最早、自由な市場原理では地方の文化と生活は守れなくなっているのである。
東京集中に回帰しつつある日本の現状が寂しい。
海外の旅については、項をあらためたい。
本土から遠く離れた孤島の神社の小さな境内で、バイをしている。
白雪を頂いた山々を遠望しながら奥深い田舎道を歩く寅、道祖神の微笑が草の陰から覗く。
寒風吹きすさむ連絡線の中、襟を立てて人影のない艀を見送る寅。
懐かしい日本の情景が、走馬灯の様に展開される寅さんの舞台は、庶民の世界。全員中流と言われて浮かれていた風潮に棹差して、執拗に柴又の世界を描き続けた。
豪華なホテルでの会食等の庶民離れした場面も、寅がぶっ壊して笑い飛ばすカリカチュアの世界。
私は、寅さんを見ると、ムソルグスキーの「展覧会の絵」を思い出す。絵が変わるごとに音楽が変わって行く。
まさに、旅は新しい別な世界へ連れて行ってくれて、別な世界を見せてくれる。必ずしも見たいものばかりではないが、新しいものに遭遇させてくれる。
時よ永遠にこのまま止まってくれ、と叫びたくなる幸せな瞬間に巡り合うこともある。
尤も、動かなくても自分を取り巻く小宇宙は、絶えず変転する。人生そのものが旅である。
私達が学生の頃は、安く旅が出来た。
国鉄の周遊券が学割で安く、それに、若者達の為の安宿・ユースホステルが花盛りで、ここでは全国の若者達と会うことが出来て、夜のキャンプファイアやパーティが楽しみであった。
学生達は、みんな等しく貧しかったが、休みに入るとせっせとアルバイトに励んでお金を貯めて旅に出た。
私の始めての旅は、友人と二人の北海道旅行。
大阪駅に長い間並んで、夜行の急行「日本海」に乗って、北陸、奥羽を経て青函連絡船に乗り換えて北海道に渡った。
あれから、もう何十年、世界のあっちこっちで汽車や電車に乗ったが、あんなに長い間同じ乗り物に乗っていたのは、ブラジル往復の飛行機だけであった。
旅の素晴らしさに味をしめて、その後、九州周遊を皮切りに少しずつ日本のあっちこっちを歩き始めた。
私の青春の相当部分は、京都や奈良の歴史散歩の思い出だが、日本を故郷、自分のアイデンティティの元であることを強く意識したのは、この時代であった。
長い海外生活では、この日本への思いが私の心の支えでもあった。
まだ、あの懐かしい初期の寅さんの世界が日本全国に残っていた頃である。
大学卒業と同時に会社生活に入った。大阪と東京勤務が続いたので、旅から遠ざかったが、8年してからアメリカへの留学でフィラデルフィアに出てから、今度は世界旅が始まった。
日本各地への旅は、長い海外生活を終えて日本に帰ってから、幸いなことにまた始まった。
仕事で、定期的に、全国に散らばっている事務所を回ることになった。
稚内から樺太を遠望したり、知床でちらりと蝦夷しかを見たり、沖縄の米軍基地の爆撃機を覗き見たり、出張の合間の休日や余り時間の寸暇を惜しんで日本を歩いた。
私の見たのは、荒廃してゆく地方の現状と、逆に残っている地方の民度と文化の高さと豊かさであった。
駅前のシャッターどおりの酷さは目を覆うばかりで、人口が毎年一万人単位で減っていく町があると言う。
私は、意識して古寺や神社、そして歴史遺産を回り、落着いた地方の料理店で地方の料理を頂くことにしていたので、その雰囲気と水準は非常に高くて、東京などから消えているかもしれない文化が色濃く継承されている。
廊下の片隅に置かれた茶花の風情、豊かな地方の街は、小京都とは言うが小東京とは言わない、地方には寂れた地方銀座が残っているだけである。
ヨーロッパ生活で覚えたワインと地方料理のマッチングを応用して、地方に行くと、地方料理を地酒で味わうことにしている。
何百年もその地方で培われた食文化は、その地酒で益々豊かにされていることに気付いたからである。
400年の幕藩体制のお陰で豊かな地方文化が日本全国に存在している。
ところで、日本の貴重な地方発の文化遺伝子が消え去ろうとしている。
地方叩き潰しの政策で、地方が瀕死の状態に直面している。
無駄な公共投資と言って地方への財政サポートが目の敵にされているが、豊かになってしまった日本では、最早、自由な市場原理では地方の文化と生活は守れなくなっているのである。
東京集中に回帰しつつある日本の現状が寂しい。
海外の旅については、項をあらためたい。
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