![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/7c/805fb71c77902f01e17cc2deae62bf02.jpg)
フェルメールについては、何冊か本を持っているのだが、最後まで読んだのは初めてである。
ANAの機関紙の記事であるから、いわゆる、旅行記とも言うべきフェルメールの美術紀行で、それに、著者の専攻が生物学で理系の観点からフェルメールの絵を観察しているので、面白いと思ったのである。
光が粒子であることを予言したのは、アインシュタインだが、それより、300年前に、フェルメールの作品の細部には、秩序ある調和として「光のつぶたち」が見える。
レーウェンフックやスピノザたちが、ともに焦がれた、その光に導かれて旅に出た。と著者は言う。
「窓辺でリュートを弾く女」を見て、楽器を演奏中の女が窓の外の出来事をふと視線を向けた瞬間をシャッターが切られた。
動きの時間を止め、その中に次の動きの予感を封じ込めたと言う意味で、これを、”微分”と言う。
フェルメールの絵の中の光が、あるいは影が、絵としては止まっているにもかかわらず、動いているように見える。フェルメールの絵には、そこに至るまでの時間と、そこから始まる時間への流れが表現されている。時間を止めながら、時間の流れを表現する方法、言うならば、”微分的な要素が含まれる。と言うのである。
”
私には、”微分”と言う意味が良く分からないのだが、写真を趣味としているので、フェルメールが、非常に微妙な意味深なシーンでシャッターを切って、その瞬間を封印している。と言うことは良く分かる。
それに、フェルメールは、ほかの大画家のように、神話やキリスト教の世界は勿論、偉大な歴史的イヴェントも壮大な風景も描かずに、極平凡なオランダの市井の中流階級の生活、それも、殆ど女性をテーマにした絵を描き続けているのだが、実に、その背後に内包される物語の豊かさなど、想像を超えた世界が展開されていて、興味深いことは分かる。
しかし、偉大な絵画は、皆、そう言うものではないであろうか。
フェルメールの作品で現存しているのは、37作品で、そのうち、ボストンの作品が盗難にあって行方不明なので、たったの36作品である。
アメリカでは、ニューヨークに8、ワシントンに4、そのほかに3、
オランダでは、アムステルダムとハーグに8、
イギリスではロンドンなどに4、
フランスに2、
その他、ドイツ、オーストリア などに8、だと思うのだが、
フェルメールが生活して絵を描き続けたオランダのデルフトには、一作品も残っておらず、世界中に拡散しているのである。
これまでにも書いたが、私は、オランダに3年間住んでいたので、この地で、熱烈なフェルメール・ファンとなった。
最初に、アムステルダムに出張した時に、レンブラントの「夜警」を見たくて、アムステルダム国立博物館に行ったのだが、その時に、フェルメールの「牛乳を注ぐ女 」を見て、圧倒されてしまった。
それ以降、フェルメールを見る毎に、感激している彼の絵の魅力への傾斜は勿論だが、例えば、女の捲り上げたシャツの黄色っぽい辛子色から黄緑へとグラジュエーションの微妙な色彩の豊かさなど、何とも言えない程、美しいし、注がれれている牛乳の微妙な光など、細部まで、感動して見ていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/47/b8a67dd39566dd26a75c5ab710027ec1.jpg)
その後、すぐに、ハーグに出かけて、「マウリッツハイス美術館」に行って、「青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女)」や「デルフトの眺望」などを見て、また、感激しきりであった。
幸い、アムステルダムとロンドンでヨーロッパに駐在して、8年間いたので、イギリスやフランス、ドイツ、オーストリアなどの美術館を片っ端から、フェルメール行脚をしたのである。
アメリカでは、ニューヨークは、このブログの「ニューヨーク紀行」で書いているし、ワシントンにも行っているので、アメリカのフェルメーも殆ど見ている。
8年前に、東京都美術館で、フェルメール展が開催されて、見ていなかったダブリンのナショナル美術館の「手紙を書く婦人と召使」と個人蔵の「ヴァージル前に座る若い女」を見た。
何点見たか定かではないが、現存するフェルメールの大半を、この本の著者のフェルメール紀行の舞台で見ているので、その懐かしい思い出を反芻しながら読ませてもらった。
大切なことは、フェルメールがこれらの作品を描いたデルフトと言う風土と歴史的背景を知って、フェルメールを鑑賞することである。
私は、3年間、オランダに住んでいたので、オランダの風土は身に染みており、随分、オランダの中を歩いたし、デルフトにもよく行った。
フェルメールが絵を描いていた小部屋が、何処にありどんな構造かは定かではないが、オランダの気候は、特に冬は、正に、リア王の世界で、太陽が射すことは殆どなく日も短くて、古い家の窓も小さく、フェルメールの描くステンドグラス窓からの光は、非常に弱い筈である。
それは、レンブラントについても言えると思うのだが、ゴッホやモンドリアンなどのカラフルな絵の世界とは対極にあり、キューケンホフ公園やリセ郊外の球根栽培畑の極彩色のチューリップの乱舞や絨毯とは、全く違う世界であった。
デルフトに行けば、フェルメールの描いた「デルフトの眺望」と殆ど変わらない風景が今でも随所に残っているのが分かる。
街中のレストランなどに入って憩えば、古いオランダの家の室内が、暗くて、それ程、オープンで風通しが良く快適ではなかったことが分かって、また、違った感慨を覚える筈である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/b8/053dc20fe28f280910ea5b4058b1218f.jpg)
もう一つ、フェルメールが、生きていたのは、1632年10月から1675年12月だと言う。
その頃は、オランダは、東インド会社を設立してアジアに進出するなど、イギリスと制覇を争って、世界に雄飛していた時で、アムステルダムは、世界経済の一大中心であり、世界中の文物が集まっていた筈で、デルフトにいたフェルメールのの絵の中にも、そのグローバル展開の片鱗が垣間見える。
寒村ホーン港から、木っ端のような船に乗って、オランダ人は、世界に雄飛して、はるか、インドネシアにまで交易の輪を広げた。
そして、オランダの政治経済社会をリードしたのは、国王でもなく強力な貴族でもなく、成熟して経済力を備えた市民であり、その独特な社会構造が、フェルメールの絵画の土壌を育んできた。
この本の著者は理系なので、その方面の話がないのだが、政治経済社会など、あるいは、文化的側面から見たフェルメール論が欠落していて、私には、違和感があった。
ニューヨークのメトロポリタン博物館は、写真撮影自由なので、私の撮ったフェルメールを掲載しておく。
5点のフェルメールやレンブラントの絵の前で、長く、佇んでいたが、飽きなかった。
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ANAの機関紙の記事であるから、いわゆる、旅行記とも言うべきフェルメールの美術紀行で、それに、著者の専攻が生物学で理系の観点からフェルメールの絵を観察しているので、面白いと思ったのである。
光が粒子であることを予言したのは、アインシュタインだが、それより、300年前に、フェルメールの作品の細部には、秩序ある調和として「光のつぶたち」が見える。
レーウェンフックやスピノザたちが、ともに焦がれた、その光に導かれて旅に出た。と著者は言う。
「窓辺でリュートを弾く女」を見て、楽器を演奏中の女が窓の外の出来事をふと視線を向けた瞬間をシャッターが切られた。
動きの時間を止め、その中に次の動きの予感を封じ込めたと言う意味で、これを、”微分”と言う。
フェルメールの絵の中の光が、あるいは影が、絵としては止まっているにもかかわらず、動いているように見える。フェルメールの絵には、そこに至るまでの時間と、そこから始まる時間への流れが表現されている。時間を止めながら、時間の流れを表現する方法、言うならば、”微分的な要素が含まれる。と言うのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/ce/735b49c86520900b4518393d80c978f6.jpg)
私には、”微分”と言う意味が良く分からないのだが、写真を趣味としているので、フェルメールが、非常に微妙な意味深なシーンでシャッターを切って、その瞬間を封印している。と言うことは良く分かる。
それに、フェルメールは、ほかの大画家のように、神話やキリスト教の世界は勿論、偉大な歴史的イヴェントも壮大な風景も描かずに、極平凡なオランダの市井の中流階級の生活、それも、殆ど女性をテーマにした絵を描き続けているのだが、実に、その背後に内包される物語の豊かさなど、想像を超えた世界が展開されていて、興味深いことは分かる。
しかし、偉大な絵画は、皆、そう言うものではないであろうか。
フェルメールの作品で現存しているのは、37作品で、そのうち、ボストンの作品が盗難にあって行方不明なので、たったの36作品である。
アメリカでは、ニューヨークに8、ワシントンに4、そのほかに3、
オランダでは、アムステルダムとハーグに8、
イギリスではロンドンなどに4、
フランスに2、
その他、ドイツ、オーストリア などに8、だと思うのだが、
フェルメールが生活して絵を描き続けたオランダのデルフトには、一作品も残っておらず、世界中に拡散しているのである。
これまでにも書いたが、私は、オランダに3年間住んでいたので、この地で、熱烈なフェルメール・ファンとなった。
最初に、アムステルダムに出張した時に、レンブラントの「夜警」を見たくて、アムステルダム国立博物館に行ったのだが、その時に、フェルメールの「牛乳を注ぐ女 」を見て、圧倒されてしまった。
それ以降、フェルメールを見る毎に、感激している彼の絵の魅力への傾斜は勿論だが、例えば、女の捲り上げたシャツの黄色っぽい辛子色から黄緑へとグラジュエーションの微妙な色彩の豊かさなど、何とも言えない程、美しいし、注がれれている牛乳の微妙な光など、細部まで、感動して見ていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/47/b8a67dd39566dd26a75c5ab710027ec1.jpg)
その後、すぐに、ハーグに出かけて、「マウリッツハイス美術館」に行って、「青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女)」や「デルフトの眺望」などを見て、また、感激しきりであった。
幸い、アムステルダムとロンドンでヨーロッパに駐在して、8年間いたので、イギリスやフランス、ドイツ、オーストリアなどの美術館を片っ端から、フェルメール行脚をしたのである。
アメリカでは、ニューヨークは、このブログの「ニューヨーク紀行」で書いているし、ワシントンにも行っているので、アメリカのフェルメーも殆ど見ている。
8年前に、東京都美術館で、フェルメール展が開催されて、見ていなかったダブリンのナショナル美術館の「手紙を書く婦人と召使」と個人蔵の「ヴァージル前に座る若い女」を見た。
何点見たか定かではないが、現存するフェルメールの大半を、この本の著者のフェルメール紀行の舞台で見ているので、その懐かしい思い出を反芻しながら読ませてもらった。
大切なことは、フェルメールがこれらの作品を描いたデルフトと言う風土と歴史的背景を知って、フェルメールを鑑賞することである。
私は、3年間、オランダに住んでいたので、オランダの風土は身に染みており、随分、オランダの中を歩いたし、デルフトにもよく行った。
フェルメールが絵を描いていた小部屋が、何処にありどんな構造かは定かではないが、オランダの気候は、特に冬は、正に、リア王の世界で、太陽が射すことは殆どなく日も短くて、古い家の窓も小さく、フェルメールの描くステンドグラス窓からの光は、非常に弱い筈である。
それは、レンブラントについても言えると思うのだが、ゴッホやモンドリアンなどのカラフルな絵の世界とは対極にあり、キューケンホフ公園やリセ郊外の球根栽培畑の極彩色のチューリップの乱舞や絨毯とは、全く違う世界であった。
デルフトに行けば、フェルメールの描いた「デルフトの眺望」と殆ど変わらない風景が今でも随所に残っているのが分かる。
街中のレストランなどに入って憩えば、古いオランダの家の室内が、暗くて、それ程、オープンで風通しが良く快適ではなかったことが分かって、また、違った感慨を覚える筈である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/b8/053dc20fe28f280910ea5b4058b1218f.jpg)
もう一つ、フェルメールが、生きていたのは、1632年10月から1675年12月だと言う。
その頃は、オランダは、東インド会社を設立してアジアに進出するなど、イギリスと制覇を争って、世界に雄飛していた時で、アムステルダムは、世界経済の一大中心であり、世界中の文物が集まっていた筈で、デルフトにいたフェルメールのの絵の中にも、そのグローバル展開の片鱗が垣間見える。
寒村ホーン港から、木っ端のような船に乗って、オランダ人は、世界に雄飛して、はるか、インドネシアにまで交易の輪を広げた。
そして、オランダの政治経済社会をリードしたのは、国王でもなく強力な貴族でもなく、成熟して経済力を備えた市民であり、その独特な社会構造が、フェルメールの絵画の土壌を育んできた。
この本の著者は理系なので、その方面の話がないのだが、政治経済社会など、あるいは、文化的側面から見たフェルメール論が欠落していて、私には、違和感があった。
ニューヨークのメトロポリタン博物館は、写真撮影自由なので、私の撮ったフェルメールを掲載しておく。
5点のフェルメールやレンブラントの絵の前で、長く、佇んでいたが、飽きなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/53/f2f72d9b4d6a8a4e54ab9eb383d755da.jpg)
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