熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

吉右衛門と仁左衛門の盟三五大切・・・南北の奇妙な愛憎劇

2005年06月17日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   6月夜の部の歌舞伎座の演目のメインは、鶴屋南北の世話物で、「東海道四谷怪談」の続編で、並木五瓶の「五大力恋緘」の書き換えの「盟三五大切」。
   お岩が死んだ長屋が舞台になったり、忠臣蔵の不破数右衛門が出てきたり、忠臣蔵外伝のような奇天烈な悪者達の愛憎劇、話のつじつまは無茶苦茶で合っているのかいないのか、そこはそこで、江戸時代の侍・浪人と町人の生き様が見えて面白い。
   
   吉右衛門演じる薩摩源五兵衛(不破)は、御用金紛失の咎で勘当された浪人の身。一方、仁左衛門の笹野屋三五郎は、親に頼まれ旧主の為に100両調達する為に、情婦小万を芸者に出して稼がせる悪。夫婦二人で、源五兵衛が小万にぞっこんなのを良いことに、伯父より借り受けた100両を騙し取るが、騙されたと知った源五は、二人と思って誤って他人を殺害する。
   恐れおののきながら逃げる二人を追いかける源五との愛憎劇。強欲な小万の兄・大家が絡むが、とどのつまりは、二人の旧主は、源五その人、同じ100両が回り回っただけ。
   それを知らずに、小万は源五に殺され、三五郎は自害する。

   親に勘当されたアウトロー小悪を、仁左衛門が好演。この6月歌舞伎で、封印切の丹波八右衛門や新口村の父親孫右衛門の関西歌舞伎の和事の世界と、江戸の世話物・小粋な江戸の小悪党を演じ分ける器用さ、それに、どっぷり役に浸かりきった芸の確かさに感銘を受ける。
   昔むかしのことだが、仁左衛門を最初に見たのは、TVで、八千草薫とのラブロマンス、あの頃は少しニヒルで優男風の印象で本当の二枚目であった。今の仁左衛門は、芸の深さと貫禄だけでは説明のつかない高みに上っている。
   それに、今回は、時蔵の小万とのしっぽりとした男女のからみが、玉三郎や孝太郎相手の場合と違った雰囲気を醸し出していてまた違った味があって面白い。

   吉右衛門は、持ち味どおりの、得体の知れない凄みを利かせた骨太の源五を演じている。
   凄惨な殺人鬼でありながら、不破数右衛門として忠臣蔵の一味に加えられる幕切れなど、正に、南北の世相を風刺した皮肉、パロディだが、江戸時代の庶民は何を考えていたのか。

   歌六が演じる大家だが、お岩が殺された部屋に、店子を入らせて、夜中にお化けに化けて出て怖がらせて追い出して店賃を稼ぐ強欲ぶり。
   小万を追い込み嬲り殺す源五だが、首を帯びに包んで持ち帰り、口にご飯を運ぶ奇奇怪怪、とにかく、南北の世界は、恐怖と笑いをない交ぜにした世界で、悪の華がここまで極まれり、と言った異様な雰囲気である。
   ところが、そこは歌舞伎で、小万殺害の場面でさえ、錦絵の様に美しい舞台を展開する。虚実皮膜、何処までも美しいのである。

   7月の歌舞伎・シェイクスピアの十二夜の大カンバンが、歌舞伎座の正面に出た。
   蜷川幸雄がどんなシェイクスピアに仕上げるのか、楽しみである。

   随分前になるが、染五郎が、ロンドン歌舞伎でハムレットとオフェリアを演じるのを見た。
   歌舞伎役者は、裃を付け美しい衣装を身に着けるが、素晴らしいシェイクスピア劇になることであろう。 
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水郷・佐原のアナショウブ・・・華麗な花の輪舞

2005年06月16日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   水郷筑波国定公園・佐原市に「水生植物園」があり、赤系統から青系統、それに白い色々なハナショウブが咲き乱れている筈である。
   この写真のハナショウブは、昨年のもの。
   花は素晴らしいが、一日中、公園の隅々まで鳴り響いている大音量のピーひゃらピーひゃらの祭囃子が、喧しくて興ざめなので、毎年行っているが、今年は、行くのを止めてしまった。
   
   関東自動車道を潮来でおりて、牧歌的な田舎道を走り潮来を過ぎて田園地帯に入るとこの素晴らしい水生公園がある。
   遠くに筑波の山並みが見え、涼風に吹かれると実に爽やかで、日本の田舎を感じて気持ちが良い。

   多くのお客は、花を愛でる為に来ているのである。何故、安スピーカーで、低俗な大音響の「祭囃子」をがなりたてて、雰囲気をぶち壊してまで、客を粗末に迎えるのか。
   東洋一のハナショウブが咲き乱れるが、アヤメやかきつばた、ハナハスやスイレンも植えられている。しかし、アヤメは少ないのに、大衆に迎合するためか、何故か、「あやめ祭」と銘打ってイベントを組む。
   花の公園オランダの「キューケンホフ」も世界の観光客を集めているので、多少は俗化しているが、この比ではない。

   この公園に来るまでに、水郷遊覧の船の客引きが、また、煩い。
   公園前の売店のお茶が、園内の機械売りのお茶より50%ほども高い。
   私立公園なのに、市の観光課は、何を考えているのか。
   水郷の素晴らしい水生公園に来て、楽しみたいのは、稀に見る華麗なハナショウブの美しさ、そして、牧歌的で美しい大自然と故里の田舎の雰囲気、水郷地帯の澄んだ空気と爽やかな風の音…。
   貴重な観光遺産をないがしろにした仕打ちに、詰まらない事に腹が立つ。
   余談だが、小泉首相が、Welcome to Japan と言ってアピールしているが、礼節の国日本が、何故、観光行政に稚拙なのか、何時も疑問に思っている。

   アメリカの国立公園を思い出した。
   イエローストーン公園など、センター近くに限られたホテルと施設があるだけで、人工のものは殆どないしタクシーさえなかった。グランドキャニオンも、メサヴェルデも、フロリダも、兎に角、静かで大自然が充満していた。
   少し騒がしかったのは、ナイヤガラの滝。
   しかし、随分世界のあっちこっちを周っているが、植物園や花まつりの公園で、スピーカーがガナリタテテイル公園などはなかった。

   佐原は、伊能忠敬旧居もあり、旧市街は実に上手く古い街並みが整備保存されていて素晴らしい。日本の故里を感じたい時には、この佐原を訪れている。
   西に行くと、小京都が残っていて、素晴らしい雰囲気の街が多いが、関東では比較的少なくて、この佐原の旧市街の佇まいは貴重な存在である。

   何故、チグハグな観光行政を行うのか。
   佐原は、他にも佐原の大祭(山車まつり)など貴重な観光資源を持った関東有数の都市である。
   旧東京銀行佐原支店の建物など、復古調で実に良い。

   今年は、あのスピーカーの音が止んでいるかどうかは知らないが、もしそうなら、申し訳ない。
   佐原フアンの繰言と言うことになろうか。

   
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関西文化で日本活性化・・・奈良・京都を売り込め

2005年06月15日 | 生活随想・趣味
   上野の東京国立博物館・平成館大講堂で面白いシンポジュームが開かれた。
   ”世界遺産から関西の文化力を考える「KANSAI元気文化シンポジューム」”である。

   まず、最初は、約10分の「関西の歴史・文化」と銘打ったビデオ映画で、凝縮された関西の魅力を映像とサウンドで強烈にアピール。
   続いて、「大蔵流 狂言之舞 三番三」舞囃子 揉之段 で、笛、小鼓、大鼓の音に合わせて、茂山逸平が舞台を足拍子高く勇壮に大地の舞を舞う。
   本番は、河合隼雄文化庁長官の基調講演「文化の宝庫・関西」。
   最後は、西川りゅうじん氏他5人の関西応援団による「関西の世界遺産・文化力を全国に」と題するシンポジューム。
   兎に角、面白くてユニークな関西パワーが、東京文化の牙城・上野の杜に攻撃をかけた興味深い3時間であった。

   河合長官は、何時も変わらない丹波篠山スタイルで、ユーモアたっぷりの含蓄ある講演を熱演。

   仕事仕事で、仕事一途に打ち込む現在日本人に最も多いノイローゼは、抑鬱症である。
   何をする気力も能力もなく何もしない。ところが、ある日突然ポッと元気になることがあるが、そのきっかけになるのは、文化や芸術に関係していることが多いのに気がついた。
   抑鬱症は、英語でDEPRESSIONと言うが、経済不況も、英語でDEPRESSIONと全く同じ単語である。
   薬も利かなくなった日本経済だが、それなら、文化力で日本を活性化、元気を取り戻そうと考えた。
   文化で日本中を元気にしよう、まず、手始めに、文化と歴史の宝庫・関西から文化力を活用して文化運動を起こそう。
   アメリカ人に、日本全体のカウンセラーもやるのかと言われたが、兎に角、東京一極集中はいけない、せめて2極にしないと。
   関西の2府7県で結成した関西元気文化圏推進運動がこれである。

   安保時代のイデオロギーで社会を変革出来ると考えた高温爆発型の学生運動が失敗したのに対比させて、今日の学校の壁を越えた低温発酵型の学生のボランティア運動に夢を託しながら、時代や文化を縦横無尽に熱っぽく語っていた。

   かっての政府のばら撒き財政によって、地方の経済と地方格差の縮小が維持されていたが、不況になってからは、地方切捨てと市場原理主義の経済運営の結果、地方経済の疲弊が進行し、益々経済格差が拡大している。
   駅前通がシャッター通りに変わってしまったと言われて既に久しい。歴史や伝統のある地方の町ほど、その衰退の姿がひどくて寂しい。
   東京は古いといっても、精々、鎌倉室町時代どまり。しかし、長い間営々と築き上げられて来た多くの地方の古い文化や伝統、そして、文化遺産が忘れ去られようとしているのである。 

   北からの修学旅行の学生達が、東京都心や秋葉原の電気街で、そして、浦安のディズニーランドでストップして、箱根の山を越えなくなったのも時代の趨勢で、仕方のないことかもしれない。
   しかし、二度とない青少年時代に、強制的にでもしろ、自分達のアイデンティティの拠り所である日本のフルサトの文化と伝統に遭遇することがどれだけ貴重なことか、とも思うのだが。

   学生時代、亀井勝一郎や和辻哲郎の大和古寺本を持って嵯峨や明日香、斑鳩等を歩いた頃を懐かしく思い出しながらシンポジュームを聞いていた。
   
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コーポレート・レピュテーション(その2)・・・資産計上の可否・時価評価

2005年06月14日 | 経営・ビジネス
   コーポレート・レピュテーションについて、フォンブランの新著にふれて2日前に書いたが、一番重要な視点に関して端折ったので考えてみたい。
   それは、レピュテーションによる企業価値を、会計上、「レピュテーション資本」として評価してバランス・シートに資産計上しようと言う提言である。

   企業のレピュテーションは、謂わば、コーポレート・ブランディングに拠って高まる。
   製品の為のブランディング・プロセスを、企業全体に適用して、製品の良し悪しには関係なく、その企業の顧客の間に強力で情緒的な結びつきを築き顧客の企業への共感を増大させて、商品購入の可能性を高める。
   ブランドとの違いは、消費者は、企業の名前にいったん好意的な連想を持つと、製品の良し悪しには関係なく、その企業の製品に好意的になる。
   このハロー効果を利用して、レピュテーションは、企業に独自性を作り出し、差別化と競争優位性を生み出す。
   これ等の努力によって高まったコーポレート・レピュテーションを評価して、それに要した活動コストを資産計上しようとの提言である。

   レピュテーションと財務的価値は、次の3つの方法で相互に関連していると言う。
1.企業の業績に影響を与え収益に影響を及ぼす。
2.収益力が企業の将来性に影響し、その時価総額を高める。
3.企業活動そのものが「レピュテーション資本」の形成に貢献する。

   今日の保守的な会計原則では、アメリカといえども、広告、PR、スポンサーシップ、慈善活動、社会的責任関連支出、等々、ブランド構築およびレピュテーション構築活動に関するコストは総て費用処理されている。
   しかし、レピュテーションそのものは、企業資産として財務価値を備えており、企業の顕示性、親密性、名声の構築に寄与しているこれ等の活動を、レピュテーション創出に対する投資として捉えるべきである、と言うのである。

   企業の市場価値は、物的資本+金融資本+知的資本+レピュテーション資本、だとする。
   良く似た無形資本「知的資本」は、蓄積された知恵とノウハウ、企業の日常業務活動、従業員のスキルに存在している企業の財産、と定義しているが、「レピュテーション資本」そのものの定義が定まっていない上にその評価が難しく混同する可能性が高い。
   
   レピュテーション資本の評価の方法の一つは、企業名を有料で貸すライセンシング料の算定だと言う。横浜が日産に貸した「ニッサン・スタジアム」の様な例で、企業名のライセンスに対するロイヤリティ料率は、通常予想売上高の8~14%だとして、例えば、直近20年間に受け取るロイヤリティ収入総計の現在価値を算定してはどうかと言う。

   企業が大事故等不祥事を起こした場合、企業のレピュテーションは場合によっては地に落ち、株価は暴落する。
   コストとしては、物的資産や人命の悲劇的な損失や、それらの危機に関連した後始末の費用や法務費用等、他にも時価総額を引き下げる費用が発生する。

   いずれにしても、コーポレート・レピュテーションの重要な価値とその資産性は、認めるとしても、その定義、そして、その評価が極めて難しい。
   それに、資産そのものが、極めて不確定な要因によって変動する脆弱性を擁しており、保守的な要素を要求する会計原則に馴染まない。コストだけの積み上げだけではとても処理できるものではなく、人的な予測が入り込む余地が極めて高い。
   レピュテーション資本の時価評価は、どのようにするのか、正に至難の業ではなかろうか。

   国際会計基準の導入によって、有価証券や不動産の時価評価で辛酸を舐めてきた日本の経営陣には、何をか況やである。
   企業価値については、株式市場で評価してもらえればそれで十分。
   レピュテーションを高める為、企業の社会的責任の追及も、そして、IR活動も、それなりに努力して、株価アップ、時価総額のアップに努力しましょう、と言うことであろうか。
   それに、あまり事業以外のことに経営資源を投入すると、フリードマンやドラッカーから、経営者の本来の使命を忘れた不道徳な行為だと糾弾されるかも知れない。
   

   
   
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セントラル・パークでMETオペラ・・・爆音がドミンゴを伴奏

2005年06月13日 | クラシック音楽・オペラ
   メトロポリタン・オペラからの”High Notes”。メールサービスで、ジョセフ ヴォルプ総支配人から、セントラル・パーク他で、METのオペラ「トスカ」と「サムソンとデリラ」、バレー「シルヴィア」「ライモンダ」「白鳥の湖」「ジゼル」等、無料の野外コンサートが開かれるとの連絡が入った。
   
   毎年行われている夏の風物詩・セントラル・パークの野外オペラは、いかばかりか、今年は、トスカをAprile Millo, カバラドッシを、Francisico Casanova, スカルピアを、James Morrisが歌うと言う。
   この野外オペラを筆頭に、欧米では、真夏の夕刻迫る頃から深夜にかけて、公園や古城、宮殿、野外劇場等で屋外コンサートや音楽フェスティバルが開かれて、クラシック音楽フアンを楽しませてくれる。

   フィラデルフィアでは、郊外の野外音楽場「ロビンフットデル」で、真夏に10回ほど、フィラデルフィア管弦楽団が、無料コンサートを開いていて、素晴らしいクラシック音楽の夕べを楽しませてくれた。
   ボストンのタングルウッドとか、ロスアンジェルスのハリウッドボール等もその延長線上のコンサートではなかろうか。

   オペラで有名なのは、何と言ってもイタリア・ベローナの古代ローマの野外劇場アレーナでの野外オペラで、凄いスペクタクルの舞台で、数万の観客を圧倒する。
   ローマのコロッセオより大きな野外劇場の4分の1位が舞台になるのであるから、壮大な宮殿の舞台も思いのまま、兎に角、登場人物の数から舞台のセットなど大変なスケールで、ウイーン国立歌劇場やミラノスカラ座のグランド・オペラとは一味も二味も違う。
   トーランドットとアイーダしか見ていないが、ホセ・クーラのカラフ「眠ってはならない」の熱唱など忘れられない。

   ロンドンで有名なのは、ハイド・パークの野外コンサートで、以前に3大テノールのジョイントコンサートが開かれた事もある。この頃は、BBCのプロムの野外部門を担っているようである。
   しかし、私が経験した思い出深い夏の野外オペラは、ロンドンの北の郊外ケンウッドでのロイヤル・オペラのコンサート形式の特別公演。この方は有料でチケットが中々手に入らない。
   毎年行っていたが、一番思い出に残っているのは、プラシド・ドミンゴがカバラドッシを歌った「トスカ」。トスカはマリア・ユーイング、スカラピアは、ユスチアス・ディアスであった。
   隣に座っていた老婦人、ドミンゴの追っかけで、スペインから来たと言う。

   森に囲まれた池を隔てた向こう側にステージがあって、正面にはイス席、その背後には広大な芝生が広がっていて、ピクニックスタイルで思い思いの恰好をした観客がひしめいている。公園の外の何も見えない木陰にも観客が一杯で、舞台がはねた後の交通渋滞は大変なものである。
   まだ青空が少し残り西日がさしている頃に、タクトが振り下ろされ、ドミンゴが、「星はきらめき」を歌い始める頃には、日はとっぷりと暮れて漆黒の闇に包まれている。
   水を打ったような静けさを、航路を外れた航空機の微かな爆音が名テナーのアリアに伴奏、しかし、暗くて陰湿なサンタンジェロの牢獄の中で死に直面しているカラバドッシの心境になって聞き入る全聴衆には、全く聞こえていないのかも知れない。

   兎に角、7月になると大オペラ劇場のシーズンは終わるが、夏のフェスティバルが趣向を凝らして各地で開かれるので、年中オペラシーズンは終わらない。
   夏の野外コンサートの唯一の泣き所は、その日の天候、雨である。ヨーロッパの夜は、時には異常に寒い。

   グラインドボーンの夏のオペラシーズンも堪らなく楽しいし、ハンプトンコート宮殿でのホセ・カレーラスのコンサートも楽しかった、それに、ストックホルム市庁舎前でのセミステージオペラ「こうもり」で、美人で実にチャーミングなロザリンデに見とれている間に雨に打たれて右往左往したり、面白い思い出が一杯だが、また項を改めて書いてみたい。
   
   
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コーポレート・レピュテーション・・・ステイクホールダー重視の経営への回帰

2005年06月12日 | 経営・ビジネス
   今書店の店頭で、経済経営書の書棚の目立つ所に平済みされているのがチャールズ・J・ホンブラン他著の「コーポレート・レピュテーション」。
   本来、マーケティング部門の経済書と目されているのか、電通の翻訳だが、結果的には、転換期に差し掛かっている企業経営に対する重要な問題提起書ともなっている。

   レピュテーションと言う英語を日本語に直すとどうなるのか、難しい。評判、名声、どちらも良く似ているがニュアンスが違う。
   しかし、最近のニュースでは、企業の悪評、即ち、エンロンやワールドコムの粉飾経営、自動車を初めとする一連の三菱の不誠実な経営、JR西日本の列車事故等レピュテーションを落とすケースが目立っており、法化社会への移行が進むにつれて、違法行為によって市場から退場を余儀なくされた企業も数多くなってきている。

   この本は、コーポレート・レピュテーションが、如何に企業価値に影響を与えその帰趨を制しているかを語りながら、レピュテーションを形成している企業経営に於ける「顕示性」「独自性」「真実性」「透明性」「一貫性」について豊富な調査とデータに基づき詳細に分析している。
   レピュテーションを高める為には、利益至上主義の経営だけではダメで、順法精神を涵養し社会的責任を追及する良き企業市民であるとともに、従業員の士気を高揚させ、公明正大かつ透明な経営に意を用い説明責任を十分に果たす必要がある等、企業の総てのステイクホールダーを満足させるような経営を行わなければならないことを示唆している。

   マネタリストの総帥ミルトン・フリードマンは、「企業の利害は株主の利害、株主の為に出来るだけ多くの利益を上げるのが、経営者の道徳的義務である。社会や環境上の目標を利益に優先する経営者ー道徳的に振舞おうとする経営者ーは、非道徳的だ。
社会的責任が唯一認められるのは、利益追求の方便としての場合だけで、しかし、この偽善が収益を生まなければ、非道徳だ。」と言う。
   ピーター・ドラッカーも、企業の社会的責任論はビジネスの原則に対する危険な歪曲だと警告している、とか。
   
   法制度は、会社は株主のもので、経営者は株主の為に利益を極大化する義務を負う、としている。
   尤も、株主の利益を、どのタイムスパンで考えるかによって、経営の目的が大きく違ってくる。
   しかし、企業に対するレピュテーションが企業価値を決する重要な要因なら、企業価値をアップする為にそのレピュテーションを更に高めて維持することが、経営者にとって最大必須事項となることも事実である。
   要は、立派な経営を行い利益を上げることであるが、経済社会の大きな変革の中で、人間の価値観が大きくかつ急速に変動しており、利益至上主義の経営だけでは行き詰まることもまた事実であろう。
   
   
   
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自然が人類へ報復・・・エコロジーの破壊と経済成長

2005年06月11日 | 地球温暖化・環境問題
   最近、地球上では、大地震や大洪水、旱魃、台風、噴火等異常気象現象が頻発し、自然の脅威に直面している。
   これは、自律充足していた大自然が、閉鎖された宇宙船地球号に乗っていることを忘れて環境破壊をし続けてきた人類に対して、破壊されたエコシステムを再生する為のセットバック運動、即ち、自律への回帰・人類への報復ではないであろうか。

   昔、古代中国の杞の人々が天が落ちてこないか心配したと言う。
   このように有り得ないことを心配することを杞憂と言うのであるが、地球の長い生命から言えば、人類が地球の主である時代はほんの一瞬で、人類が如何に暴挙を続けようと、或いは、慎ましやかに生きようと、大勢には関係なく、早晩、人類の終焉、即ち、天は落ちてくる。

   現在、平和で豊かな物質文明に酔いしれている人類にとっては、この平安は永続すると思って疑わないし、例えば、北朝鮮の核攻撃も有り得ないし、JR西日本のような列車事故は自分には無縁だと思っている。
   しかし、今この瞬間でも、アマゾンの熱帯雨林は少しづつ消えており、地球上の環境破壊は進んでいる。
   要は、臨界点に達すれば、エコシステムは完全に破壊され元に戻らなくなって人類は破滅する、遅いか早いかだけの問題なのである。
   高度な文化文明を謳歌したアトランティスも、瞬時に地中海に没した、あれが、もうそこまで来ている。

   オーストラリアの経済学者・クライヴ・ハミルトンが、「経済成長神話からの脱却 GROWTH FETISH 」と言う本を著した。
   お馴染みの経済成長指標GNPやGDPは、国民の繁栄を金銭取引の量によってはかるのであるが、国民の幸福の尺度で見た場合、家族や共同体の貢献や自然環境の貢献など人間にとって大切なものが欠落している。
   市場経済システムから排除された人間の幸福に大きく影響を与える幸福決定要因を加味した本当に人間の幸せ度を表す「持続可能な経済厚生指数」として、GDPに変わる尺度GPI(真の進歩指数 Genuine Progress Indicater)を使おうと提唱している。

   世界の富裕国が環境破壊の回避を嫌がる理由は唯一つ、経済成長への悪影響、一部の巨大企業の成長が鈍化することで、これだけで、世界と人類の未来を危険に曝す大問題だ、と言う。
   京都議定書に反対するブッシュ政権は、この典型であろう。
   
   ところで、人類の利便性と文明生活・幸福に貢献する最高の経営企業体トヨタだが、逆に、環境破壊の最大の元凶自動車を生産している。どうこれらの問題に応えるのか、これがトヨタの経営に問われる最も重要な課題であり、トヨタの命運を決する要因でもある。
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クレマチス

2005年06月11日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   何度も庭植えして、失敗していたクレマチスが、今年は、宿根がしっかり根付いて、枝を伸ばして花を付けてくれた。
   大きなイチジクの木の下で咲いているが、紫が鮮やかで目立っている。
   中国のテッセンと日本のカザグルマの勾配種とか。
   春先に、枯れたような細い茎の節から小さな緑の芽が顔をだすと嬉しくなる。
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カシワバアジサイ

2005年06月10日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   葉が柏の葉のようなアジサイで、背が高く大きくなるので、毎年強く切り戻す。
   房状に咲いて、まあるく優雅に咲く普通のアジサイと全く雰囲気が異なる。

   その年の気候にもよるが、秋になると、大きな柏葉が錦のように美しく紅葉する。

   青紫色のアジサイが、少しづつ色付き始めたが、この花の方が早く咲き始めた。
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シェイクスピアは政治の視点から見ると面白い・・・役者が踊る

2005年06月10日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   社会思想専門のアメリカの教授アラン・ブルームが”シェイクスピアの政治学 Shakespieare's Politics " と言う興味深い本を書き、松岡啓子さんが訳した本を読んだ。
   
   シェイクスピアは、殆ど総ての劇において、政治的な設定に多大な配慮を払っており、彼が描く最も偉大な主人公達は、もっぱら市民社会でしか発揮されない能力を発揮する支配者である。
   従って、全く一人を好む人間よりも、政治的な情念を持ち政治的な教育を受けた人間の方が、シェイクスピアを理解し易いし、そして、政治哲学は、シェイクスピア作品を解釈する上で欠く事の出来ないものである、と言う。

   政治的なものは、人間的なものすべてを発揮できる枠組みを与えるので、最も興味深い情念、最も深い人間を引き寄せる。
   それゆえ、最も完璧に人間を描きたいと思う劇作家は、大抵政治的な主人公を選ぶ、とも言う。

   ゲーテは、「偉大な劇作家は、もし、彼が創造的であると同時に、強い高尚な意見を心に抱いていて、それが全作品に一貫しているなら、彼の作品の魂を全民族の魂とすることもできるであろう。」と言っている。
   ブルームは、人間は如何に生きるべきか等人間の本源的な問題を、国民的古典が果たしてきた、人々を教化し統合する機能を持ったシェイクスピア戯曲を通して、感動し真摯に学ぶべきであると言っているのであろうか。

   この本、「ヴェニスの商人」「オセロー」「ジュリアス・シーザー」を材題に政治論を通した面白い話が展開されている。

   シェイクスピアは、異なる人種、異なる宗教に跨る社会が成立するかどうかを、ヴェニスを舞台とした二つの劇、ユダヤ人とキリスト教徒、白人と黒人の関係において、詳細に取り組み克明に描いている。

   シャッフツベリー伯の言を引用して、オセローとデズデモーナとの結婚は、不釣合いな縁組、山師のペテンと躾のよくない若い娘の不健康な想像力から生まれた奇怪な結びつきで、イアーゴーの卑劣な企みがなくても、二人の性格や関係に蒔かれた種から、当然起こるべくして起こる。

   オセローは、所詮は傭兵で、ヴェニスにトルコの脅威があるから重宝されているのであって、平和になれば御用済みお払い箱となる異邦人。ヴェニスとの接点は、ヴェニスの権威と証のデズデモーナとの結婚のみ、自分自身の魅力と実力によりヴェニスを征服したと信じていたオセローの確信が、イアーゴーの暴きにより、徐々に剥げ落ちてゆく。
   そんな視点から見ると、デズデモーナのハンカチの意味が違ってくる。
   オペラの時も、シェイクスピア劇の時も、そのハンカチを何時どのように落とすのか注視しているが、自分自身で墓穴を掘って行かざるを得ないオセローが悲しい。

   
   
   
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ヒマラヤ越えキャラバンと猛烈経営学

2005年06月09日 | 経営・ビジネス
   NHKのBS映画劇場で「キャラバン」と言うE・ヴァリ監督の映画を見た。
   ネパール北部の塩湖で採取した塩を5000メートルのヒマラヤを越えて南側に運び、小麦と交換して暮らしているネパールのキャラバン隊を通して人間の生への営みの崇高さを詩情豊かに描いている。
   
   ネパールの地球の屋根・ヒマラヤ高山を行くヤクのキャラバン隊の厳しい自然との戦いは、正に生死を賭けたものである。
   近道をする為に選んだ湖岸の断崖絶壁は瞬く間にヤクを湖底にのみこみ、ブリザード吹き荒れる山道は、老人やヤクの命との引き換えの難路、食べる為には、毎年、キャラバンを組んでアルプス越えをしなければならない。
   IT革命やユビキタスや、と言っている世界があれば、何百年変わらない物々交換の為に自然と悪戦苦闘しながら旅をする民族もいる。

   後継の息子をなくした長老が現役に復帰してキャラバンを組み、長老が認めない後継候補の合理的で有能な若者が別なキャラバンを組んで、それぞれ別々にヤクを引きつれ山に登る。
   現在の経営学のケース・スタディに使えそうな話が充満している。
   世代間の対立、後継者問題、リーダーシップ論、人事管理論、等など、考えてみれば実に面白い。

   ところで、同時に読んでいた本が、ハーバード・シリーズのジョージ・ストーク他著の「徹底力を呼び覚ませ HARDBALL Are you playing to play or playing to win ? 」と言う強烈な経営学書であり、奇妙な共感を感じてしまった。

   ミルトン・フリードマンの強烈な競争原理を踏襲して「競争他社に打ち勝つことで獲得する優位性に到達ことを目標に掲げて、顧客の獲得と利益の実現に、全力で挑戦することこそ企業の役割。
   世界的成功を収めた企業のリーダー(HARDBALL WINNER)は、競争優位を最大限に追求・活用することこそ、株主、顧客、社員、社会に対する責務だと確信している。
   ビジネスは人生と同じで、優位性を希求して、大胆でイノヴェイティブな競合他社が登場する脅威に直面し、このような挑戦に応戦し、勝ち抜く為の終わりなきサイクルである。」と言う。
   圧勝に圧勝を重ねて競合他社を蹴散らして、競争優位の地位を確乎不動にする為の6つの戦略を伝授する強烈な経営学書がこの本である。

   厳しい自然の脅威の挑戦を受けてこれに応戦して人類が築き上げたのが4大文明、「挑戦と応戦」、これがトインビーの文明論の根幹だが、しかし、このHARDBALL論は、自分自身で挑戦を作り出し応戦せよと教える。  
   何時の世も、生き抜くためには大変な試練を要求する。

   しかし、今の企業社会よりも、自然に対峙し命を賭けて生きてきた人々の方がもっと厳しい世界を生きてきた。
   そして、人のぬくもりと生きる感動が見え隠れする命の鼓動があった。
   真っ青な空、雪を頂いた峻厳な山々、ブリザード吹き荒れる道なき道、輝く湖、広大な自然をバックに黙々とヤクのキャラバンを追うネパール人の姿が眩しかった。
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ユビキタス、しかし、UNIVAC 120に息を呑む

2005年06月08日 | 経営・ビジネス
   少し前から、下火になっていたユビキタスと言う言葉を、相変わらずオウム返しのように繰り返している総合家電のトップが多いが、今回、久しぶりに、この道の権威達の集まったフォーラムで聞いた。

   日本ユニシス主催の”BITS 2005"フォーラムのユビキタス・サミットが、全日空ホテルで開催され聴講した。
   第一部が、「先端知の供創…U-JAPANの展望」 第二部が、「新たなビジネス領域の創造…ポテンシャルと多様性」であったが、総則、一般論の議論展開であった。

   まず、興味を引いたのは、フォーラムではなく、入り口に展示されていた”UNIVAC 120"の勇姿である。
   日本で始めて導入された汎用ビジネス用コンピューターで、612個の懐かしい真空管がむき出し。高さは人間より少し高いくらいで横幅2メートル、奥行き1メートル足らずで、横幅1メートル程のプログラムを入力していたプログラム・ロード(?)が並んでいる。
   1955年の2月、初めて、東証と野村に納入されたとか、あれから、もう50年になるのである。
   REMINGTON RAND UNIVAC 120 の文字が光る。
   IBM のワトソンJr.が、ペンシルバニア大学で開発されていた巨大コンピューター「ユニアック」の価値を認識できなくて、レミントン・ランドに先を越されて地団駄踏んだ曰く付きの機械である。

   ユビキタス社会は、ヘーゲルの弁証法的な螺旋状態の発展をしている。例えば、教育にしても、画一的な集合教育ではなく、個別の教育、寺子屋教育がE-ラーンニングに変わっている。
   しかし、IT革命により楽になるのではなく、遥かに高度な能力が要求されるポテンシャルの大きな社会に代わり、益々、複雑系の要素が加速されてきている。唯の過去への回帰ではない。
   
   最高の利便性が確保できれば出来るほど、社会の脆弱性が増す。
   従って、経済社会を結びつける核は、信頼であり、信頼が重要なビジネス資産となる。真にGOOD BUSINESSを行う企業だけが、GOOD COMPANYとなる。

   IT革命は、情報主権の革命。為政者や権力者が握っていた情報が、消費者、生活者に移りパワーシフトした。
   IT革命は、価値創造面だけ見るのではなく、価値防衛面を注視すべきである。個人情報の保護、企業情報の保護、知的財産の保護は勿論のこと、IT産業は、人間生活への配慮や社会性の欠如、モラル面等への無関心など問題を置き去りにして発展して来たが、ユビキタス社会の抱える複雑な問題に正面きって対処すべきである。

   ユビキタス社会の健全な発展の為には、産官学民の協力が必須。
   特に、ユビキタス社会のインフラ整備には膨大な費用と長い時間を要するので、官のイニシャティブと力の投入が必要である。
   アメリカは、巨大な軍事および国家予算を投入してインターネットを構築してインフラ整備に貢献した。
   日本は、現在豊かな成熟した消費文化を持つ高齢化社会に入っているが、日本政府が主導権を取って世界に冠たるユビキタス・インフラを開発・構築して世界に貢献できないであろうか。
   
   面白い話が展開していたが、坂村健先生も、独演会ではなかったので、格調の高い迫力のある坂村節が、少し鈍っていたのが惜しかった。
   しかし、モデレーターの尾中昭文氏他、9人の卓越した講師の話は、夫々随分興味深く、久しぶりに素晴らしいフォーラムに参加できたと思っている。
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ホタルブクロ

2005年06月08日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   何年か前に植えたホタルブクロが、宿根草になって、毎年、勢い良く背丈が伸びて青紫の花をたっぷり付ける。
   最初は、小さな堅い蕾だが、開くと急に大きくなる。
   わが庭には、白と赤色系統の花が多いが、青い花は夏には有難い。
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染五郎と孝太郎の恋飛脚大和往来・・・仁左衛門渋い脇役

2005年06月07日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   3ヶ月続いた中村勘三郎披露公演が終わったので、6月の歌舞伎座は、何時もの静けさを取り戻した。
   連日、殆ど満員御礼でお祭り騒ぎであった客席も空席がちらほら、特に、出し物や役者の質が変わったわけでもないが、襲名披露の威力、それに3ヶ月も続けて公演をした勘三郎の人気と実力は見上げたものである。

   今回は、昼の部を見た。
   最初は、「信州川中島合戦の輝虎配膳」。敵方の軍師山本勘助を味方につけるため母親を懐柔しようとする輝虎を梅玉、毅然として断る母越路を秀太郎、切り捨てようとする輝虎を琴の弾き語りでなだめようとする妻お勝を時蔵、33年ぶりの公演とかだが、秀太郎の進境に感じ入った。

   次は、狂言を舞踊化した「素襖落」。太郎冠者が吉右衛門、大名が富十郎、姫御寮が魁春、芸達者な吉右衛門と富十郎のコミカルな掛け合いと踊りが面白い。

   今回興味を持ったのは、最後の「恋飛脚大和往来」の封印切と新口村の段。近松門左衛門の「冥土の飛脚」の歌舞伎版だが、大分中身も印象も、オリジナルを踏襲している文楽版と違う。
   一番違うのは、問題の封印切りの扱い方。遊女梅川を身請けする為に、金のない忠兵衛が、切羽詰ってご法度の公金の封を切ってしまう場である。
   文楽の方は、男が立たなくなって自分自ら封印を切るが、歌舞伎の方は、敵役八右衛門に煽られて火鉢に小判を叩き付けている間に偶然に封印が切れる。
   忠兵衛と八右衛門のかけあいと奈落に突き進む忠兵衛の心の変化が面白いが、これはむしろ改悪だと思っている。

   忠兵衛を染五郎、梅川を孝太郎が演じている。若い二人なので、実に新鮮な舞台で、前回見た仁左衛門と玉三郎の舞台の印象とは全く違う。
   元々、欠陥商品の忠兵衛の全く身勝手な振る舞いによって、周りの人間の運命を奈落の底へと暗転させる物語であるが、仁左衛門と玉三郎は、人間のどうしても逃れられない相と業、そして、その肺腑を抉るような慟哭を、実に、美しく詩情豊かに演じていた。
   一方、この若い二人の舞台は、芝居を観ると言うよりは、現実の世界を観ているよう感じで、印象が直に飛び込んでくるのである。

   仁左衛門は、敵役の丹波屋八右衛門と父親孫右衛門の二役を演じる。文楽と違って八右衛門は、完全な悪役になっているが、実に小気味よいテンポで大阪弁を連発し忠兵衛を詰問・罵倒し、封印切に追い込む。
   がらりと変わって、死の逃避行の忠兵衛をかき抱き、義理と人情の板ばさみに、断腸の思いで逃避を見送る哀切迫る別れを、実に感動的に演じている。
   
   この舞台、当然、松嶋屋型で演じているのだが、やはり、仁左衛門の存在は大きい。
   仁左衛門は、ただの役者ではない。東京歌舞伎座の襲名披露で演じた助六など、お家芸の団十郎に優とも劣らないいきでいなせで、それでいて、義理人情に厚い骨太の胸のすくような男達(おとこだて)を演じていた。
   和事のガシンタレの大阪の男をやらせても、荒事や骨太の立ち役をやらせても、仁左衛門ほど素晴らしい芸を見せる歌舞伎役者は稀有である。

   孝太郎は、父親の仁左衛門の忠兵衛で相手役の梅川を演じているので、実に情感たっぷりな演技で余韻を残す。
   少し軽い感じがするが、染五郎の忠兵衛は、実に初々しくて素晴らしい。今後、忠兵衛が強力な持ち役となり、近松もの、そして、関西和事の世界に入っていくのではなかろうか。
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東大法学部の公開講座・・・学生の中で勉強

2005年06月06日 | 生活随想・趣味
   2年ほど前から、東大法学部の公開講座の受講の為に、年に4~5回本郷の東大に通っている。
   詳しく言うと、「東京大学ビジネスローセンター」が、学生がビジネスローに親しむ為に開設された講座で、企業法務に携わる一般人にも開放された公開講座である。
   一般の私は、商事法務のご好意で受講しているのであるが、毎回、ビジネス法務関連の講座で、興味深く勉強させてもらっている。
  
   講座内容は、大体東大教授が講義されるが、資生堂の福原会長が来られたり、鳩山議員や松本社長が出られる座談会等多少変わった形式もある。しかし、殆どは、時流に沿ったテーマで、東西一流の法学者が、1時間半にわたって講義をされる。
   神田秀樹教授の「コーポレート・ガバナンス再考」やハーバード大学のDavid Westfall教授の「Collective Labor Relations in American Law」など興味深かった。

   先週は、江頭憲治東大教授の「新会社法(案)について」の講義で、殆ど大教室が満員の盛況であった。大半が東大の学生で、黒っぽい背広姿のビジネスマンが10%ほど散らばっている感じであった。
   学生達は、新会社法(案)の厚いテキストを繰りながら熱心にノートを取っている。
   何時もは、聴衆が少なく空席が多いのだが、この日は、若い学生の熱気が充満していて、久しぶりに学生時代に返ったような錯覚を覚えた。

   大学を出て、10年後にアメリカで大学院を出て、その後、海外を回っていたので、比較的勉強には縁があったと思うのだが、最近の知識の賞味期限は限りなく短くなってしまったので、このような公開講座で学生と同じになって勉強できるのは、新鮮で貴重な経験である。

   数ヶ月前にも、早稲田の法学部で、素晴らしい法律のシンポジュームが開かれたし、明治大学の新しい素晴らしいキャンパスで開発関連のシンポジュームがあって参加したが、大学が門戸を開放して、高度な学問を公開してくれるのは、本当に有難い。

   東大の帰り道に、東大の生協の書店によって、何冊かの本を買って帰る。書店店頭の本の傾向を見るのが面白い。
   三四郎池は、春雨にくすぶっていた。   
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