中村信二郎があの名優中村錦之助二代目を襲名した。
今回、その襲名披露歌舞伎でまず夜の部を鑑賞し、口上、そして、角力場の放駒長吉と山崎屋与五郎、魚屋宗五郎の磯部主計之助の新錦之助の颯爽とした舞台を観た。
私は、初代錦之助は、映画とTVでしか見ておらず、その歌舞伎の舞台は全く知らないのだが、歌舞伎座の2階のロビーに写真のパネルが展示されているのを見ると、中々、魅力的な舞台だったようである。
口上で、仁左衛門が一緒したと言っていたが、幡随院長兵衛などは、はまり役だったかもしれないと思った。
初代の錦之助の映画で真っ先に思い出すのは、内田吐夢監督との宮本武蔵だが、美空ひばりに見初められて映画の世界に入ったのだから、ひばりとの共演の映画も印象深い。
何かやりたくて仕方なかったのに歌舞伎では良い役が付かなくて、結局、退路を絶たれて映画に没頭したのだろうが、あの人間国宝中村雀右衛門でさえ映画に出ていたし、先代鴈治郎や先代幸四郎の素晴らしい映画作品も残っている。
威勢の良い町人から、股旅もの、浪人もの、水も滴る素晴らしい将軍や大名まで、とにかく長期間に亘ってスーパースターを演じ続けて幅広い時代劇の役柄を器用にこなしてきたのだが、どれも粋で面白かった。
そんな意味では、二代目中村錦之助の使命は大きいかも知れないと思う。
私は、浪人時代の一年間、隔日くらいに映画館に出かけて映画を見ていたので、あの頃の錦之助の映画は殆ど見ている。
四当五落と言われ5時間以上寝ると大学入試に落ちると言われた時代だったが、厚顔にも英語で一寸ミスって落ちただけなので次は大丈夫だとタカを括っていたのだが、とにかく、当時は邦画洋画取り混ぜて古い映画も含めて3本立て興業でそれも数日で代わるので、3館くらい掛け持って好きなものだけ見ていても毎日新鮮な映画を思う存分に楽しめる有難い時代でもあった。
古いヨーロッパやアメリカの名画も随分見たが、同時に、
私の青春時代と錦之助の映画の思いでとはダブっていると言っても不思議ではないのだが、娯楽の少なかった時代であり、中村錦之助は正に大スターで光り輝いていたのである。
口上は、師匠の中村富十郎が取り仕切っていたが、非常に丁寧に二人の錦之助について紹介していた。
錦之助が18歳、富十郎が15歳で、戦後復興なった千日前の劇場で歌舞伎をやっていた頃、悪戯の限りを尽くして先輩達に叱られた話をしたいのだが、錦之助の了解を取り辛くなってしまって出来ないと笑わせていた。
福助が、新錦之助とパリ興業でホテルで同室だったが言われない思い出があると意味深なことを言っていた。
東蔵が、二代目を春風駘蕩、ふわふわした性格だと言っていたが、魁春と梅玉兄弟が、そうではなくて活発で腕白だと暴露。梅玉が、時蔵が弟錦之助に優しく弟思いなので自分も心せねばならないと笑わせていた。
芝翫が、錦之助に会ったのは昭和11年の4兄弟の初舞台の時だと古い話を披露していたが、初代錦之助とは4歳違いとか、64歳で亡くなっているので気付かなかったが同世代なのである。
吉右衛門は、吉右衛門劇団のころの初代錦之助の話をしていて、両名とも代が(2代で)若いと付け加えたが、このギャグはうけなかった。
勘三郎は、持ち前の誠実さで頑張って欲しいと言いながら、とにかく、自分も経験したが襲名は体力勝負だから身体に気付けるようにとエールをおくっていた。
左團次がいなかったので面白い話を聞けなかったが、この頃段々口上が味気なくなってきているのが寂しい。
ところで、角力場での錦之助の舞台だが、米屋あがりの力士放駒と大坂の優男与五郎と言う全く違った役柄を実に器用に上手く演じていて魅せてくれた。
特に近松門左衛門の世界とも言うべき若旦那与五郎は秀逸で、多少、大阪弁に訛りがあったが、徳兵衛や忠兵衛や治兵衛の舞台を是非観たいと思った。
前回は、幸四郎と染五郎の舞台を鑑賞したのだが、今回は重厚な富十郎との師弟の舞台で、非常に新鮮な錦之助の放駒が印象的であった。
そして、さすがに、歌舞伎界きっての二枚目役者であるから、魚屋宗五郎の磯部主計之助の凛々しさ格調の高さ滲み出る威厳などは流石であり、勘三郎の舞台の正に画竜点睛、襲名披露の舞台の最後を飾るのに相応しい役柄であった。
今回、その襲名披露歌舞伎でまず夜の部を鑑賞し、口上、そして、角力場の放駒長吉と山崎屋与五郎、魚屋宗五郎の磯部主計之助の新錦之助の颯爽とした舞台を観た。
私は、初代錦之助は、映画とTVでしか見ておらず、その歌舞伎の舞台は全く知らないのだが、歌舞伎座の2階のロビーに写真のパネルが展示されているのを見ると、中々、魅力的な舞台だったようである。
口上で、仁左衛門が一緒したと言っていたが、幡随院長兵衛などは、はまり役だったかもしれないと思った。
初代の錦之助の映画で真っ先に思い出すのは、内田吐夢監督との宮本武蔵だが、美空ひばりに見初められて映画の世界に入ったのだから、ひばりとの共演の映画も印象深い。
何かやりたくて仕方なかったのに歌舞伎では良い役が付かなくて、結局、退路を絶たれて映画に没頭したのだろうが、あの人間国宝中村雀右衛門でさえ映画に出ていたし、先代鴈治郎や先代幸四郎の素晴らしい映画作品も残っている。
威勢の良い町人から、股旅もの、浪人もの、水も滴る素晴らしい将軍や大名まで、とにかく長期間に亘ってスーパースターを演じ続けて幅広い時代劇の役柄を器用にこなしてきたのだが、どれも粋で面白かった。
そんな意味では、二代目中村錦之助の使命は大きいかも知れないと思う。
私は、浪人時代の一年間、隔日くらいに映画館に出かけて映画を見ていたので、あの頃の錦之助の映画は殆ど見ている。
四当五落と言われ5時間以上寝ると大学入試に落ちると言われた時代だったが、厚顔にも英語で一寸ミスって落ちただけなので次は大丈夫だとタカを括っていたのだが、とにかく、当時は邦画洋画取り混ぜて古い映画も含めて3本立て興業でそれも数日で代わるので、3館くらい掛け持って好きなものだけ見ていても毎日新鮮な映画を思う存分に楽しめる有難い時代でもあった。
古いヨーロッパやアメリカの名画も随分見たが、同時に、
私の青春時代と錦之助の映画の思いでとはダブっていると言っても不思議ではないのだが、娯楽の少なかった時代であり、中村錦之助は正に大スターで光り輝いていたのである。
口上は、師匠の中村富十郎が取り仕切っていたが、非常に丁寧に二人の錦之助について紹介していた。
錦之助が18歳、富十郎が15歳で、戦後復興なった千日前の劇場で歌舞伎をやっていた頃、悪戯の限りを尽くして先輩達に叱られた話をしたいのだが、錦之助の了解を取り辛くなってしまって出来ないと笑わせていた。
福助が、新錦之助とパリ興業でホテルで同室だったが言われない思い出があると意味深なことを言っていた。
東蔵が、二代目を春風駘蕩、ふわふわした性格だと言っていたが、魁春と梅玉兄弟が、そうではなくて活発で腕白だと暴露。梅玉が、時蔵が弟錦之助に優しく弟思いなので自分も心せねばならないと笑わせていた。
芝翫が、錦之助に会ったのは昭和11年の4兄弟の初舞台の時だと古い話を披露していたが、初代錦之助とは4歳違いとか、64歳で亡くなっているので気付かなかったが同世代なのである。
吉右衛門は、吉右衛門劇団のころの初代錦之助の話をしていて、両名とも代が(2代で)若いと付け加えたが、このギャグはうけなかった。
勘三郎は、持ち前の誠実さで頑張って欲しいと言いながら、とにかく、自分も経験したが襲名は体力勝負だから身体に気付けるようにとエールをおくっていた。
左團次がいなかったので面白い話を聞けなかったが、この頃段々口上が味気なくなってきているのが寂しい。
ところで、角力場での錦之助の舞台だが、米屋あがりの力士放駒と大坂の優男与五郎と言う全く違った役柄を実に器用に上手く演じていて魅せてくれた。
特に近松門左衛門の世界とも言うべき若旦那与五郎は秀逸で、多少、大阪弁に訛りがあったが、徳兵衛や忠兵衛や治兵衛の舞台を是非観たいと思った。
前回は、幸四郎と染五郎の舞台を鑑賞したのだが、今回は重厚な富十郎との師弟の舞台で、非常に新鮮な錦之助の放駒が印象的であった。
そして、さすがに、歌舞伎界きっての二枚目役者であるから、魚屋宗五郎の磯部主計之助の凛々しさ格調の高さ滲み出る威厳などは流石であり、勘三郎の舞台の正に画竜点睛、襲名披露の舞台の最後を飾るのに相応しい役柄であった。