熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

中谷巌著・・・「資本主義はなぜ自壊したのか」

2009年08月19日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   新自由主義経済学を賛美し、「改革なくして成長なし」をスローガンに改革を推進した自民党のブレインの一人であった中谷巌氏が、その過ちを認めて自ら懺悔の書であるとして、グローバル資本主義が、欺瞞に満ちた「モンスター」に変身してしまったと説きながら、この病根に蝕まれた日本が、如何に再生を期すべきかを論じたのが、この「資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言書」である。
   昨年末出版後爆発的に売れた本だが、何度か講演会を聞いていて、ほぼ、何を語ろうとしているのか見えてきたので、遅ればせながら、復習のつもりで読んでみた。

   20世紀末にかけての新自由主義を取り巻く激動とも言うべき革命的な環境変化が、重要な意味を持つのだが、グローバル資本主義は、世界活性化の切り札であると同時に、世界経済の不安定、所得や富の格差拡大、地球環境破壊など、人間社会にさまざまな「負の効果」をもたらす主犯人であり、グローバル資本が「自由」を獲得すればするほど、この傾向は助長され、経済社会を窮地に追い込むと言うのが、中谷教授の論点である。
   元々、資本主義そのものが、資本の増殖を目的とする飽くなき利益追求を是認するイデオロギーなのだが、ソ連の崩壊、すなわち、社会主義の実質的崩壊によって勝利を収め、旧社会主義国や新興国市場の参入による巨大な市場の開放とICT技術の飛躍的な発展により、資本主義が、グローバル資本主義と言う「モンスター」へと変貌して行く、その過程を克明に描きながら、資本主義の自壊を説くことから初めて、自身の宗旨替え、そして、日本の将来のあり方を論じている。

   歴史的な背景を掘り下げて、欧米の一神教や、資本主義の権化であるアメリカの理念国家・宗教国家の由縁等々、資本主義を暴走させた新自由主義の背景を浮き彫りにしながら、
   何故、グローバル資本主義が、格差を生み出し、市場社会を「悪魔の碾き臼」と化し、自然を破壊するのかと言った本質的な問題を、懇切丁寧に論じていて面白い。
   しかし、これだけなら、ただの現在資本主義論に終わってしまう。グローバル資本主義の毒牙に犯されて暗礁に乗り上げているとは言え、実質的には、その対極に位置する日本の宗教的・文化的・社会的な特質を克明に分析追尾しながら、地球環境の保全と自然と共生に無上の価値を置く「安心・安全」を旨とする日本魂を、今こそ、日本が、発揮して、人類社会に活路を開くべき時期が来たと進軍ラッパを吹くところが、中谷教授の中谷教授たる所以であろうか。
   谷深ければ山高しと言うべきか、アメリカかぶれであった筈の中谷教授の日本教への宗旨替えとその傾倒ぶりの凄まじさは格別であり、実に興味深い。

   面白いのは、極めて貧しく遅れた国である筈のキューバやブータンの人々の幸せそうな生活ぶりに直接触れて、マーケットメカニズムに任せておけば世の中は良くなると言う単純な改革思想に疑問を持ったと言う件である。
   小泉内閣で、「改革なくして成長なし」と連呼して市場原理主義の旗を振り続けていたが、現実の経済社会では、世界経済が不安定になり、所得格差・地方格差は拡大の一途を辿り、地球環境は破壊の極に達しつつあり、どんどん泥沼の様相が濃くなって行く・・・理論と現実の乖離の凄まじさにショックを受けたと言うことであろうか。

   私自身は、アメリカ留学と言ってもビジネス・スクールだし、あの当時のウォートンは、ローレンス・クラインのエコノメトリックス・モデルが主体だったようで授業も受けていないので何とも言えないし、市場原理主義、新自由主義には関心がなかった。
   丁度、レーガノミックス、サプライサイド経済学が隆盛を極めていた頃だったが、経済学については、学生時代はシュンペーターとケインズ一辺倒で、アメリカでは専らガルブレイスだったので、新自由主義経済学にはあまり縁がなかったし、それに、ミルトン・フリードマンのマネタリズムには興味がなかった。
   何故なら、既に、半世紀近くも前に、ガルブレイスの「ゆたかな社会」が愛読書であったので、自由競争による市場経済が、如何に、公共財や公共福祉を蔑ろにしてソーシャル・バランスを欠いた私企業の物財経済のみを富ませる「ゆたかな社会?」を生み出すのか、資本主義の病根を理解していたので、その後、厚生経済的な資本主義に興味を持ち続けてきたのである。

   自由競争などの知識は、サミュエルソンや他の色々な経済学書から得た知識は多少あったと思うので、今でも、資本主義の競争原理の重要性は認めているが、市場原理主義と言う意識はなかった。
   それに、その後のビジネスと生活の大半は、ヨーロッパで過ごし、成熟した市民社会が息づいているヨーロッパの経済社会では、市場原理主義は馴染まなかったし、その影響を受けていたので、中谷教授のアメリカかぶれととその転向の苦悩については、全く他人事と言うしかない。
   ところが、竹中平蔵教授は、私は市場原理主義ではないと言うのだけれど、まだ、宗旨替えの気配はなさそうである。

   この書物での中谷教授の主張には、殆ど異論はないが、日本に対しては、中谷教授が説くほど、世界に秀でた素晴らしい国、素晴らしい国民だと言う気にはなれない。
   日本が、「組織の中心」を空洞化する「中空構造」の国であると言うことや、日本社会は、平等主義の傾向が強く、全員が当事者意識を持って頑張るので現場力が強いと言う点は、確かにそうだと思うが、今、日本で一番求められているのは強力なリーダーシップで、その欠如が国運を傾けている。
   程々に有能だけれど、創造性に欠け、互換性の利く均質性の高いスペアパーツのような人材ばかりを育成して、リーダーシップ教育なり、民衆をリードするエリート教育が齟齬を来たした為に、歴史の転換点たる重要な時期に、特に、太平洋戦争を筆頭に、リーダーシップを発揮出来ず、国運を傾けた経験は枚挙に遑がない。
   
   今日の自民党のリーダーシップ欠如とその体たらく、真のエリート意識と公僕としての誇りを失った高級官僚の悪行の数々など数え上げれば切がないが、いくら、国民の質が高く現場力が立派でも、鯛のように頭から国が腐ってしまうのである。
   ヒットラーやスターリンが生まれることもあるので、欲は言えないが、もう、日本にも、プラトンの哲人政治の真似事くらいできるリーダーが生まれても良い頃ではないであろうか。
   素晴らしいリーダーを頂かない限り、明日の日本は限りなく暗いと思っている。
コメント
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