数年前に、「日本の品格」と言う新書がベストセラーになったことがあるが、その著者藤原教授が、TVで、天皇制の問題についての議論だったような気がするが、伝統あるものについては、とにかく、伝統だから価値があり尊いのだと主張していた。
理由如何に拘わらず、伝統だから価値があるのだと言う考え方で問答無用と言った議論を展開するのに違和感を感じたので、藤原教授の本は読まなかったのだが、今、リチャード・セイラー&キャス・サンスティーンの「行動経済学」を読んでいて、伝統や習慣などは、非常にひょんな偶然によって確立するのだと言う件に非常に興味を持った。
著者は、ソロモン・アッシュの実験とその理論を引用して、
簡単な質問を連続する実験で、被験者の他のメンバー総てが誤った回答をすると、その被験者は3回に1回の割合で自分の判断と違っていても誤った答えを出す。たとえ、見ず知らずの二度と会うことのない他人の判断に対する反応でもである。
何故、自分の認識した事実を無視してまで誤った回答をするのか、それは、他人の答えから伝達される情報故であり、ピア・プレッシャーと集団から非難されたくないと言う欲求故なのだが、最近の脳画像研究でも、アッシュのような実験の状況下で同調するときには、実際に状況を他の総ての人と同じように判断していると思われることが明らかになったと言う。
被験者を小さな集団に分けて実験すると、個人の判断は収斂して、推定距離のコンセンサスとなる集団規範が形成される。
集団ごとに判断が著しく異なり、集団が夫々の判断に固守する状況が生まれた。
このことは、出発点が少しだけ、それも恣意的に違っていると言うだけで、同じように見える集団考える集団が生まれると言うことは、都市や地域や、更に国でさえ、全く異なった考えや行動に収斂すると言う理由を理解する重要な手がかりになると言うのである。
興味深いのは、サクラを使って、自信満々に理論を滔々と打たせると、集団の結論に大きな影響を与えて集団の判断を収斂させる効果が抜群で、これが既定概念として定着すると、最初の集団の判断を誘導したサクラがいなくなっても、最初の集団の判断が何時までも残る傾向が認められる。
民間部門、公的部門を問わず、首尾一貫してぶれない主張をする人は、はじめは恣意的なものであっても、大勢の人がそれに順応することとなり、集団や活動を自分の思い通りの方向にに動かせる、と言うのだが、ヒットラーやどこかの元首相の場合は、この例なのであろうか。
状況が変わって新しい必要性が生じても、大勢の人がそれに順応すると言うこの「集団的保守主義」が、伝統や習慣を形成して社会に定着する。
これに、集団の全員あるいは大部分が、他の人がどう考えているのか知らない状態である「集団的無知」が増幅させて、気に入っているからでもなく、擁護できると考えている訳でもない伝統や習慣が永続する。
その最たるものは、旧ソ連の共産主義で、どれだけ多くの人がこの体制を嫌っていたか市民が気づかなかったからだと言う。
社会の規範として君臨し続けている多くの伝統や習慣であろうとも、これらを拒否し、劇的ではあるが世界の歴史を変えるほどでもない変化は、一種のバンドワゴン効果(人々が有利だと思う方向に流れてゆく現象)生み出すナッジ(注意喚起、気づかせ、控えめな警告)を与えれば引き起こせるのだと言う。
この現象は、今、チェンジを標榜して政権をとった民主党の活躍で、あっちこっちでタブーが破壊され、パラダイム・チャンジで、多くの慣例や習慣、伝統さえも、大きく変えられようとしている。
例えば、誰が考えても、前原国交大臣の主張する羽田空港のハブ空港化と成田との一体的オペレーションは最も適切な政策であり戦略だが、自民党下の政官財のトライアングル主導の日本では議論さえタブー視(?)されていた。
これは、憲法改正論議もそうで、かっては、国会議員が改憲論を語ることさえタブー視されていたことがあったが、こんな例は五万とある。
伝統や習慣など、社会を統べる素晴らしい多くの文化が、日本の日本たる世界に誇るべき価値と尊厳の源を形成していることは間違いないが、伝統や習慣として永永と受け継がれてきていると言うだけで尊いわけではない。
何が価値ある伝統であり習慣なのか、守り通すべきものと変わるべきものとを峻別して、世の中を良くし人々の幸せを目指す英知が求めれれている。
さて、この「実践行動経済学」だが、この「言動は群れに従う」などと言う部分はこの本のごく一部で、世の中人のため、経済社会を良くするための「ナッジ」への知恵が充満している。
民主党の皆さんや為政者の皆さんが読むと参考になるのではないかと思う素晴らしい本であることを付記しておきたい。
理由如何に拘わらず、伝統だから価値があるのだと言う考え方で問答無用と言った議論を展開するのに違和感を感じたので、藤原教授の本は読まなかったのだが、今、リチャード・セイラー&キャス・サンスティーンの「行動経済学」を読んでいて、伝統や習慣などは、非常にひょんな偶然によって確立するのだと言う件に非常に興味を持った。
著者は、ソロモン・アッシュの実験とその理論を引用して、
簡単な質問を連続する実験で、被験者の他のメンバー総てが誤った回答をすると、その被験者は3回に1回の割合で自分の判断と違っていても誤った答えを出す。たとえ、見ず知らずの二度と会うことのない他人の判断に対する反応でもである。
何故、自分の認識した事実を無視してまで誤った回答をするのか、それは、他人の答えから伝達される情報故であり、ピア・プレッシャーと集団から非難されたくないと言う欲求故なのだが、最近の脳画像研究でも、アッシュのような実験の状況下で同調するときには、実際に状況を他の総ての人と同じように判断していると思われることが明らかになったと言う。
被験者を小さな集団に分けて実験すると、個人の判断は収斂して、推定距離のコンセンサスとなる集団規範が形成される。
集団ごとに判断が著しく異なり、集団が夫々の判断に固守する状況が生まれた。
このことは、出発点が少しだけ、それも恣意的に違っていると言うだけで、同じように見える集団考える集団が生まれると言うことは、都市や地域や、更に国でさえ、全く異なった考えや行動に収斂すると言う理由を理解する重要な手がかりになると言うのである。
興味深いのは、サクラを使って、自信満々に理論を滔々と打たせると、集団の結論に大きな影響を与えて集団の判断を収斂させる効果が抜群で、これが既定概念として定着すると、最初の集団の判断を誘導したサクラがいなくなっても、最初の集団の判断が何時までも残る傾向が認められる。
民間部門、公的部門を問わず、首尾一貫してぶれない主張をする人は、はじめは恣意的なものであっても、大勢の人がそれに順応することとなり、集団や活動を自分の思い通りの方向にに動かせる、と言うのだが、ヒットラーやどこかの元首相の場合は、この例なのであろうか。
状況が変わって新しい必要性が生じても、大勢の人がそれに順応すると言うこの「集団的保守主義」が、伝統や習慣を形成して社会に定着する。
これに、集団の全員あるいは大部分が、他の人がどう考えているのか知らない状態である「集団的無知」が増幅させて、気に入っているからでもなく、擁護できると考えている訳でもない伝統や習慣が永続する。
その最たるものは、旧ソ連の共産主義で、どれだけ多くの人がこの体制を嫌っていたか市民が気づかなかったからだと言う。
社会の規範として君臨し続けている多くの伝統や習慣であろうとも、これらを拒否し、劇的ではあるが世界の歴史を変えるほどでもない変化は、一種のバンドワゴン効果(人々が有利だと思う方向に流れてゆく現象)生み出すナッジ(注意喚起、気づかせ、控えめな警告)を与えれば引き起こせるのだと言う。
この現象は、今、チェンジを標榜して政権をとった民主党の活躍で、あっちこっちでタブーが破壊され、パラダイム・チャンジで、多くの慣例や習慣、伝統さえも、大きく変えられようとしている。
例えば、誰が考えても、前原国交大臣の主張する羽田空港のハブ空港化と成田との一体的オペレーションは最も適切な政策であり戦略だが、自民党下の政官財のトライアングル主導の日本では議論さえタブー視(?)されていた。
これは、憲法改正論議もそうで、かっては、国会議員が改憲論を語ることさえタブー視されていたことがあったが、こんな例は五万とある。
伝統や習慣など、社会を統べる素晴らしい多くの文化が、日本の日本たる世界に誇るべき価値と尊厳の源を形成していることは間違いないが、伝統や習慣として永永と受け継がれてきていると言うだけで尊いわけではない。
何が価値ある伝統であり習慣なのか、守り通すべきものと変わるべきものとを峻別して、世の中を良くし人々の幸せを目指す英知が求めれれている。
さて、この「実践行動経済学」だが、この「言動は群れに従う」などと言う部分はこの本のごく一部で、世の中人のため、経済社会を良くするための「ナッジ」への知恵が充満している。
民主党の皆さんや為政者の皆さんが読むと参考になるのではないかと思う素晴らしい本であることを付記しておきたい。