終わってしまったが、今月の歌舞伎座の昼の部は、面白くて豪華な演目もあったのだが、私の関心は、藤十郎と東京ベースの重鎮歌舞伎役者との混成舞台による近松門左衛門の「心中天網島」の「河庄」の舞台であった。
芝居については、どちらかと言うと、シェイクスピア戯曲から入っているので、物語性のあるリアルな舞台に関心が行き、豪華さやスペクタクル要素の強い見せ場に特色のある江戸歌舞伎よりは、人間の義理人情や男女の愛情の機微、弱さ悲しさなどを克明に描いたような近松ものに、興味を持つのも仕方のない事かもしれない。
尤も、近松には心中ものが有名だが、しかし、心中ものは、近松の作品中では、それ程、大きな比重を占めてはいない。
ところで、この天網島は、1720年に、天満宮之前の紙屋の主人治兵衛と曽根崎新地の紀伊国屋の遊女小春が、網島の大長寺で心中したのを、すぐに事件記者よろしく近松が世話浄瑠璃に仕立て上げたのだが、その後の改作と「天網島時雨炬燵」と繋ぎ合わせた更なる改作版である。
シェイクスピアの作品もそうだが、昔の戯曲は、上演途中で、どんどん、聴衆の反応に応じて、中身が変わっており、決定版などはなかった。
シェイクスピア時代には、盗作コピーライターが居て、翌日には、良く似た芝居が、他の競争劇場で演じられてたと言った話がざらにあったらしい。
この河庄の段は、冒頭、治兵衛の妻おさんが、丁稚に、心中しようとしている夫の命を助けるために分かれてくれと言う内容の手紙を持たせて小春に手渡すところから始まる。
紀伊国屋を訪ねてくる一寸大きめの丁稚三五郎を演じるのが、小春の時蔵の次男の萬治郎で、東京人でありながら大阪弁の訛りも少なく、中々コミカルで癖のない良い味を出しており、大女優(?)である父親を「おばはん」呼ばわりしながら好演していて、その後の悲劇の前の束の間の清涼剤として面白い。
そこへ、弟治兵衛の放蕩に悩んで小春の心底探索のために、侍姿に身を窶した兄の粉屋孫右衛門(段四郎)が、河庄を訪ねて来て小春の客となる。
小春は、おさんの手紙で身を引く決心をしたのだが、母を残して死ぬのは嫌なので、治兵衛との中を裂いてくれと孫右衛門にかき口説く。
小春に会いたい一心で訪ねて来た治兵衛が、これを戸口で聞きつけて、一緒に心中したくないと言う小春の心変わりに歯軋りして、腰の脇差を引き抜いて障子越しに突き刺すのだが、孫右衛門に刀を叩き落されて両手を格子に縛り付けられる。
そこへ、身請け願望の恋敵の江戸屋太兵衛(亀鶴)と五貫屋善六(寿治郎)がやって来て、金返せと言って、縛り付けられている治兵衛をよってたかって苛めつける。
結局、兄に借金を立て替えられて助けられた治兵衛は、河庄の中に引き込まれて、小春を前にして、兄に取っちめられる。
この舞台で、藤十郎以外で、唯一関西ベースの芸を引く亀鶴と寿治郎の演技は流石で、大坂の庶民代表のような遊び人の雰囲気を良く出していて面白い。
やっと、正気に戻った治兵衛は、兄に対しては平身低頭、これ弁解に努めるのだが、心変わりして裏切ったと思って頭にきている小春には、駆け寄ってくれば殴る蹴るの乱暴狼藉、悪口雑言の限りを尽くして苛め抜く。
遊女が客を騙すのは世の常と兄に諭されるのだが、裏切られた悔しさに耐え切れずに、小春と取り交わした起請文を取り出して、小春にも返せと迫る。
治兵衛に取り返せと急かされた孫右衛門は、嫌がる小春の胸元から起請文を取り出そうとすると、一緒におさんからの手紙も出てきて読むと、先程の愛想尽かしはおさんへの義理立てと分かって呆然とする。
泣き伏す小春を置き去りにして、孫右衛門は、治兵衛を引き連れて門を出るのだが、まだ、手紙の主が太兵衛だと邪推している治兵衛は、誰からの手紙だと小春から聞き出したくて戻ってくる。
また、殴りかかろうとするので、孫右衛門が中に割って入るのだが、影に隠れて小春の足を抓り上げる治兵衛の小心もののいじましさが哀れである。
とにかく、この河庄の場は、小春は殆どうつむきっぱなしで忍び泣く、耐えに耐える薄倖の悲しい女を演じ続けるシーンが多いので、心の襞と葛藤を、僅かな身のこなしで表現しなければならない非常に難しい役であるのだが、以前に見た雀右衛門の小春の弱さ儚さとは一寸ニュアンスが違うが、時蔵の場合には、瑞々しさと華やかさがある分、その哀れさが余計に引き立つ。
近松の女は、この治兵衛もそうだが、定番のがしんたれと言うか、頼りないつっころばし風の優男と違って、強引に男を引っ張って死に急ぐ健気で強い女が多いのだが、この舞台での小春は、非常にオーソドックスで男にそれなりに調子を合わせながらも、相手の女房を思い母を思う優しさを持った女として描かれている。
この「河庄」の舞台だけ見ていると心中ものには思えないのだが、今回は端折られた次の「紙屋内」の段では、実に良く出来た女の鑑とも言うべき妻おさんが登場して涙を誘う。
小春との別れの誓詞を書けと言われて涙ぐむ治兵衛に、夫婦としてのほんのささやかな語らいや憩いの場さえ持てればそれだけで幸せだと思っているおさんに、そんなに私が嫌いなのかとかき口説かせ、小春を死なせては女の義理が立たないと身請け資金まで用立てして祝言の用意までさせ、最後には、父親に引っ張られて連れ戻される。
おさんは従兄妹。治兵衛夫妻には、幼い二人の子供も居て、本来なら分別盛りの幸せな家族の筈だが、道に迷って悪所狂いの身の果ては、地獄への一本道。
善意の人々の優しさも温かさも振り切って心中への道を歩んで行った治兵衛の物語は、あまりも馬鹿馬鹿しくてアホらしい話だが、人間の性と言うべきか、人の心を振るわせ続けている。
近松門左衛門に惚れ込んで心酔し切った藤十郎だが、まさに18番がこの「心中天網島」の治兵衛で、芸の深さを追及しながら、何時も、大阪のどこにでも居るようながしんたれ優男を地で行くような、等身大の生身の男として実に感動的に演じ続けていて爽快でさえある。
曽根崎心中のお初もそうだが、余人を持って変えがたいということであろうか。
それが藤十郎の藤十郎としての由縁かもしれない。
ところで、孫右衛門を演じた段四郎の人情味豊かな大坂男を始めてみたのだが、藤十郎との相性も良く感動的な舞台であった。
以前に見た関西歌舞伎の看板役者である我當の孫右衛門も素晴らしかったが、やはり芸の年輪と切磋琢磨の賜物であろうか、大坂人的なニュアンスも豊かに匂わせながら、オーソドックスで普遍的な孫右衛門像を作り出していて好演していた。
芝居については、どちらかと言うと、シェイクスピア戯曲から入っているので、物語性のあるリアルな舞台に関心が行き、豪華さやスペクタクル要素の強い見せ場に特色のある江戸歌舞伎よりは、人間の義理人情や男女の愛情の機微、弱さ悲しさなどを克明に描いたような近松ものに、興味を持つのも仕方のない事かもしれない。
尤も、近松には心中ものが有名だが、しかし、心中ものは、近松の作品中では、それ程、大きな比重を占めてはいない。
ところで、この天網島は、1720年に、天満宮之前の紙屋の主人治兵衛と曽根崎新地の紀伊国屋の遊女小春が、網島の大長寺で心中したのを、すぐに事件記者よろしく近松が世話浄瑠璃に仕立て上げたのだが、その後の改作と「天網島時雨炬燵」と繋ぎ合わせた更なる改作版である。
シェイクスピアの作品もそうだが、昔の戯曲は、上演途中で、どんどん、聴衆の反応に応じて、中身が変わっており、決定版などはなかった。
シェイクスピア時代には、盗作コピーライターが居て、翌日には、良く似た芝居が、他の競争劇場で演じられてたと言った話がざらにあったらしい。
この河庄の段は、冒頭、治兵衛の妻おさんが、丁稚に、心中しようとしている夫の命を助けるために分かれてくれと言う内容の手紙を持たせて小春に手渡すところから始まる。
紀伊国屋を訪ねてくる一寸大きめの丁稚三五郎を演じるのが、小春の時蔵の次男の萬治郎で、東京人でありながら大阪弁の訛りも少なく、中々コミカルで癖のない良い味を出しており、大女優(?)である父親を「おばはん」呼ばわりしながら好演していて、その後の悲劇の前の束の間の清涼剤として面白い。
そこへ、弟治兵衛の放蕩に悩んで小春の心底探索のために、侍姿に身を窶した兄の粉屋孫右衛門(段四郎)が、河庄を訪ねて来て小春の客となる。
小春は、おさんの手紙で身を引く決心をしたのだが、母を残して死ぬのは嫌なので、治兵衛との中を裂いてくれと孫右衛門にかき口説く。
小春に会いたい一心で訪ねて来た治兵衛が、これを戸口で聞きつけて、一緒に心中したくないと言う小春の心変わりに歯軋りして、腰の脇差を引き抜いて障子越しに突き刺すのだが、孫右衛門に刀を叩き落されて両手を格子に縛り付けられる。
そこへ、身請け願望の恋敵の江戸屋太兵衛(亀鶴)と五貫屋善六(寿治郎)がやって来て、金返せと言って、縛り付けられている治兵衛をよってたかって苛めつける。
結局、兄に借金を立て替えられて助けられた治兵衛は、河庄の中に引き込まれて、小春を前にして、兄に取っちめられる。
この舞台で、藤十郎以外で、唯一関西ベースの芸を引く亀鶴と寿治郎の演技は流石で、大坂の庶民代表のような遊び人の雰囲気を良く出していて面白い。
やっと、正気に戻った治兵衛は、兄に対しては平身低頭、これ弁解に努めるのだが、心変わりして裏切ったと思って頭にきている小春には、駆け寄ってくれば殴る蹴るの乱暴狼藉、悪口雑言の限りを尽くして苛め抜く。
遊女が客を騙すのは世の常と兄に諭されるのだが、裏切られた悔しさに耐え切れずに、小春と取り交わした起請文を取り出して、小春にも返せと迫る。
治兵衛に取り返せと急かされた孫右衛門は、嫌がる小春の胸元から起請文を取り出そうとすると、一緒におさんからの手紙も出てきて読むと、先程の愛想尽かしはおさんへの義理立てと分かって呆然とする。
泣き伏す小春を置き去りにして、孫右衛門は、治兵衛を引き連れて門を出るのだが、まだ、手紙の主が太兵衛だと邪推している治兵衛は、誰からの手紙だと小春から聞き出したくて戻ってくる。
また、殴りかかろうとするので、孫右衛門が中に割って入るのだが、影に隠れて小春の足を抓り上げる治兵衛の小心もののいじましさが哀れである。
とにかく、この河庄の場は、小春は殆どうつむきっぱなしで忍び泣く、耐えに耐える薄倖の悲しい女を演じ続けるシーンが多いので、心の襞と葛藤を、僅かな身のこなしで表現しなければならない非常に難しい役であるのだが、以前に見た雀右衛門の小春の弱さ儚さとは一寸ニュアンスが違うが、時蔵の場合には、瑞々しさと華やかさがある分、その哀れさが余計に引き立つ。
近松の女は、この治兵衛もそうだが、定番のがしんたれと言うか、頼りないつっころばし風の優男と違って、強引に男を引っ張って死に急ぐ健気で強い女が多いのだが、この舞台での小春は、非常にオーソドックスで男にそれなりに調子を合わせながらも、相手の女房を思い母を思う優しさを持った女として描かれている。
この「河庄」の舞台だけ見ていると心中ものには思えないのだが、今回は端折られた次の「紙屋内」の段では、実に良く出来た女の鑑とも言うべき妻おさんが登場して涙を誘う。
小春との別れの誓詞を書けと言われて涙ぐむ治兵衛に、夫婦としてのほんのささやかな語らいや憩いの場さえ持てればそれだけで幸せだと思っているおさんに、そんなに私が嫌いなのかとかき口説かせ、小春を死なせては女の義理が立たないと身請け資金まで用立てして祝言の用意までさせ、最後には、父親に引っ張られて連れ戻される。
おさんは従兄妹。治兵衛夫妻には、幼い二人の子供も居て、本来なら分別盛りの幸せな家族の筈だが、道に迷って悪所狂いの身の果ては、地獄への一本道。
善意の人々の優しさも温かさも振り切って心中への道を歩んで行った治兵衛の物語は、あまりも馬鹿馬鹿しくてアホらしい話だが、人間の性と言うべきか、人の心を振るわせ続けている。
近松門左衛門に惚れ込んで心酔し切った藤十郎だが、まさに18番がこの「心中天網島」の治兵衛で、芸の深さを追及しながら、何時も、大阪のどこにでも居るようながしんたれ優男を地で行くような、等身大の生身の男として実に感動的に演じ続けていて爽快でさえある。
曽根崎心中のお初もそうだが、余人を持って変えがたいということであろうか。
それが藤十郎の藤十郎としての由縁かもしれない。
ところで、孫右衛門を演じた段四郎の人情味豊かな大坂男を始めてみたのだが、藤十郎との相性も良く感動的な舞台であった。
以前に見た関西歌舞伎の看板役者である我當の孫右衛門も素晴らしかったが、やはり芸の年輪と切磋琢磨の賜物であろうか、大坂人的なニュアンスも豊かに匂わせながら、オーソドックスで普遍的な孫右衛門像を作り出していて好演していた。