熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

デビッド・スミック著「世界はカーブ化している」

2009年10月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   フリードマンの「フラット化した世界」に対して、本当に世界はフラット化したのかと言う問題意識で、「グローバル金融はなぜ破綻したのか」を、非常に興味深く分析したのが、この「THE WORLD IS CURVED」。
   示唆に富んだ面白い本だが、スミックは、恐慌であろうと何であろうと、資本主義経済においては、何よりも自由市場が重要な役割を果たすと言う信念
を持っている。
   したがって、自由市場経済に大きく箍を嵌めようとする風潮には反対で、ここでは、「世界経済のトラブルメーカー」と言う章で、プライベート・エクイティ・ファームとヘッジファンドの役割を高く評価していることについて考えてみたい。

   記憶に間違いがなければ、バフェットが、ジャンクボンドの帝王として罪に問われたマイケル・ミルケンを、屑に過ぎなかった業績不振企業のジャンクボンドを活用して大量の資金に流動性を与え、これらの企業を復興させ、今を時めく多くのベンチャー企業に資金を提供してアメリカ経済に企業家精神を蘇らせたと高く評価していたし、
   また、英国ポンドを崩壊寸前にまで追い込んで大儲けしたジョージ・ソロスが、当時は大非難を浴びたが、このドラスティックなポンドの期せずした暴落とその適正化が、英国経済のその後の活性化と経済成長に大いに貢献したと言うのが、今日では広く認められている評価であることのを考えれば、あながち間違っているとばかりは言えない。

   さて、スミックは、PEFやヘッジファンドに対して、これらのトラブルメーカーである金融機関は、謂わば、国際経済の真実を引き出す”自白薬”であって、時代に合わない政府の政策や見解にたえず挑戦し、しばしば、大企業のCEOが犯す自社についての偽りの説明に疑いの目を向けて、これらにアタックするところが社会の浄化剤としての貢献だと言うことになる。
   ヘッジファンドは、偉大なグローバリゼーション劇の最初に登場した役者で、全世界の経済を広くマクロ経済的に分析・評価して、様々な投資方法を駆使して、多数の国際市場の動きを反映するポートフォリオを組み立ててると言うことを始めた。新グローバル金融をしっかり利用して最高の裁定取引をやる方法を考え出したイノベーターだと言うのである。

   グリーンスパンが、ヘッジファンドを「花粉を広めるミツバチ」だと表現したとかで、ヘッジファンドなかりせば、金融市場は更に厳しい苦難に直面した筈だと言い切る。
   昔はクローニー資本主義で、自由に動く市場がなくインサイダーのコネクションが跋扈していた。しかし、今では、ヘッジファンドの投資家が総出で、市場の中の不条理や非効率や、また、未来へのビジョンを欠き、事業の効率化と競争力強化に意欲も勇気もない無能CEOなどを鵜の目鷹の目で探しており、長期にわたって市場の非効率化を排除するなど、市場の収束と安定のために大いに貢献しており、市場のシステムが突如として深刻な打撃を受けることから救っているのだと言う。

   面白いのは、ヘッジファンドなどの金融機関を、強欲者・悪魔の化身と蔑んでいたドイツが、彼らの跋扈・活躍が、ドイツ企業と金融機関の再編と現代化を促して、ドイツの生産性を大いに高めて、他のヨーロッパ諸国よりもグローバル市場での競争力をつけたと言っていることである。
   先に、ドイツ取引所の元CEOであったW.G.ザイフェルトの「もの言う株主」の書評で、乗っ取りを策して暗躍した英国のTCIとの攻防について書いたが、ハゲタカファンドなどと外資を毛嫌いする日本と良く似たドイツの企業経営を、ハゲタカ側から見るとどうなるか、社会浄化だと言うのだが、改めて考えてみるのも面白いかも知れないと思っている。

   更に興味深いのは、ヨーロッパを筆頭に、ヘッジファンドに規制の拘束衣を着せようと言う規制強化案が勢いを増しているが、これには、大手ヘッジファンドは、競争相手となる新規企業への参入ハードルを高くして排除することになるので、大いに歓迎していると言う指摘である。
   政府などの規制について、強化か緩和かで議論が絶えないが、何か起こると規制強化の風潮が強くなり、それが既得利権者を優遇することになると言った例であろう。
   問題は、経済社会を改革し発展を策するイノベーターたる新規参入者を排除することで、アメリカでは、SOX法の制定によって起業が大きく減少したと言われており、起業家の活躍こそアメリカ経済のダイナミズムであり活力の源泉だと主張するスミックは、政府の規制強化には強力に反対している。

   アメリカ政府が、税率アップや規制強化でヘッジファンドなどに対しようとしているが、愚の骨頂で、世界中がヘッジファンドなどイノベーター争奪戦に鎬を削っており、資本が安全性を考慮して最高収益を求めて世界中を動き回るように、グローバル起業家もまた、規制・法制の状態や”対リスク収益率”を判断材料として基地を選ぶのだと警鐘を鳴らしている。

   イギリスで殆ど生まれているスポーツ競技のように、よりスポーツを高度化して楽しませてくれるフェアーなルールを、このグローバルな経済社会に構築できないものなのかどうか、アメリカではなく、イギリスの知恵が生かせないかと考えることがある。
   もののイノベーションについては、黒白がはっきり付き易いが、法制やルール、社会制度の規制や規範など社会のソフトについては、その判定が非常に難しい。
   例えば、知財の強化としての特許法などは必要だが、イノベーションを抑制するなど問題があるし、殆どのルールは、経済社会の固定化を招き、斬新なイノベーターが活躍するターボ資本主義の足を引っ張っている。

   話が横道にそれてしまったが、このスミックの本は、非常に起業家とその経済社会の牽引車としての役割使命等について熱っぽく語っていて、非常に示唆に富んでいる。この点については、項を改めて書いてみたいと思っている。
   
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環境・社会・人間における「安心・安全」を探る・・・四大学連合文化講演会

2009年10月10日 | 学問・文化・芸術
   東京医科歯科大、東京外大、東京工大、一橋大と言う在京トップ単科大学付置研究機関から講師が出て、専門的な見地から講演を行う興味深い講演会も、既に4回目で、今回は「安心・安全」をテーマに実施された。
   聴講者は、大体、OBと思しき人や学識経験者と言った感じの年配者が大半である。
   話の内容だが、夫々、思い思いに専門的な見地から自分の研究テーマを中心に語るのであるから、統一性がある訳でもなく、私のような文科系の人間には、医学や工学関係の話は、いくら易しく語られても、正直なところ、殆ど理解が難しい別世界の話である。

   この口絵写真は、玉村啓和教授の「ペプチドとくすり」の時のスライドの一枚である。
   艶かしいメスのネズミが描かれているが、抗利尿作用のあるバソプレッシンと言うペプチドは、浮気抑制剤としても利くと言う話で、メスと見れば何でもアタックする助兵衛の乱婚性のアメリカハタネズミに、これを注射するとメスを追っかけなくなるとかで、
   一夫一婦制のプレーリーハタネズミには、前脳腹側領域に多数のバソプレッシン受容体があると言うのが分かったと言う。
   このペプチドを、20組かの夫婦に服用してもらって実験したら、飲んだ夫婦は口げんかしなかったということらしいが、とにかく、アミノ酸とたんぱく質の間のペプチドは、そのままでも、あるいは製薬にしても役立つらしい。
   元素記号の羅列やHやCやOHなどが延々と繋がった難しい話などは異次元の世界で、私に分かるのは、この程度の話なのである。

   「ハードウェアに基づく安全と安心(圧縮性流体の計測制御)」をテーマに、香川利春教授は、新幹線700系の先端は何故長いのか、上海のリニアモーターカーとの比較から話を始めたが、列車の水洗便所などの仕組みや聴診器の成り立ちなどから易しく原理を紐解きながら、空気圧分野の発明発見、新製品の開発など面白い話が続いた。
   しかし、とにかく、私には、全く別世界のことだと言う感じで、学問研究と言うのは専門化すれば途轍もない世界に入り込み、専門が違うと殆ど理解できない世界に踏み込むのだなあと言うのが良く分かった思いである。

   一方、外大床呂郁哉准教授の「グローバルな不安の時代の『安心・安全」:伝統と生活文化からの視点」や、一橋大青木玲子教授の「安全・安心の経済学」は、私の専門でもあり、非常に興味深く聴講させて貰った。

   床呂准教授の話は、ボルネオやミンダナオなどでのフィールドワークを通じて蓄積したそこに住む人々の民族文化や生活が、如何に時代の潮流によって安全・安心が危機的な状態に陥っているか、そして、それに抗して自分たちの伝統文化や生活を如何にして守ろうとしているのかを示しながら、現在社会の抱えている深刻な問題を語った。

   アマゾンなど地球上に僅かに残っている熱帯雨林とそこに生息する生物の多様性で抜きん出ているボルネオだが、グローバル経済の発展に巻き込まれて、ジャングルは焼き払われてアブラヤシのプランテーションに変わり果て、商業的漁業の進展によって海洋資源が乱獲されるなど自然環境が大きく破壊されている。
   ボルネオでは、伝統的に、森林や河川・海などの資源を守るために「タガル制度」を実施して、タガルに指定された場所では、個人による勝手な生物の捕獲や採取が禁止されて、村全体で生物資源の維持管理がなされていると言うのだが、焼け石に水であろうか。

   フィリピンの南部・ミンダナオには、少数民族のイスラム教徒が住んでいるのだが、政府の弾圧と殺戮による圧政に苦しみ、100万人以上の難民が住んでいて、イラクよりもアフガニスタンよりもはるかに深刻だと言う。
   政府そのものが暴走して国家安全保証の逆説を実施するなど信じられないが、圧倒的な力を持つキリスト教を代表するフィリピン政府の民族浄化政策(?)の一端なのであろうか。
   フィリピンでのイスラム過激派の動きが、治安悪化の元凶として、日本では一方的に報じられる情報が多いような気がするが、考え方改めなければならない。
   床呂准教授は、自助のために活躍するイスラム系NGOの社会福祉・難民支援活動についても語っていた。

   青木教授は、電子レンジの安心品と心配品を例にして、「安全・安心の経済学」を語った。
   安全・安心社会を実現するためには、生産者、消費者が合理的に判断できる環境を作り上げて、結果として心配品が排除されることが大切で、その為には、信頼できる情報の提供が必須だと言う。
   罰を使って社会的に望ましい行動の動機付けをすることが重要だが、そのルールに有効なインセンティブ効果があることが重要だと説く。
   ビールに税金をかければ発泡酒が生まれ、発泡酒に税金をかければ第三のビールが生まれるなどと言うのは、意図しない結果を生むインセンティブなしの拙い政策なので、正しい効果的なインセンティブがあるかないかが、ポイントだと締めくくった。
     
   とにかく、3時間くらいの講演会だが、バリエーションに富んだ意図しないような新鮮な話題の飛び出す話ばかりで非常に有意義な時間を過ごさせて頂いたと思っている。
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トーマス・ウッズ著「メルトダウン 金融融解」

2009年10月09日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本「MELTDOWN」のサブタイトルは、「何故株式市場が崩壊し、経済がさ迷い、政府救済措置がことを益々悪化させるのか、自由市場からの考察」と言うことになろうか、
   今回のサブプライム住宅ローンに端を発した世界的不況について、オーストリア学派経済学の視点から分析し、その原因は、すべからく、連邦準備制度にあると結論づけている。
   自由市場経済が失敗したので、経済が大恐慌状態に陥ったのであるから、「より厳しい規制、より広範囲の政府介入、より大きな財政支出、大量の通貨発行、そして政府が大きな負債を抱え込むべきだ」と言う昨今の風潮に真っ向から反対し、「支出によって経済を回復すると言う迷信」を徹底的に糾弾する。

   私自身は、これまで、経済成長論や景気循環論を勉強していて、金融の果たす役割の重要性については分かるが、通貨量の調整や金利操作など金融政策によって経済が動くとするマネタリスト的な考え方にどうしても馴染めず、どちらかと言えば、その学派の自由市場経済的な視点の方に興味を感じていた。
   しかし、今回、このウッズの本を読んでいると、基本的には連邦準備制度の金融政策だけが世界的恐慌の原因だとは思えないが、世界中がケインズ経済学の復権に熱狂している今日、非常に、示唆に富んだ貴重な視点を提供してくれていて学ぶことが多かった。

   私が興味を持ったのは、銀行を特別視するのではなく、他の企業と同じように扱うべきで、駄目な銀行はどんどん潰せと言う考え方である。
   したがって、規制に対しても、本当の規制緩和と言うのは、独占的な特権の廃止、自由競争の確立、「大きすぎて潰せない」と言う前提をなくすこと、銀行に対して請求があれば預金を下ろさせるようにすること、当然、倒産できるようにすることである。銀行に対して高いリスクを取れるようにしながら、それでも政府が保証して助けるなどと言うのは、規制強化であろうと緩和であろうと、最悪の選択だと言うのである。
   規制強化でも規制緩和でもなく、問題は、負債、過度のレバレッジ、思慮に欠けた運用を促すなど、本来の自由市場とかけ離れてしまったシステム自体であって、危機に強いシステムを自由市場が作り出すことが出来るようにすることが大切だと説く。

   特殊な少数の人間が犯した過ちに対処するために、「より厳しい規制強化」を要求する風潮があるが、同じ攻撃手法ばかりに思案する対テロ戦略と同じで、その最たる悪法はSOX法で、遵守のための膨大なコストを考えなかった故に、既存の企業群に有利となり、才能溢れる人々の企業精神を萎えさせ新しいビジネス誕生の芽を潰している。
   大企業が官僚と結託して規制強化に加担するなど、イノベイティブな経済のダイナミズムを殺ぐことは非常に危険で、如何に規制強化が愚劣なものか、政府による規制・統制はするべきではないと言うのがウッズたちの信念である。

   日本でも、貸金業法改正、建築基準法改正、金融商品取引法の施行、食品業界の規制強化等々次々と打たれた政府の規制強化が経済状態を悪化させて、「官製不況」と揶揄されたことがあるが、
   余談ながら、個人情報の取り扱いやプライバシー保護のための個人情報保護法の成立によって、公序良俗に裏打ちされていた良き時代のコミュニケーションがぶち壊されてしまって、住み辛い世の中になってしまった。

   ところで、バブル景気の発生と崩壊の原因だが、オーストリア学派によると、人為的に低く設定された金利と政府の馬鹿げた介入である。
   低金利によってバブルが発生して、政府の介入によってバブルは崩壊する。
   あらゆるバブル景気に共通するのは、政府の干渉であり、自由市場が、バブル発生とその崩壊の原因ではない、と言うのである。
   この視点に立てば、日本のバブル崩壊後の「二十年不況」に対する日本政府と日銀の対応など愚の骨頂でありコテンパンである。

   バブルは、日銀が何もないところから通貨を作り出し銀行に供給し、この通貨供給量の増大に伴う金利の引き下げによって通貨が市場に溢れ、日本のバブルが発生した。
   バブル崩壊後は、政府と日銀は、流動化を防ぐために、物価を維持し、不良債権を処理するためのありとあらゆる方策を取り、金利をゼロに近づけたが、これが、バブル景気時代の間違った投資を正すための市場の動きを邪魔した。

   日本政府は、経済回復を齎すと伝統的に考えられている政府の介入策を次から次へと打ち出した。
   通貨供給量の増大、金利引下げ、公共事業への何兆円もの投資、政府支出の増大、企業への政府からの資金貸し出し、銀行の救済策等々。
   株価を吊り上げるために、政府自ら株式購入まで行い、景気刺激策を10回実行し、100兆円もの税金を投入したが、景気刺激策は有効に働かず、日本の財政状態を悪化させただけであった。

   問題は、清算されるべき倒産寸前のゾンビ企業を手厚く保護して、健全な企業に、無意味な資本や原材料獲得競争を強いるなど、政府の介入が、健全であるべき市場経済の働きを歪めて、バブル崩壊から経済が立ち直る過程での、資源の再配分を妨げたことである。
   日本政府が、介入によって市場を無茶苦茶に歪めず、資源を奪わなければ、民間部門はもっと健全な状態になり、経済回復が進んでいた筈で、日本の負債がGDP比130%と言う目も当てられないような状態になってしまった。
   日本政府は、オーストラリア学派が、不況と闘う際には絶対にやってはいけないと主張する施策の総てを行ってしまったので当然の帰結であると言うのである。

   クルーグマン的なケインズ政策には真っ向から反対していて、今回の大不況に対する回復策が、とりあえず何をおいても政府の積極的な介入とケインズ的支出の増大だと行った方向に傾斜していることへの強烈なアンチ・キャンペーンだが、私自身は、非常に時宜を得た傾聴すべき提言だと思っている。
   
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CEATEC JAPAN 2009・・・3D映像技術の競争激化

2009年10月08日 | 経営・ビジネス
   CEATEC JAPAN 2009が幕張メッセでオープンしたので、朝から出かけた。
   初日、午前中は大したことはなかったが、午後から急に込み始めて大変な賑わいで、ハイテク製造業への関心の深さが良く分かる。

   私は、例年通り、コンファレンスの聴講主体で、合間を縫って展示会場を見ると言う方針で出かけた。
   展示会場の方は、科学・技術的な知識を持ち合わせていないので、殆ど、ホーム&パーソナルゾーンのコンシューマー・エレクトロニクスの会場ばかりを回っているのだが、年毎に、テーマが変わっていて面白い。
   今年は、殆どの企業は、3D製品に大変な力を入れていた。

   最初にソニーの3Dデモンストレーション・ルームに入ったが、実際の撮影用カメラを設置して室内の生物を実写しながら、プロジェクター画面に投影して説明していたので非常に良く分かった。
   ハイフレームレート単眼レンズ3Dカメラと称する新型カメラで、一つのレンズを通った光から左右画像を同時に分離する光学系カメラと言うことだが、一つのカメラで3D画像の動画を撮影出来るのである。
   例の玩具のようなプラスチック製のメガネをかけて画面を見るのは同じだが、昔のように赤と青の光で分離するのではないので、それ程苦痛にならずに、飛び出す立体感のある動画を楽しむことが出来る。
   人の目に限りなく近い毎秒240フレームの3Dと言う触れ込みで、画像に流れや乱れがないので見易い感じである。

   その後、シャープのブースに入って同じようにFULL HD 3D TV画像を見たが、こちらの方は、デモンストレーションが上手くて、水しぶきなどが目に飛び込んで来る感じで臨場感たっぷりである。
   ビデオカメラで撮影しておれば、水しぶきや水中の泡などレンズに当たる映像は当然目の中に入ってくる感じで映るし、地球から弾き出されて飛び上がって眼前で大口を開いて襲ってくる恐竜などはCG画像であるからいくらでも眼前までの画像として操作できるのだが、立体画像であることを強調するだけのソニーと違って、飛び出すことに主眼を置いた素人受けするシャープのデモは効果抜群で、PR戦術の差が出ていて面白い。
   その他の会社は、特別な3D映写室はなく、テレビ画面の前にメガネが置いてあって簡便に3D動画を楽しめる形式である。

   映画館では、3D放映が始まっているが、2~3時間なら多少不自由でもメガネをかけて、立体映画を楽しめるのは娯楽の幅が広がって良いであろう。
   将来、、実際のTVでも3D番組が普通に放映されることになるようだが、やはり、その為の装置のついたTV受像機が必要で、例のメガネもかける必要があるのだと言う。ソニーやパナソニックでは、10年にその為の3DTVの投入を表明している。
   私など、無理に立体映像を見たいとは思わないが、この3Dシステムが、果たして、一般家庭でも普及するのであろうか。

   TVとしては、東芝の明日のTVとして発表したCELLレグザのデモンストレーションの巨大な映像の前に人が集まっている。
   よく分からないが、Cell Broadband Engineを搭載した「Cell プラットフォーム」を世界で始めて採用した液晶テレビ「Cellレグザ」で、圧倒的な処理能力持つプロセッサを核とした超高画質・超音質および録画能力、ネットワーク能力を有する最高のエンターテインメント・マシーンだと言う。

   この東芝の技術は、コモディティ化してしまっているTVを一挙に新コンセプトのTVに変える破壊的イノベーションだと言う意気込みだが、もしそうなら実に素晴らしい。
   とにかく、どこの会社の展示を見ても、TV受像機の進歩発展は目を見張るばかりだが、そんなに技術を深追いして画像や音質を高めても意味があるのであろうかと思う。
   展示場の係員に尋ねたら、とにかく、他社よりも素晴らしい製品を開発して、差別化して競争に勝たなければならないのだと言う。
   正に、クリステンセンの説く持続的イノベーションの典型的なケースで、技術が消費者の要求・実需より遥かに先を行ってしまって、その付加価値を必要としていないのでその技術・質の向上に対して対価を支払わないと言う深刻な段階に至っている。

   さて、この口絵写真は、パナソニックのデジカメLUMIXの前で、スペイン・メディアの魅力的な女性レポーターが、コンパクト・モデルを紹介しているところである。
   沢山の外国メディアがTVカメラを持ち込んで撮影していたが、YAMAHAのSekai Cameraのブースの前で、本物そっくりの女の子のロボットが、「津軽海峡冬景色」を歌っているのを放列を敷いて撮っていたのが印象的であった。
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危機管理:JRが信号故障でストップ、急ぎの時の決断?

2009年10月07日 | 経営・ビジネス
   昨日、CEATEC JAPANの会場を出て、海浜幕張駅からJR京葉線で東京に向かった。
   3時25分発の東京行き普通電車だが、余裕はないが、どうにか4時半開演の歌舞伎座の夜の部には間に合う時間である。
   ところが、新浦安を出た所で、新木場と葛西海浜公園間の線路上に異常が発生したのでストップすると言うアナウンスが入って動かなくなった。
   結局、信号機故障と言うことで、隣の舞浜で止まって、信号機の復旧まで停車すると言う。上下線ともストップで船橋に引き返すことも出来ない。

   さて、どうするか。
   私の専門である経営学の謂わば危機管理の問題で、最も早く目的地に着く為には、どのような手段を取れば良いのか、意思決定をしなければならない。
   大げさだが、車内に止まって復旧を待つか、他の交通手段を使って歌舞伎座に向かうか、ハムレットの心境である。

   10分ほど待ったが、動きそうにないので、私は、乗り換え乗車を選択して、東西線の浦安駅からメトロで東銀座に出ることを決めた。
   こんな場合には、いくら信号機が復旧しても、上下線ともストップしているので、スムーズな回復はあり得ず、遅延に遅延を重ねる筈なので、異常のない確実な交通手段を選ぶのが、最も確実な道だと思ったのである。

   ところが、南口改札に降りてみると、延々と改札口で乗客が数珠繋ぎで並んでいる。
   一人一人駅員に切符を見せて説明しながら振り替え乗車券を貰っており、駅員の居る改札は、出入り口一人ずつだから埒が開かない。
   家畜のように並ばされた乗客は、何にも文句を言わずに静かにそれに従っており、この日本人の無気力が日本のバブル後の長期不況の原因だと思って、暗澹としたが、頭に来たのは私だけのようである。

   全自動改札がオープンになっていたので、迷うことなく、そこから外に出たのだが、駅前の路線バスは長蛇の列で、何時乗れるか分からない。
   こんな時には、タクシーに限ると思ってタクシー乗り場を見れば、待ち客は5人足らずなので、これ幸いと並んだ。
   普通には、駅待ちタクシーは殆どないのであろうか、大分待ったが来たので乗ろうとして後ろを見たら、遅ればせながらタクシーを選択した主にサラリーマン風の乗客が30人ほど後ろに並んでいた。

   結局、すいすいと交通量の少ない道を走って、1890円なり。浦安に着いたのは、4時半少し前で、歌舞伎座に入ったのは、その30分後だったので、義経千本桜の「渡海屋」の前半は終わっており、義経の出立の場であった。

   ところで、タクシーの運転手の話だが、普段は、街の中で客待ちをしているのだが、仲間の電話連絡で舞浜駅に行ったのだと言う。
   途中、街の路上で、営業車を止めて新聞を読んでいる運転手がいたのを指差して、あんな状態だが、あの運転手は、まだ、JRの事故を知らないのだと言った。
   普段は、街の中での客待ちをしている方が商売になるらしいが、景気の様子を聞くと、昨年末から月収が5万円ほど落ちて困っているとぼやいていた。

   民主党に政権交代したが、泥棒を捕まえて縄ないどころか、縄を解こうとしているのだから、当分、景気が良くなる筈がなかろうと思うと言ったら、黙ってしまった。

   人身事故、信号機故障、線路上のトラブル等々、毎度のように列車がストップして乗客に迷惑をかけている筈なのに、今回の信号トラブルによる舞浜駅の対応を見ていて、如何にJRの危機管理がいい加減で杜撰かと言うことが良く分かった思いで、JR西日本の例もあり、良くなったと思っている民営化もまだまだなあと言う気がしている。
   病院の診察待ちと同じで、このICT時代にどうにかならないのであろうか。
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アルゼンチン・タンゴが無形世界文化遺産に

2009年10月06日 | 海外生活と旅
   タンゴに最初に興味を持ったのは、コンチネンタル・タンゴの方で、アルフレッド・ハウゼのブラウエン・ヒンメルだったが、ラ・クンパルシータやエル・チョクロに惹かれるのに時間はかからなかった。
   アルゼンチン・タンゴ楽団が来日すると、クラシック音楽と同様にコンサートに出かけて行ったのだが、それから大分経って、ブラジル赴任が決まって、そのアルゼンチン・タンゴの故郷ブエノスアイレスを訪れることになったのである。

   もう、30年以上も昔のことになるが、パラグアイでの仕事に関係したこともあって、都合、5~6回アルゼンチンを訪れたのだが、2夜だけ、ボカの近くで、本格的なタンゴを聴く機会があった。
   最初は、高級ナイトクラブの「ミケランジェロ」でのショー、二度目は、古い居酒屋風の「ビエホ・アルマセン」でのタンゴ・ショーで、この口絵写真は、その時に撮った一枚である。(手札版のプリントをデジカメで複写)

   薄暗い古びた船の船室のようなセッティングの店の中全体に、哀調を帯びた咽び泣くようなバンドネオンに誘われたタンゴのメロディーがビートを打ち、むせ返るような雰囲気に酔いながら、壁にぴったりと背中を貼り付けて、Nikon F2のシャッターを何度も切ったのを覚えている。
   感度の低いコダックなので、手ブレを気にしながら極限のスロー・シャッターを切ったのだが、日本に帰って増感現像して、どうにか写真になった。

   先日放映されたNHKの番組では、ショー・レストランであるタンゲリーアに混じって、カルロス・ガルデルを記念した本格的な舞台を持った「タコネンド ガルデル」がオープンしたようで、豪華な舞台を紹介していた。
   しかし、私は、あのニューオーリンズの掘っ立て小屋風のプリザベーション・ホールで聞いたジャズ演奏のように、貧しいイタリア移民たちが犇き合って大海原を渡って来た船のうらぶれた船底のような雰囲気のビエホ・アルマセンの舞台の方が親しみが持てて好きである。

   ところで、イタリアやスペインなどから沢山のヨーロッパ移民が大挙して上陸したのは、ブエノスアイレスの港ボカである。
   豪華船が岸壁に横付けされている立派な港ではなく、崩れかけたようなクレーンなどの立つ工場街に似た雰囲気で、移民労働者たちが、ヨーロッパへ送る家畜や小麦などの農産物を忙しく積み込んでいた、そんな雑踏のざわめきが聞こえてくるような雰囲気であった。

   その波止場の岸壁から、ほんの数百メートル入った所に、タンゴが生まれたと言うカミニート小径がある。
   戦艦の舳先のように飛び出た三角形の建物を先頭に、鮮やかな色とりどりの極彩色のペイントで、モザイク状に塗りたくられた壁面の建物が並んでいる小道で、映画のセットを見ているような感じで、そのエキゾチックな魅力に息を呑む。
   ところが、ほんの数十メートル奥に入った裏手には、安物のスレート型の建材で壁面を覆ったバラック様の貧しい民家が、今でも残っていて、ボカが、貧しい移民労働者たちの街であったことが分かる。
   大望を抱いて故郷を後にしながら、夢破れて日々の生活に明け暮れていた労働者たちが、酒と女に溺れて彷徨していた、そんなどん底の世界から、タンゴは産声をあげたのである。

   したがって、この魅惑的なタンゴだが、売春宿を舞台に生まれ出でた音楽であり踊りであった故に、長い間認知されない、所謂、禁断のダンスと音楽であった。
   私がアルゼンチンを訪れていた頃にも、素晴らしい名曲が目白押しで世界中の人々を魅了していたにも拘わらず、まだ、アルゼンチン一般、特に、上流階級の市民やエスタブリッシュメントには、十分に認められず市民権を得ていなかった。
   それより以前だが、バチカンがタンゴ禁止令を発動したので存続の危機に瀕したことがあり、実際に法王の前で踊ってタンゴの良さを見せて禁令を解いて貰ったことがあるほどであったのだから仕方がない。

   タンゴは、元々売春宿で、男と女がお互いに誘惑し合う、言うならば、淫らな愛の交歓のために生まれたので、実にエロチックで、男女の絡み合う激しい踊りを見ていると、特に足捌きの巧みさなど、息を呑むほど蠱惑的である。
   イタリア移民たちの音楽に、キューバの船員が持ち込んだと言うハバネラや奴隷移民の黒人たちのミロンガやカンドンベなどの音楽が混ざり合って今のタンゴが生まれたと言うことだが、あの男女がぴったりと体をくっつけて踊り続けるタンゴのユニークさは、他の社交ダンスとは違った魅力を醸し出している。

   ところで、国家経済が悪くなると、アルゼンチン経済を連想させるほど、アルゼンチンは、経済的に落ちる国のイメージだが、戦前は、世界に冠たる豊かな一等国で、ヨーロッパからの移民や出稼ぎが後を絶たないほどで、アメリカ同様に、理想的な新世界であった。
   あのオナシスも、このブエノスアイレスで、下働きをしながら財を成して大富豪になったのであり、トスカニーニも、テアトロ・コロン劇場で、クライバーの代役で指揮者としてデビューしたのである。
   とにかく、広大なパンパスの豊かさは想像を絶しており、小麦はたわわに実り、牛を放牧しっぱなしでも、どんどん子牛が生まれると言った調子で、農産物の恵みは桁違いであり、ブエノスアイレスを南米のパリにするほど、国力を誇っていたのである。
   尤も、私が行った時には、インフレが凄くて、印刷が間に合わなくて、まともに色がついていない紙幣が流通していて、市内の一寸した移動のタクシーに、100万ペソ払った記憶がある。

   テアトロ・コロン劇場で、リヒャルト・シュトラウスの「アラベラ」の感動的な舞台を見たが、この劇場は、時には、世界三大劇場の一つと言われるほど豪華で素晴らしい。
   やっと、このテアトロ・コロンの舞台芸術と、国民(と言っても、アルゼンチン人は、スペイン、イタリア、イギリスなどからの移民子孫のヨーロッパ系が97%)から生まれたタンゴが、肩を並べて同格になったのだから、喜ばしい限りである。
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亀井モラトリアムと民主党のJAL救済

2009年10月05日 | 政治・経済・社会
   2008年末、保険会社から自動車会社にいたるまで、ほぼ総ての企業が、国民からの略奪品、すなわち、救済策の適用を申請した。決算書では「損失」部分が強調されるようになった。より正確に言うならば、利益とは企業の取り分で、損失は納税者と勤労者がかぶるもの、と言うことを意味するようになった。

   これは、どこかの国の航空会社と良く似た話だが、アメリカのことで、トーマス・ウッズの「メルトダウン 金融溶解」の中の一節である。
   ビッグスリーの救済で、アメリカ政府は、
   「普通の企業の経営ミスならば損失という形で罰せられる。しかし、巨大企業の経営ミスは逆に褒章されるのだ。その褒章は、善意の第三者(納税者)から盗んだ金を、資金の貸し出しという形で与える。」とするメッセージを発してしまった。
   富を生み出している真面目な人々が、富を生み出すのに失敗した人を助けるように強制されるのだから、モラル・ハザードが発生するのは当然だと言うのである。

   モラル・ハザードを起こしているのは金融機関や大企業だけではない。アメリカの一般国民もまた、モラル・ハザードを起こしている。住宅ローンを抱えている人々が、住宅を差し押さえられる代わりに、連邦政府から救済されるのを見てしまったら、自分たちの借入計画や住宅ローンの返済について、注意深くかつ慎重になれる筈がない。と言うのであるから、ウッズは、
   亀井大臣の説いているモラトリアム、すなわち、真面目に働いている中小企業や住宅ローンで困っている人々の借金を少なくとも3年くらい延長して場合によっては利子も免除するなどと言った政策などは論外であると言うであろう。

   このウッズは、「人々の生活に、政府は出来るだけ干渉するな」と言う思想を持ったリバータリアンで、この本では、市場原理主義の権化とも言うべきミーゼス&ハイエックの学説を継承するオーストリア学派の景気循環論を展開し、今回の世界的な金融危機の真犯人は、連邦準備制度(FRB)そのものだと激しく糾弾しており、正否は別にして、非常に面白い。
   この理論は、中央銀行が人為的に金利を引き下げると、企業家は低金利に反応し、高度な生産活動への投資が増えるなど資源の間違った配分と資本構造に歪を生むなどバブルを発生させると言うことのようだが、
   それよりも、根底にあるのはフリー・マーケット至上主義であるから、政府の実施する経済対策など一切百害あって一利なしと考えており、ケインズ経済学の対極にあり、フランクリン・D・ルーズベルト大統領のニューディール政策など最悪であり、その政策ゆえに大恐慌が悪化したと説く。
 
   ルーズベルトの巨額の政府支出、公共授業、資本主義強化のための規制強化などは、国民を救うどころか、大恐慌の長さと深刻さを増しただけで、ルーズベルトの再来と礼賛されているオバマ大統領の新ニューディール政策の実施は、アメリカ経済を、益々窮地に追い込む。
   バブル崩壊後の日本は、オーストリア学派理論から行けば、やってはならないことばかりを実施して来たので、未だに経済的な苦境から抜け出せない。
   従って、大恐慌時代、もしくは、過去18年間の日本の運命を辿りたければ、ポール・クルーグマンの言うことを聞き、結果的に世界を大混乱に引きずり込んだのと同じ政策を実施すれば良いではないかと開き直っている。

   麻生前首相が、リチャード・クーのバランスシート不況説に洗脳されて、日本の失われた1×年の落ち込みがこの程度で収まったのは、巨大な公共支出をやったればこそと、オバマ大統領にケインズ政策による不況脱出策を説いたのを、ウッズは知ってか知らずか、冷笑気味に何度も日本の提案を引用して、その無意味さを説いている。 

   私は、どちらかと言えばケインジアンなので、これまで、マネタリスト的な見解には違和感を感じていたのだが、市場原理主義の行き過ぎが世界的大恐慌(?)を引き起こしたのだとして、資本主義の根幹であるフリー・マーケット原理まで否定して、
   ウォールストリートまで国有化して、チャベスにアメリカは超社会主義国家だと揶揄されるほど何でもありの膨大なケインズ的経済施策を連発する風潮には、眉を顰めざるを得ないと思っている。

   さて、本題の亀井モラトリアムだが、今回の金融危機が何故起こったかを考えれば、あまりにも酷い金融業界のモラル・ハザードを許すわけには行かないけれど、それとこれとは話は別で、再建再生中の銀行業に、無用な負担を強いて経済活動をスキューすべきではないと思う。
   それに、ウッズ説の如く、モラル・ハザードの促進も心配だが、私には、1000万人以上も居ると言う年収200万円以下の労働者がどうして生活しているのか、その方が深刻な問題だと思っており、根本的に、日本経済の抱える課題を洗い浚い分析してメスを加えて、総合的な施策を構築しない限り、ブレイクスルーはないと思う。

   JALの再建については、昔の国鉄と同じで、国策会社を良いことにして、政官財のトライアングルが無茶苦茶にしてしまっており、ただでさえ超不況産業である航空会社であり、実質的には、もう10年以上も前から潰れてしまっている。
   政治的に路線を敷かされたJALの定期便を廃止すれば、98の中には定期便が1便もなくなるという地方空港があるのなどは、悪のトライアングルの象徴である。

   一時、JALの少数株主であり株主総会に出て、経営数字の悪さと経営者の無能ぶりをつぶさに感じて暗澹とした思いをしており、実際にも、政府がカンフル注射を打ち続けない限り生きて行けず、資産査定をし直せば債務超過会社だと言うのだから、救いがたい。
   前原大臣(千両役者である)が、JALの社長に、例のビッグスリーのCEOたちが自家用ジェット機で国会に救済陳情に来て非難を浴びたのをもじって、公共交通機関で通勤ですかと聞いたら、回りが新型インフルを心配するので車でと応えていたのが、NHKで堂々と放映されていた。
   客が少ないので空気を乗せて飛ぶよりは、社員の福利厚生と言うことで、JAL社員家族全員を、去年はフランス今年はアメリカと、無料パスで飛ばし続けている能天気な会社であるから当然であろう。
   大前研一氏が、JALの組合を解体しない限り再生はないと言っていたが、上から下までのモラル・ハザード。
   ウッズに言わせば、潰れかかった会社を温存するのは社会のムダで、さっさと潰して、その資源を他の事業に振り向けた方が遥かに世の為人の為。
   今回民主党が指名したJAL再生お助けマンたちがどのようなお手並みを見せてくれるか、大いに期待している。

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オリンピック2016・・・リオ・デ・ジャネイロ

2009年10月03日 | 海外生活と旅
   2016年のオリンピックは、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催されることに決まった。
   ルーラ大統領が、世界10大経済大国の中で、オリンピックを開催したことのないのはブラジルだけだと訴えたエモーショナルなアピールが成功して、南米大陸で始めてのオリンピックが実現することになったと言う。
   
   私にとって、このオリンピック委員会の選択が、興味深いのは、BRIC’sの一角である世界屈指の成長新興国のブラジルだと言うことだけではなく、アメリカからの留学帰りの荷物を解く暇もなく赴任して、1974年から1978年までの丸4年間、実際にブラジルのサンパウロで生活したので、ブラジルでの思い出が、走馬灯のように駆け巡っているからである。
   真っ先に見たブラジルは、飛行機の窓から遠望した延々と広がるアマゾンの熱帯雨林と白く光るアマゾン川であったが、その後、着陸後に見たコルコバードの巨大なキリスト像とこんもりと帽子のように盛り上がった岩山ポン・デ・アスーカに象徴されるエキゾチックなリオ・デ・ジャネイロの印象が、今でも鮮明に残っている。

   赴任を終えてブラジルを離れる前に、コパカバーナの海岸に面したホテルで2~3日過ごして、リオの思い出を心の中に焼き付けたのだが、4年間に、サンパウロからは、飛行機だったり、高速道路だったり、とにかく、仕事や休暇で、リオには、頻繁に行き来していたので、リオの思い出も沢山あって涙が出るほど懐かしい。

   リオ・デ・ジャネイロ(ブラジル人は、Rをヒと発音するので、ヒオ)は、1月の川。
   ポルトガル人が、初めて1月にリオに到着した時に、湾を川と間違えて、この名前を付けたと言う。
   やはり、何を差し置いても直行するのは、ホテルのあるコパカバーナの海岸であろうか。その海岸を奥に回ると、一寸高級イメージで多少俗化を免れているイパネマ海岸があるののだが、
   この海岸線に沿って高級ホテルや高級アパートが林立していて、その豪華さと美しさは昔も壮観であった。
   
   ところが、今日のTVでも写されていたのだが、その背後の山の高台には、ファベイラと称される貧民屈が犇いていて、映画「黒いオルフェ」の頃からも、私の居た30年以上も前の風景とも、全く変わっていないのに驚かざるを得ない。
   開発の進んだ海岸線に総てのインフラが整っていて、リオの高級街は総て海岸に面した平地に広がっているのだが、貧しい人々は、インフラのない未開発の山の手に無法居住してスプロール化し、上へ上へとファベイラが広がって行く。
   今回問題になった治安もインフラも、この高級街とファベイラの隣接(?)同居に疑問符が打たれたのであろう。
   リオのカーニバルで有名だが、カソリックの謝肉祭のカルナバル(Carnaval)には、エスコーラ・デ・サンバ・グループの踊り子や楽団員たちが、この山の手のファベイラから、沢山の黒いオルフェの子孫たちがリオの街に繰り出して、何日も踊り明かすのである。
   今はどうか知らないが、私の居た頃には、カーニバル・ベイビィが沢山生まれると言う実に大らかな時代であった。

   ブラジルの永住ビザを持っていたので、更新の為、10年くらいの間は、ブラジルを往復していたが、この20年くらいは行っていないので、最近のブラジルの状況は分からないが、ブラジル・ブームの終焉と経済悪化の影響を受けて、日系企業や日本人が大挙してブラジルを離れたり、また、日系ブラジル人自体の経済力や影響力が落ちて、日本イメージが弱くなっていると聞いている。
   このブログでも書いたが、日本人も政財界も、BRIC’sの中で、近い所為か、中国やインド、それに、ロシアへの経済的政治的アプローチには非常に熱心であるにも拘わらず、ブラジルには極めて関心が薄くて冷淡だが、ブラジルには、100万人を越す優秀な同胞と言う貴重な財産があり、日本国にとって最も協力し甲斐があり、実りあるコラボレーションが出来る国だと信じているので、何時も残念に思っており、このチャンスに、意欲のある中小企業とビジネス・チャンスを開拓できたらと考えたりしている。

   ところで、ブラジルは、ポルトガル人の国だと思っている日本人が多いが、これは誤解で、南部のアルゼンチンに近い方には、ドイツやイタリアなど色々なヨーロッパの国からの子孫も多く、わが同胞などのアジア人も加えて、どこの国の言葉の通訳でも探せると言うくらい人種の坩堝で、それに、原住民のインディオや黒人たちとの混血が進んでいて、その国際性は、アメリカを遥かに凌駕しており、これだけ、異文化と異文明を糾合したバリエーションと可能性に富んだ国は皆無である。
   熱帯から温順な日本のような気候の地方まで、日本の23倍もある豊かな国だが、これまで、何度も未来の国、未来大国と言われて期待し続けられて来たのだが、今度こそ、世界が、オリンピック2016で、ブラジルに本当のチャンスを与えた。
   唯でさえ情熱的で激しいブラジル人が、意気に燃えて、今度こそと沸きかえっている。

   久しぶりのブラジルの快挙に触発されて、オリンピックと関係ない駄文を書いてしまった。
   ブラジルおめでとう。
   リオ・デ・ジャネイロ・オリンピック2016の成功を、心から祈りたい。

   ところで、一生懸命に頑張った東京の落選は、実に悲しいが、世界中に東京の素晴らしさ、未来イメージをアピールした功績は大きい。
   150億円を使ってと揶揄する世論が喧しいが、後ろを振り向くことはない。残念は残念、明日を目指して、次の手を打てば良い。
   オリンピックの夢を見ながら明日の東京を必死になって追求して来たのであるから、グリーン東京イメージを含めて、東京の目指すべき未来イメージが益々クリアになったのではないかと思うし、これこそ本当の財産であろう。

   
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東京都美術館・・・トリノ・エジプト展

2009年10月02日 | 展覧会・展示会
   この日曜日で終わってしまうので、「トリノ・エジプト展」を見るために、上野の東京都美術館に出かけた。
   いつものように大変な人出であった。閉館1時間くらい前に入館して、適当に全館を歩き回って品定めして、閉館間際の10分前に、一階に取って返して、気に入った展示物の前で、たった一人での鑑賞の瞬間を楽しむのが私の流儀である。
   それに、まず、殆どの人は、最初の展示物の前から、団子のように並んで鑑賞し始めるのでまともに見えない。どんどん先に行き、客の空いているところから見るのである。

   「門外不出のツタンカーメン、上野で公開中」「イタリアが愛した美の遺産」「世界屈指のコレクション、日本初上陸!」などとキャッチフレーズが踊っているが、口幅ったい言い方を許して貰えば、「大英博物館」「ルーブル博物館」「メトロポリタン博物館」等々で、これまで、何度となくエジプト美術を見続けてきているので、私の関心事は、このトリノ・エジプト展で、私自身の何か新しい発見が出来るかどうかという事である。
   私が最初に見たエジプト美術は、日本での展示を除けば、母校ペンシルバニア大学の博物館の巨大なスフインクス像(?)だったような記憶があるが、それから、ニューヨークのメトロポリタン博物館を皮切りにヨーロッパの博物館・美術館行脚が始まった。

   ロゼッタ・ストーンの前から巨大な彫像が見えるエジプト室やミイラや棺のコレクションが所狭しと並ぶなど膨大なエジプト美術を集めた大英博物館には何度も足を運んでいるが、私の一番印象に残っているのは、何と言っても、ベルリンのエジプト美術館にあるネフレティティの頭部で、ガラス製の小さなケースに安置されていた実に美しい像の周りを何度も回って写真を撮った。
   その後、メトロポリタン美術館の大理石のジャーの頭部の美しい貴婦人頭部に、ネフレティティのイメージを重ねるなど、永遠のエジプト美女ネフレティティの面影を追い続けている。

   今回のトリノ・エジプト展には、この口絵写真の「アメン神とツタンカーメン王の像」の前に、巨大な「オシリス神をかたどった王の巨像頭部」が展示されている。
   紀元前15~6世紀新王国時代のカルナック神殿にあった砂岩でかすかに彩色の残る巨大な像の頭部(1.5メートル)だが、今にも、語りかけてくるような、実に臨場感溢れる親しみの持てる面持ちが何とも言えない程魅力的である。
   どちらかと言うと優しい女性的な表情で、どこにでも居るエジプトの少女のような雰囲気で、褐色の顔色と黒い瞳が砂岩の地肌にうっすらと残る顔料に彩られて実に美しいのである。

   対面するアメン神と青年王ツタンカーメンの立像を彫った真っ白の大理石像は、謂わば、フローズン・ミュージックと言った雰囲気で、ツタンカーメン王の凛々しく整った顔の表情からすっくと立つ彫像の美しさは際立っている。
   アクエンアテン王の太陽神を唯一神とする宗教改革を覆して、アメン神信仰に返したツタンカーメン王のアメン神への傾倒ぶりが、自像を小さな彫像で象徴させているのだが、親しみを込めたのか、アメン神の肩に回した右手が背後に彫り込まれているのが実に人間的で面白い。

   子供の頃に、ハワード・カーターが、ツタンカーメン王の墓を発見して、黄金のマスクなど膨大な美術品などを発見したと言う話を読んで夢中になったことがあるが、その後、何処かは忘れてしまったが、実際に、その黄金のマスクを見た時には、その美しさにはびっくりしてしまった。

   最近では、人工衛星からエジプトの墳墓の所在地を探し出して遺跡を発見するなど、早稲田大学の吉村作治先生たちの発掘や新発見など新しい試みが話題となっているが、大分前に、キヤノンの写真展を見ながら、吉村先生の話を聞いたが、やはり、古代遺跡の発掘には、歴史のロマンが充満していて興味が尽きない。

   このトリノ・エジプト展だが、この彫像ギャラリーには、ライオン頭のセクメト女神像やプタハ神坐像、イビの石製人型棺の蓋など魅力的な作品があり、
   他にも、祈りの軌跡、死者への旅立ち、再生への扉などテーマ毎に、丁寧な説明をつけた数多くの作品が展示されていて、エジプトの人々が、どのような思いで神に祈り日々の生活をおくっていたのか、臨場感豊かに語りかけてくれていて、色々な思いに想像をめぐらしながら楽しませて貰った1時間であった。
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民主党の子供手当に思う

2009年10月01日 | 政治・経済・社会
   民主党の政策の目玉は、何と言っても生まれた時から中学校卒業まで月額2.6万円が支給される子供手当で、各界に色々な話題を提供している。
   竹中教授などは、3人子供が居れば、総額1400万円以上になり、故郷和歌山なら、家一軒政府から無償供与されるようなものだと由々しき発言をしている。
   これこそ、竹中教授が、サプライサイド経済学者の所以であるのだが、厚生経済学的な一種の所得移転だとしても、あまり巨額な子供手当ては、フェアな競争重視の健全な経済をスキューさせると言うことであろうか。

   日本の先進国病の最たる問題は、少子高齢化であり、この課題解決への民主党のキー政策であるが、経済効果ばかりが強調されて、その支出が内需拡大に貢献するのかどうかが問われている。
   義務教育が無料であることは、憲法で保障されているので、この子供手当ては、それ以外の教育関係費用に対する家計への教育補助金と言う名目だが、どのような経路を経て支出されるのか、非常に予測が難しい。
   日本が、実際に年収200万円以下の労働者が1000万人を超えるような先進国中最悪の貧困国家になってしまった以上、生活補助金として使われる可能性が高いであろうし、また、不足していた教育費の工面のために勤めに出ていた主婦が職を離れるので婦人労働人口が減る可能性があるであろうし、あるいは、豊かな家計は、子供により高度な教育チャンスを与えようとするので益々教育格差が拡大する懸念があるなど、考えれば切がない。

   しかし、この子供手当は、子供は、日本人総てに取って、極めて貴重な共有財産であると言う基本認識の上に成り立っている。
   その子供の健全な育成のために、政府が、資金を振り向けて積極的に経済的に子育て支援をしようと言うことなのであるから、元より、子供の居る家庭への補助金支給だと言ったような短絡的な考え方を絶対にしてはならない。
   子供を立派に育てると言うことが、どれほど、大切で大変なことであるかは、親になってみれば良く分かるが、日本人全体が、一緒になって、良き次代を担うグッドシティズンを育てると言う意気込みが大切なのである。

   私たちが子供の頃には、少なくとも、私が育った宝塚の田舎のことだが、大人たちは、どこの子供であろうと、自分の子供と同じように、分け隔てなく可愛がってくれたし、悪いことをすれば、血相を変えてでも叱ってくれたし、私たち子供も自分たちの親と全く同じような気持ちで接していた。
   貧しかったが、幸せな時代であった。
   私は、この民主党の子供手当ては、このような公序良俗が息づいていた良き日本を再現するためにも大切に受け止めるべきだと思っている。

   ところで、もう20年近く前になるが、ロンドンに居た頃、私の次女が、イギリス政府から児童手当(CHILD BENEFIT)を貰っていた。
   知らなかったので、申請したのはずっと後になってからで、金額は良く覚えていないが、4~5千円くらいだったと思うが、毎月、指定口座に振り込まれていた。
   この程度の金額だと効果があるのかないのか分からないが、福祉国家的な政策が進んでいるヨーロッパの国々では、児童手当などの制度は普通に実施されているのではないかと思う。

   この口絵写真は、鎌倉の御成小学校の孫の運動会で撮ったもので、この可愛い子供たちの姿を見れば、子供たちが、日本人総ての大切な財産であり、大切に育まなければならないことが、痛いほど分かると思っている。
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