熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

諏訪・木曽路・八ヶ岳高原の旅(3)・・・妻籠宿&馬籠宿

2009年11月12日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   奈良井宿から妻籠宿へは、国道19号線を南西に向かって、中仙道沿いに、相当走らないと着かない。
   幸いと言うべきか、秋たけなわの観光シーズンだと言うのに、車の数が少なく、かなり早く妻籠に着いて、駐車場探しの心配もなかった。
   この宿は、国道と平行してその上に街道が通っていて、少し急坂を上ると賑やかな宿場町通りに出る。

   朝食は十分取ったが、奈良井宿で、コーヒーとケーキ、それに、五平餅を食べただけだったので、真っ先に、唯一の手打ち蕎麦処だと言うえのき坂と言う食堂に向かった。
   創業以来、石臼で蕎麦を製粉して、秘伝のたれを使って、深みのある本物の蕎麦を提供し続けていると言う触れ込みなので、昔の味を楽しめると思って行ったのである。
   しかし、そのことは忘れてしまって、好みのてんぷら蕎麦を食べたのだが、孫だけ、ざるそばで本物の味を賞味していた。
   いずれにしろ、本物は良いとしても、元々関西人で蕎麦の良さの分からない私には、少し腰の弱い信州蕎麦は苦手でもあった。

   少し街道を南下すると、左手に本陣、右手に脇本陣の建物があり、古風な佇まいに触れると、宿場町の中心の風情が多少分かるような気がした。
   この本陣は、島崎藤村の母方の里で、兄の子孫が明治まで、本陣・庄屋を勤めていたと言う。
   脇本陣は、重文建築のようで、入って見たかったが、もう、3時を大分回っており、馬籠宿の方も4時には殆どの店が閉まると言うので、先を急ぐことにした。

   街道の中央あたりに、枡形の跡があり、丁度坂道に差し掛かるところで道が急に90度に曲がっており、更に、反対側に90度曲がって道が続いている。
   坂道には綺麗に敷石が敷かれていて中々風情があって良い。
   この宿場の建物も、奈良井宿と良く似ているが、かなり、大きな家も多い感じで、馬屋まで残っている民家があり面白い。
   同じような代わり映えのしないみやげ物が並んでいるが、やはり、木曾山中なので民芸品としての木製品に眼を引くものがある。

   古風な民家が続く街道の端まで歩いたが、この口絵写真は、道の片側しか建物のないその外れで、山の手の林の木々が紅葉していて美しい。
   丁度、陽が傾いて下の方は陰っているのだが、それだけに山の傾斜地の紅葉は夕日を浴びて輝きを増す。
   一軒の民家の庭に、大きなまゆみの木が植わっていて、びっしりとピンクの実をつけていて、夕日の光り輝く紅葉したもみじをバックにして、実に美しかった。
   私の関心事である玄関先の鉢植えや、軒下の飾りなどだが、一軒の民家には、鮮やかに光り輝く柿の実がびっしりぶら下がっていて、その下に置かれた菊の鉢植えとの対照が心地良かった。
   この建物は閉まっていて、「くりぜんざい」と言うブルーの幡が風に揺れていた。一寸遅かったのである。

   妻籠からは、昔の中仙道であろうか、山道を歩けば、次の宿である馬籠宿まで行けるようである。
   私たちは側道に入って、先を急いだ。
   4時を少し回っていたが、近づくにつれて、急に前方が明るくなって夕日が光り始めた。
   少し、道が下っているようで、山の端に沈みかけていた太陽が、浮かび上がって来たのである。
   
   殆ど車の居なくなった道路沿いに駐車して、街道入り口の展望所に立つと、中津川方向であろうか、沈みかけた太陽があたり一面を真っ赤に染めている。
   高札場から街道に入ったが、下りで、綺麗に敷き詰められた石畳の道が薄日に真っ白に光っている。
   丁度、尾根部分に街道が続いているのであろうか、左右の谷に僅かに残った夕日が映えて赤く光っている。
   窓越しに対岸の夕日を浴びた木々が赤く染まっていて美しく、谷に向かって伸びた喫茶室で憩えば楽しいのだが、時間がない。
   雰囲気だけでも味わえれば良しとして馬籠まで急いだのだが、どうせ来た以上は、端まで歩きたい。

   丁度、くだりに入って、再び夕日が現れたので、カメラを構えようとしたら、大黒屋と言うみやげ物店の庭先で遊んでいた子供に血相を変えて店から出てきた店主と思しき初老の男性が、怒り出したのに出くわした。
   何のことはない小学生の男の子が、庭先の通路脇に敷き詰められた軽石の白砂利を一つ二つ拾いながら遊んでいたのである。
   確かに、綺麗に敷き詰められた白砂利だが、たかが庭先の砂利と戯れている子供に注意するほど、大切な庭砂利なら、金庫にでも敷き詰めて置けば良い。

   直接、本人に当たるとトラブルを起こすと思ったので、前にある観光案内所に行って抗議をしてやろうと思って出かけたが、若い女性の係員だけしか居なかったので止めた。
   ところで、ついでに立ち寄った近くの公衆便所だが、窓を開けているのに悪臭が酷く、かなり衛生に悪い。それに、混雑する筈なのに、小便器が二つ(?)しかない。
   私は、見かけは美しいが、お粗末と言うか、薄ら寒い貧弱な観光地の醜い一面に触れたようで、気が滅入ってしまった。
   旅人に一夜の憩いを与えることに、無上の喜びを感じてサービスこれ努めていた宿場街であった筈なのに。

   島崎藤村どころではなくなってしまったが、しかし、これで諦めては栓無いので、夕刻の静寂に包まれた街道筋の雰囲気を味わう為に、街道を南に向かって下っていった。
   4時を回っていたがかなりの店は開いていたが、軒先の街灯や店の電灯が灯り始めて、やわらかい光が、旅情を誘うと言った雰囲気で、中々風情があって面白い。
   店が静かになると、民宿や旅館が何となく目立ち始めて、門口の街灯や建物の雰囲気が懐かしさを増し、宿場街であったことを思い出させてくれる。
   結局、この日は、水車がある枡形まで行って引き返した。治安のためのこの枡形は、伊賀上野の街中で鉤十字路を見たのが最初だが、この木曽路のどの宿場街にもあったのを知って、全く向こうが見通せない辻を作らせた防衛および治安維持施策を面白いと思った。

   とにかく、奈良井宿、妻籠宿、馬籠宿と、夫々、三所三様の印象深い木曽路旅を終えて、真っ暗になった国道を山梨に向かって走った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京―成田SKYGATEシティ・フォーラム2009

2009年11月11日 | 政治・経済・社会
   北総の千葉ニュータウンが、その将来を見越して「成田―東京SKYGATEシティ」と名を改めて、広域都市開発を目指した新段階に入った。
   成田空港の2500メートル滑走路オープンと、2010年の成田新高速鉄道の開通を契機に、一気にブレイクスルーすると言う意気込みで、開発に力を入れている千葉県とUR都市機構の共済で、千葉ニュータウン中央にある東京電機大学の福田ホールで、フォーラムが開かれたので聴講した。

   丁度、前原大臣が、羽田空港ハブ論をぶち上げて、成田の斜陽化が懸念されている時期でもあり、旗色の悪い千葉勢が、印西出身の一橋山内弘隆教授に成田礼賛論をぶたせて、森中小三郎成田国際空港社長と花田力京成電鉄社長をパネリストに迎えての成田・千葉エールに満ち満ちた会合で、成田―東京SKYGATE構想をコインした司会進行の西川りゅうじん氏の興奮気味の「よいしょムード」が突出した元気印のフォーラムであった。

   これまで千葉は、市川船橋千葉に繋がる沿岸ルートが都市化のメインで、それにやや遅れて船橋から八千代佐倉成田と言う内陸ラインが開発を見た程度だったが、京成の高砂から北総鉄道が敷かれて千葉ニュータウンに向かって開発が進んでから、この北総地帯が急速に脚光を浴びて来ている。
   元々、何もなかった田園地帯に青写真を描いての開発なので、医科や工科などの大学が移り、車社会を見越した巨大なジョイフル本田などの数々の大型専門店やスポーツ・エンターテインメント施設などが進出して軒を並べ、大型の住宅開発がこれに呼応し、企業が事務所を移し始めたので、短期間に、かなりの規模のニュータウンが出来上がってきた。

   ところで、このフォーラムだが、この千葉ニュータウンは沿線と言うだけでSKYGATEシティ構想と、京成経営の成田新高速鉄道や成田空港の将来発展像とは直接関係ないので、フォーラムのタイトルとは別に、むしろ、今回のフォーラムは、千葉ニュータウンよりは、成田空港の将来像に比重が移った千葉開発論がメインになった感じであった。

   今回の羽田・成田両空港一体論だが、ハブ空港と言うのは、自転車のスポークの中心のようなもので、外国からも国内のどの空港からも、乗り入れた乗客が、飛行機に乗り換えてその空港経由で、別の目的地に飛び立てると言うのが原則で、地方から羽田に着いた乗客が、成田から海外に出発すると言ったケースは、本来、論外である。
   韓国のインチョン空港がハブになっているのは、地方の空港からインチョンに飛んで、そこで外国便に乗り換えて海外へ飛ぶ方が、羽田成田経由より、遥かに便利だからである。

   どのように両空港間で、航空便の配分を行うのかは不明だが、主に、羽田が国内便、成田が国際便と言う現在の状況を大きく変換できるとは思えないので、一体化への根本的な問題は、羽田成田間のアクセスの利便性がすべてであると言っても過言ではないと思う。
   すなわち、現在の最大のネガティブ要因でありボトルネックは、羽田で降りた乗客が成田へ、或いは、その逆であっても、この煩わしさと不便極まりない現状が耐え難いことで、乗り継ぎに対して、この困難を克服して最大の利便性を確保すること以外に道はない。

   私は、現在、京成沿線に住んでおり、羽田成田間を、京急・都営線・京成線乗り入れの直通空港快速が走っているので、どちらの空港に行くのも便利だが、如何せん、空港間では2時間もかかる。
   今度の成田新高速鉄道は、いくら36分だと言っても、日暮里から成田までで、空港地下駅から連結しているこの電車路線が、最も便利であることは明白なので、抜本的に再開発を行って整備するのが最善の道である。
   今、押上泉岳寺間11キロに東京駅北側経由で新地下鉄線を引く短絡線構想があるようだが、これに、青砥から成田新高速鉄道に乗り入れれば、1時間も夢ではなかろうと思う。
 
   私の考えでは、この鉄道便を、航空便と連結させることで、例えば、新潟からニューヨークに飛ぶ客には、ANAなりJALのチケットに、国内便、鉄道、外国便と連続したチケットを発行して、乗り継ぎ一切を固定化することである。
   以前に、ルフトハンザが、デュセルドルフからフランクフルト間の鉄道線を持っていて、LH○○○○便と銘打って、チケットを発行していて、期せずしてライン観光が出来たことを記したが、あの応用である。

   西川りゅうじん氏が、ロンドンやニューヨークには、複数の空港があり、羽田と成田の並存は不思議でも何でもないと言っていたが、これは、前述したように、成田羽田乗換えと言った馬鹿げた隘路などは全くなく、目的地や使用目的などによって使い分けることによって並存が成立しているからである。
   私は、ロンドンに5年間住んでいたので、ヨーロッパ各地などに飛ぶ時には、ヒースローとガトウィックを使い分けていたが、空港間を渡るような乗継など、欧米では考えられない。

   私は、このフラット化したグローバル時代に、今のように羽田も成田も、その空港の中で、自由に乗り継げないようなシステムをいくら後生大事に維持して、成田羽田一体経営だと言ってみても、全く時代錯誤であり、ナンセンスだと思っている。
   前原大臣も、既に、実質的に破産倒産した筈のJALを、資本主義の原則まで踏みにじって、国民の税金を湯水のように使って救済して死守することよりも、国の根本的な交通体制について、もう少し、頭を使って賢く立ち回ったほうが良いのにと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諏訪・木曽路・八ヶ岳高原の旅(2)・・・奈良井宿

2009年11月10日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   中仙道を京に上る為には、今でも熊が出没すると言う難所鳥居峠を越さなければならないが、その入り口にあるのが奈良井宿で、「奈良井千軒」と言われたほど中山道で最も賑わった宿場だったと言う。

   私が最初に読んだ本格的な文学作品が、島崎藤村の「夜明け前」で、冒頭の「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。」と言う名調子の木曽路を描写した名文が、今でも脳裏に焼き付いていて、是非、訪れたいと思っていたのだが機会がなかった。
   今回は、幸いにも(と言うのは、歳の所為で遠出のドライブは駄目だと止められているので)、娘夫妻の車に便乗して思い立った旅で、最初の宿場が、この奈良井宿だったのである。

   私の故郷を通っていた西国街道は、かなり道幅が狭くなっていたのだが、この奈良井宿は、中央近くにあるかぎ状の「鍵の手」辺りはやや狭いが、江戸方面に向かっては大分広くなっており、これは、妻籠宿や馬籠宿と比べてもそうで、立派な宿場であったことが分かる。
   今は鉄板葺きだが、昔は石置き屋根とかで、非常に薄い傾斜の緩い屋根で、中二階建てのために、二階のタッパが低くて少し前に飛び出しており、格子がびっしり入った黒っぽい精悍な風情の建物が、遠くの方まで連なっている風景は、中々の壮観である。
   春に福島で見た大内宿の萱葺きのふっくらとした日本的な宿場宿とは、全く対照的で、地方文化の差が反映されていて非常に面白いと思った。

   家族たちは、そのような古風な建物のみやげ物店などを回りながらウインドー・ショッピングを楽しんでいたが、私は、街道を歩きながら、昔の宿場の面影を探しながら散策を続けて、気が向いたら、季節の花々などを植えた門口の飾り付けや、格子連子に釣らされた秋の恵みを上手くあしらって作った色彩豊かな飾りものなどを追っかけながら写真を撮っていた。
   ほうずきや柿の実、唐辛子などの鮮やかな美しさは格別で、それに、ツタや葉っぱ、枯れ枝などを上手くアレンジした飾り付けなどは、華道の美意識の発露かも知れない。

   奈良や京都の古い町並みや民家などの古建築、文化遺産的な建物などを、昔、かなり回ってきたつもりで、故事来歴や建築様式などに興味を持って、事前勉強をして歩いていたのだが、この頃は、ぶっつけ本番で、見た時の感性と雰囲気だけを楽しむことにしている。
   古いとか、故事来歴があるとか、由緒正しい×××だとか言われても、興味を引かなければ通りすごす。
   
   娘がガイドブックを見て、良い喫茶店があって、美味しいコーヒーを頂けると言うので、二つ返事で、ついていった。
   その喫茶店が、この口絵写真の「松尾茶房」である。
   200年以上も前の建物だと言うしっかりとした黒光りのする小さな民家だが、入り口を入ると、5人くらい座れるカウンターがあって、その奥で、白髪でヤギひげを蓄えた初老のマスターと奥さんと思しき女性が、昔懐かしいビーカーを立てた4台のコーヒーメイカーを前にして迎えてくれた。
   奥にある唯一の5人掛けのテーブルに陣取って、小休止することにした。
   二階は畳部屋の喫茶室となっているようで、途中に熟年カップルが降りてきたくらいで、その時の客は、我々5人だけであった。
   店内のインテリアは、木箱型のボックスラジオや露出計以前のミノルタカメラ、陶磁製人形と言った骨董品や、小さな食器棚には古い食器類などが置かれていて昔懐かしい空気を醸し出していて、ランプシェイドから漏れる淡い光が連子窓からの光と交差して、和風だが、それなりに雰囲気があって良い。

   マスターがおもむろに、コーヒーメイカーに火を入れて、コーヒーと水をビーカーに入れて、コーヒーを点て始めた。
   私など熟年には珍しいことではないが、娘たちには始めてみる光景で、カウンター席に移って、熱心にマスターの手つきを手品を見るように見ていた。
   最高の豆を厳選して買って来て、マスター自身で焙煎して作り出して抽出する自慢のコーヒーとかで、まず、ストレートで飲み始めたが、流石に美味い。
   コーヒーカップは、夫々客毎に違った陶器で、あくまで和風喫茶に拘る。
   何の豆だったか忘れてしまったが、私の場合には、馬鹿の一つ覚えのようにブルーマウンテンに固守し続けているのだが、最近、世界には、飲み方によっては、色々な素晴らしいコーヒー豆があることに気づき始めて、少しずつ冒険を始めている。

   9歳の孫は、今の所、コーヒーが飲めないのでジュースで辛抱していたが、私の注文したぜんざいを食べてしまった。
   ぜんざいは、あまり酒やワインを飲まなかった学生時代の頃の好物で、京都だったので、結構美味しいぜんざいがあっちこっちで食べられたのである。
   この日は、定番どおりと言うか、ケーキでコーヒーを楽しんだ格好だが、何故、コーヒー店にぜんざいなのか、良く分からない。

   その後、少し、街道を北に上ってから途中で引き返して、駅前の駐車場に帰って、次の妻籠宿に急ぐことにした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諏訪・木曽路・八ヶ岳高原の旅(1)・・・諏訪での結婚式

2009年11月09日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   久しぶりに長野方面に、家族旅をした。
   諏訪での知人のお嬢さんの結婚式への参列を利用して、二泊三日で、木曽路と八ヶ岳高原へ足を伸ばしたのである。
   7日だけ、架線架け替えのために、船橋からの松本方面行きの特急が出ず、始発が中野からのイレギュラーだったので、東葉勝田台からメトロの東西線で中野に出て諏訪に向かったのだが、それはそれとしても、新幹線ではない地方への列車の便は遅くて昔と少しも変わっていないと言うか、インフラ整備の遅れには、時代を超越した矛盾を感じて、不思議な気がしている。

   上諏訪駅から程近い諏訪湖畔に面した紅やホテルでの結婚式だったのだが、披露宴が大詰めに差し掛かった頃、ひな壇の背後のカーテンが取り払われて、一気にシネマスコープのようにバックが真っ白に輝いたかと思ったら、一面のガラス窓であるために、シースルーとなり借景の諏訪湖が、輝いていて眼に飛び込んで来たのである。

   兵庫県の浄土寺の阿弥陀堂の背後の板戸などを取り払うと、阿弥陀三尊像が、陽の光を浴びて、金色の光をバックにして光り輝くと言うあの光景を思い出した。
   蜷川幸雄の舞台も同じ仕掛けでもあり、夢と現実が交差して中々素晴らしい。昔々、ベニサンピットでの「真夏の夜の夢」の舞台で、舞台背後のドアが取り払われると、裏の通りの車や人通りがそのままバックシーンとなり、役者も道路から飛び込んで来てびっくりしたのが最初である。
   今回、仲代達矢が、能登演劇堂で演じると言う「マクベス」の舞台も、背後の広い空間が、完全に舞台に取り込まれて一体となると言う。
   京都には、背後の自然の風景を借景とする造園技術が駆使されている名園があるが、日本の美意識の真髄でもあろう。人生もそうだが、枠に嵌った舞台だけでの芝居は、味も素っ気もなく終わってしまうのである。

   この結婚式で、もう一つ印象的だったのは、諏訪明神の影響であろうが、木遣り保存会の長老が、諏訪大社の纏を掲げた従者を従えて、素晴らしい声で朗誦しながら、新郎新婦を会場に先導して入場してきた演出で、最初からお祭り気分満開で、中々古風で良かった。
   この結婚式のアトラクションには、普通、良くやられている同級生や同僚たちの合唱や演出などは殆どなく、伝統的な太鼓の合奏連打や、この口絵写真のような木遣りの実演など、地方独特の伝統の香りのする演出が主体で、私など、よそ者の客には、マンネリの結婚披露宴より有り難かった。

   これまでに、色々な結婚式や披露宴に出ているが、やはり、変わった方が面白いし、新鮮味があってよいのだが、今回、最後に、万歳三唱があったが、これは始めてで、一寸異質な感じがしたので戸惑いながら唱和した。

   ところで、諏訪湖畔の秋色だが、タクシー運転手さんの話だと、少し、今年は暖かいので、完全に紅葉せずに、葉が枯れて落ち始めて、綺麗な紅葉にはならなかったと言っていた。
   私が歩いた湖畔には、サクラ並木が続いていたが、サクラの葉は、厚手で硬いので、紅葉した葉がしっかり残っていたが、私の記憶にある奈良や京都の赤色の勝った色付きではなく、黄色がかった褐色で、少し魅力に欠けていた。
   山の手など背後の紅葉も、やはり、鮮やかな赤い色は殆どなく、黄色から赤みが勝った褐色基調の紅葉であったが、これは、やはり、木曽路でも八ヶ岳高原の風景でもそうで、紅葉やツタ、漆など葉が真っ赤に染まる木々が少ない所為かも知れない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小松の構造改革・・・小松製作所坂根正弘会長

2009年11月07日 | 経営・ビジネス
   NECのフォーラムで、坂根会長が、社長在任中に実施した経営構造改革について、「強みを磨き、弱みを改革」戦略で推進し、ダントツの商品を目指してイノベーションを追求しながら、コーポレート・ブランドを構築して行くと言った経営哲学を語った。
   小松の革新的なグローバル経営については、夙にポピュラーなので、ここでは触れず、坂根社長の話の中で、私の印象に残った発言について、少しコメントしてみたい。

   まず最初に、「建設・鉱山機械の地域別の需要構成比」のグラフを示して、20世紀は、日米欧の経済比重が拡大する一方だったが、21世紀に入ってからは、急にその比重が下がり、その他の比重が拡大して、2009年度には60%に達するとしてBRIC’s等の躍進振りを披露した。
   面白いのは、アメリカの住宅・金融の超バブルなど、その片鱗もこのグラフには現れておらず、先進国の大型設備投資は好況感全くなく釣瓶落としの下降曲線を辿って居たことが分かり非常に興味深い。

   次に、小松の製品戦略を語った中で、ハイブリッド油圧ショベルなどのハイブリッド・システム機械が、中国で爆発的に売れており、中国など新興国へは、ローエンド製品で攻め込めと言う戦術は間違いであると言うコメントである。
   中国は、油の値段が比較的に高価であり、公害の深刻さは待ったなしなので、省エネ、エコを重視した製品需要は極めて旺盛であり、むしろ、最先端の技術を駆使した製品の方が売れるのだと言う。

   この指摘は、非常に重要である。私自身、このブログで、中国・インドなどの新興国や開発途上国の新富裕層のボリュームゾーンをターゲットとする製品戦略は、何をおいてもローコストのローエンド・イノベーションの追求に徹すべきだと書いたので、多少、ディフェンドしなければならないが、これは、個人消費を目的とした製品の場合を言っているのである。
   しかし、現実には、イノベーションによって、省エネ、エコ志向製品がローコストに直結する可能性が高いので、時代の推移によって、ローエンド戦略も変わってくるのも当然であろう。

   製品開発については、小松は、ダントツの最先端を行く機械の開発を志向しており、南米では、小松が開発した世界随一の、人間の背丈の2倍以上もあるタイヤを付けた巨大な無人鉱山機械が活躍している。
   面白いには、5億円の機械を売っても、このタイヤは、年毎に交換が必要な消耗品で、5000万円もするタイヤの受注がタイヤ・メーカーに自動的に転がり込むのは何とも解せないと言う指摘で、これは、キヤノンのプリンターと消耗品のワンセット販売戦略と同じで、昔からある、基幹製品メーカーとその消耗品メーカーとの利害相反であり仕方がなかろう。キヤノンも、昔は、素晴らしいカメラを開発し続けながらも、フィルム需要で、漁夫の利は富士やコダックに持って行かれていたのである。

   小松のコーポレートブランド構築について、顧客との関係について7区分していて、最高の7では、「コマツは自社にはなくてはならない。コマツなしでは事業が成り立たない。一緒に成長して行きたい。」と規定しており、これを目指して日々邁進していると言う。
   とにかく、コマツのダンプや建機など製品にはマイコンが埋め込まれていて、その動作や動向がコマツ本社ですべて把握できるのだと、WBSで報道されていたが、製品データの解析によって、企業戦略戦術を構築するなど、正に、ICT革命の寵児である。

   また、世界全体が急速に都市化を進めているのだが、日本は、都市化率が極めて低率の60%で、全く効率の悪い国土開発行政をやっている。
   都市化の推進こそが、最も効率の良い経済社会発展政策でありながらも、東京一極集中で、地方都市の開発強化を犠牲にして、総てを台無しにしており、これに人口減が加わっているのだから、日本の将来は暗澹たるものであると慨嘆する。
   政府に、各都道府県に、1000億円ずつ全く紐を付けない交付金を配布して、地方開発を推進すべしと提言し続けているのだと言う。
   小松は石川県オリジンだが、これからはアジアの時代なので、石川港近くに工場を作ってプサン港をハブに、建機・鉱山機械など製品をどんどん輸出するのだと言う。
   このブログでも、寺島実郎氏の講演を引いて裏日本の時代の回帰について論じたが、アメリカを意図した表日本ではなく、中国朝鮮を相手にした経済関係の強化が進めば、当然、日本海は、内海同然となり、裏が表となって日本の経済地図が入れ替わることとなろう。

   もう一つの坂根会長の論点は、何をおいても人材開発だが、小松が古くから海外留学生制度を実施しているとして説明に入ったのは良いのだが、自分自身が、第一回目の候補に受験して見事に不合格となったとして、リーダーシップ論からMBA批判に話が展開して行った。
   30歳の時で、部下なしの平社員だったようだが、リーダーシップに欠けるとして落とされたらしい。
   部下も使った経験のない人間にリーダーシップの能力など分かる筈がない。リーダーとしての経験もない人間がビジネススクールでリーダーシップを勉強しても分かる筈がなく、MBAなど信用できないと言うのである。

   私も米国製のMBAなので名誉のためにも言っておくが、日本の留学生は比較的若年でビジネススクールに留学しているが、アメリカ人の大半は、実務経験者で、それも、経済や経営、商学などの専攻者は少なくて、私など、NASAのエンジニアや大病院のお医者さん、イタリア文学専攻の女の先生など異分野の人々と机を並べて勉強しており、リーダーシップはともかくも、日本のように単細胞専攻ではなく、ダブルメージャーの経験者が実に多い。
   このように実情を知らずにMBA批判をする日本の経営者が多いが、MBAは自動車運転免許書と同じようなものだと考えるべきで、免許を取得して運転すれば良いのである。
   むしろ、日本の経営者が、免許書(例えば、バランスシートを読む能力)なしで、経営学のイロハも弁えずに、勘と経験だけで経営を担っている現実の方が由々しき問題だと思うのだが間違っているであろうか。

   勿論、ビジネススクールにしろ、MBAにしろ、問題山積みで、批判の矢面に立っていることは事実である。
   これについては、偉大な経営学者H.ミンツバーグが、「MBAが会社を滅ぼす MANAGERS NOT MBA's」で、坂根会長のリーダーシップ論などに対する疑問に答えているので、読んでもらう以外にない。

   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新書雑感~ベストセラーから垣間見る世相

2009年11月05日 | 生活随想・趣味
   日比谷の三省堂で、新書のコーナーを見ていると面白いタイトルの本を見つけた。
   「文系・大卒・30歳以上は首になる」「テレビは見てはいけない」と言う一寸強烈な響きのする本だが、このタイトルに関しては、私なりに是非コメントしたいと思ったので、題を借りて雑感を記してみたい。
   全く、当該新書を一切読まずに、タイトルだけをテーマにして感想を書くので、あくまで私自身の雑感である。

   まず、文系・大卒サラリーマンの将来だが、私自身は、文系・理系に拘わらず、IT革命後の知識情報化産業社会においては、最先進国の日本の社会を前提とする限り、クリエイティブで知的芸術的価値など付加価値を創造出来ない人々は、遅かれ早かれ、グローバル競争に負けて脱落して行かざるを得ないと思っている。
   例えば、理系であっても、IT技術者においては、インド人や中国人など新興国のエンジニアが出来る仕事、ないし、それ以下の仕事をしている人は、アウトソーシングなどで仕事がなくなるか、賃金水準が新興国並みに下落せざるを得ないはずである。

   要素価格平準化と言う厳粛なる原理が働くのだが、今現在これが生じていないのは、系列や日本語や日本島社会の日本的なビジネスの特殊事情が働いて摩擦が残っているからで、早晩、機械やコンピューターに置き換えられたり、新興国・発展途上国などへアウトソーシング出来る仕事は、原則として日本から駆逐されて行く筈である。
   このことは、今、スーパーなどでは、セルフ・レジが急速に増えており、バーコードをなぞるだけのレジ係が減っているのを見れば分かる。
   

   ところで、文系・大卒の場合だが、これまでの階層社会的な要素や経験実務的なスキルの必要度が低下し続けており、ICT革命によって殆どと言っても良いほど、文系サラリーマンの仕事は、人的なコネクションが必要な部分を除いて、コンピューターやインターネットで代替される運命にあり、中抜きどころか、必要とされなくなって来たのみならず極端に業務分野が縮小されつつある。
   文系サラリーマンの企業に対する付加価値創造的な貢献が、これまで如何ほどあったのかを検証すれば分かることだが、その提供するサービスなり業務が、創造的でグローバル競争に勝ち抜く価値のあるものだったかどうかで運命が決まる。
   文系で高度な識見知識を必要とする弁護士や会計士の仕事でさえも、今日では、コンピューターソフトやインターネット情報を活用すればかなりの部分は代替可能であり、その他のプロフェッショナルの仕事でさえも用が足りる。
   ビジネス関連情報など必要な知識情報は、検索分析能力さえあれば、瞬時に世界中から最新最高のものが手に入る時代であるから、最適なIT活用による業務システムさえ構築できれば、文系サラリーマンの仕事の多くはカット出来る筈であり、企業が、激烈なグローバル競争に勝ち抜くためには、そうせざるを得ない筈なのである。

   このような文系・大卒・中堅中間管理職に対する暗い未来論には反論があろうが、今怒涛のように襲って来ているICT革命は、ものづくりなどの産業革命と言うよりは、これまで遅れに遅れていた事務合理化をドライブし、文系の仕事であった中途半端な判断業務や経験や感に根ざした業務を駆逐して、知的水準の高い付加価値を生むような創造的なサービスや仕事以外は生き残れないような社会に変えてしまったのである。
   
   
   さて、テレビを見るなと言う指摘だが、本のサブタイトル「脱・奴隷の生き方」や、帯の「あなたの脳は知らぬ間に毒されている」「だまされない生き方」と書かれているのから察すると、大宅壮一の指摘した「一億総白痴化」に似通った理論展開であろうか。
   テレビを見ることによって、マインドコントロールされてしまって、完全に骨抜きにされて自己を喪失してしまうと言う警告とも取れるが、テレビ局が示し合わせてそんな大それたことをする筈がない。
   とすると、テレビ局そのものが全く駄目で、日本国民全体を馬鹿にするような番組しか放映していないと言うことであろうか。

   私自身は、この考え方には一部賛成だが、テレビを見ることが私の生活の一部であり楽しんでいることも否定できない。
   見ているのは、主に、NHKとWOWWOWの映画だけだが、馬鹿番組ばかりだととは思わないので、それなりに自衛しながらテレビを見ている。

   まず、NHKの場合、ニュース以外は殆どBSばかりだが、ニュースにしても、セレクトされていて程度の低い報道が少ないBS1ニュースを見ることが多く、世界のテレビ放送を報道しているので、毎日、朝7時15分からのワールド・ニュースを録画して見ている。ニュース特別番組やドキュメントも時には見る。
   経済や政治、経営関係の番組については、民放を見ることも多い。
   後は、BS2やBShiの教養番組、すなわち、美術芸術文化番組、オペラ・クラシック・歌舞伎・文楽などのパーフォーマンス芸術、文化遺産や歴史、風景などの世界を舞台にした番組、映画・演劇等々と言ったところで、これは、私の趣味でもあるので、実際の旅や劇場や講演などがテレビ番組に変わっただけで、マインドコントロールされるような馬鹿番組だとは思っていない。
   
   この「脱・奴隷の生き方」については、テレビだけではなく、新聞や本などにも言えることで、自分が賢くなる以外に方法がない。
   今日、小松製作所の坂根正弘会長が講演で、MVPに輝いたヤンキースの松井秀喜が友人のようで、最近小松のことが新聞に良く出るようになったと言ったので、スポーツ新聞に小松など載らないと言ったら、アメリカでは教養がないと認められないので日経を読んでいますと応えたと言う話をしていた。
   昔、あるレポーターが、アラン・ドロンにインタビューした時、ギリシャ悲劇やバイロンを朗々と語ったので度肝を抜かれたと語っていたが、一芸に秀でると言うことは、人間の裾野も限りなく広いのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初秋の鎌倉を歩く~明月院から光明寺

2009年11月04日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   先日、久しぶりに鎌倉を歩いた。
   2週間前だったので、まだ、秋色の気配は殆どなく、山茶花やツワブキなどが目立つ程度で、紅葉などの色づきには早かった。
   しかし、この時期が散策には最も快適で、八幡宮や小町通りなどを避けて場所を選べば、気の遠くなるように静かな古都の雰囲気を味わえるので、京都を歩く時にも、意識してそうしていた。
   地球温暖化の影響か、学生時代よりも、京都や奈良の秋の訪れが、1ヵ月くらい早まっているような気がしている。

   この日も、相変わらず、源氏山越えで、北鎌倉に下りたのだが、今回は、秋の草花や木々の風情を味わいたくて、途中の寺々をスキップして、直接、明月院に向かった。
   本来は、極めてひっそりとした女性的な佇まいのお寺で、草庵と言った感じだが、前庭の殆どを占めていると思えるほどアジサイの木が多く、私など、花の寺として訪れている。
   質素な山門の右側の柱に、3段の竹製の花活けが付けられていて、何時も、その時々の季節の花や木の実などが生けられていて、非常に風雅で、楽しみにしている。
   この口絵写真もその一つだが、他に柿の実やカラスのマクワウリや唐辛子など、その色や形の取り合わせが面白い。
   京都の古寺を訪れると、廊下や部屋の片隅に、茶花が生けられていて、その質素だが優雅な雰囲気が好きで、非常に感激させられて写真に収めるのだが、自然を愛する日本人の美意識が一番現れているような気がする。

   もう一つ、明月院で楽しみなのは、前庭から、方丈の丸窓を通してみる見る後庭の風景である。
   雪洞様のランプシェイドがぶら下がった細長い部屋の左右に一直線に敷かれた赤いカーペットの間の向こうに丸く空けられた窓から、緑色の明るい庭が見えるのである。
   この部屋の縁側には、何時も箕が置いてあって、この中にも、何時も、季節の木の実などが入れてあって、この日は、柿、りんご、唐辛子、それに、蔓状の瓜のような実が置いてあった。
   障子戸の根元に、額や書き物が並べられているのが無粋なので、写真にはならなかった。

   花は、表門の左手の花壇に草花がイングリッシュ・ガーデン風に華やかに植えられていたが、私は、苔むした地面にリンドウなどの花が咲いていて、小さな昆虫が花から花へと渡っているのに興味を持って、それを追っかけていた。
   その後、もう一度戻って、真っ青にすっくと一直線に伸びきって静かな空間を作り出している竹林で小休止して、明月院を後にした。

   その日は、鎌倉駅を通り越して、妙本寺から九品寺に出て、光明寺から鎌倉海岸に出るつもりで歩くことにしていた。
   昔若い頃は、古社寺を訪ねる時には、事前に、その故事来歴や建築、仏像、庭園など勉強して出かけたが、この頃は、一応観光案内程度は読むが、直に忘れてしまうので、そんなことは無視して、ぶっつけ本番で、寺の雰囲気だけを楽しんでいる。

   妙本寺は、鬱蒼とした感じの参道(片側はコンクリート)の上の方にしっかりとした山門があり、その後方に本堂があるだけの寺だが、中々風格がある。
   京都に比べれば、それなりに大きくて対抗できる古社寺は、鎌倉では、建長寺と円覚寺、それに、八幡宮くらいで、寺らしい寺は少ないので、そんな印象を持った。
   気に入ったのは、山門の正面に掲げられている翼を持つ二頭の龍を彫り抜いた彫刻と、本堂正面の左右の柱の頂部に設えられた素晴らしい唐獅子の彫刻で、中々の迫力であった。

   海岸に近い町外れにある光明寺は、豪壮な山門が聳えており、その背後に、金ぴかで装飾過多と思えるほどだが、見方によってはインテリアが印象的で美しい本堂があり、境内もかなり広い堂々としたお寺である。
   本堂内陣との境目の正面の欄間には、福与かな天女が楽を奏しながら空を舞っている極彩色の浮き彫りが施されていて、柱や長押にも極彩色の絵が描かれ碁盤目状に仕切られた天井も装飾されているばかりではなく、ブルーの地に金糸で刺繍された幕が下がり幡が柱を装飾しているのだから、かなり派手な印象である。
   しかし、昨日、TBSで、唐招提寺の極彩色のCG復元画像を放映していたが、本来、お寺は、ヨーロッパの教会のように、天国のように美しいのが当たり前な筈なのである。

   ところが、この本堂の両翼に、非常に対照的な庭園があるのが面白い。
   左手は、大きな古代ハスの植わっている日本風の庭園で、右側には、白砂を敷き詰めた竜安寺のような枯山水の庭である。
   ハスは枯れてしまっていたが、花が咲く季節には、非常に美しいだろうと思った。
   ところで、このお寺の境内には、大きな石の地蔵さん・延命地蔵尊と、小さな神社・繁栄稲荷大明神と言うのがあって、何がなんだか私には良く分からなかった。
   神様仏様お稲荷様などと言う八百万の神を信仰する日本人だから、相矛盾はしないのであろうが、不思議である。

   道路下のトンネルを抜けて浜辺に出た。
   サーフィンを楽しむ若者たちがちらほら居たが、ヨットは2~3艇海上にあり、黒い砂浜が広がっているが、静かである。
   左手には逗子のホテル・アパート郡、右手には長谷寺あたりの小高い山、久しぶりに見た浜辺だが、私の小さい頃には、尼崎から西宮にかけて白浜が続いていて、良く潮干狩りや海水浴に出かけたことがある。
   懐かしい子供の頃を思い出しながら、しばらく浜風を楽しんでいた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プラハ国立歌劇場「アイーダ」・・・東京文化会館

2009年11月03日 | クラシック音楽・オペラ
   私にとっては久しぶりのオペラ鑑賞で、プラハ国立劇場は、6年前のヴェルディ・イヤーに、プラハに出かけて、本拠地で、イル・トロヴァトーレを見ており、素晴らしい劇団であることを知っているので、まして、ドラマチックソプラノでアイーダを歌わせたら絶品と言われるミシェル・クライダーを聞きたいののと、西本智実の指揮に接したくて、東京文化会館に出かけた。
   私が最初にプラハを訪れたのは、ベルリンの壁が崩壊する前で、戦後の動乱の生々しい傷跡が残っていて痛々しかったが、その時でも、私は世界一美しい街だと思ったし、復興なった後のプラハは輝くように素晴らしく変身していて、僅か4日の滞在だったが、日中は歴史遺産やミュージアムを彷徨い、夜は、オペラを梯子しながら古都の息吹を満喫した。

   あのモーツアルトがドン・ジョバンニを初演したのもこの地だし、映画「アマデウス」もウィーンでは面影が残っておらず、このプラハで撮ったと言う。
   オペラハウスは、かなり小さな感じではあったが、中々雰囲気のある劇場で、ロココ朝の内部の美しさは宝石のように輝いていて、王宮を臨むモルダウ河畔のドン・ジョバンニ初演の国立劇場など雰囲気の良いオペラ鑑賞には格好の劇場が他にもあり、オペラファンには、正に、住めば都であろう。

   アイーダを最初に見たのは、ロンドンでロイヤル・オペラの舞台で、凱旋行進の場には軍馬が登場するなど壮大な舞台であった。
   しかし、やはり、杮落としがこのアイーダだったと言うベローナのローマの野外劇場での「アイーダ」は圧巻で、巨大なアーチ状のグラウンドから聳え立つ擂り鉢状の客席を使っての壮大な舞台は、正に、エジプトの宮殿での、現実のドラマの再現と言った感じで、これに勝るものはないと言う威容である。
   この時見たのは、他に「トーランドット」だったが、このヴェローナのアリーナでの野外オペラは、オペラのスペクタクル性を見せてくれる絶好の場である。
   何度か「アイーダ」を見た気がしているが、記憶にあるのはこの二つだけである。

   ところで、この「アイーダ」だが、スエズ運河開通時にオープンしたカイロの国立劇場からの依頼でヴェルディが作曲したオペラだが、
   エジプトの将軍ラダメスが、王女アムネリスを袖にして、王女の侍女(奴隷のエチオピア王女)アイーダと相思相愛となり、国を裏切った罪で墓地に生き埋めにされ、アイーダがそれを追うと言う愛と死をテーマとしたもので、政治的な葛藤が主人公を死に追いやると言うヴェルディ好みの主題である。

   今回の舞台は、ヴェローナに匹敵すると言うマチェラータ音楽祭との共同制作と言うことで、この口絵写真(公式ホームページより借用)はやや大掛かりになっているが、小さな東京文化会館のジャパン・バージョンは、正面に、真ん中に入り口の開いた白いピラミッド型のセットと左右にオベリスク風の円柱があるくらいで、極めてシンプルであり、ピラミッドの頂上が明るくなるかどうかの差くらいで、最初から最後まで、これで押し通している。
   尤も、壮大な野外劇場では、舞台転換が無理なので、シェイクスピア劇でも良くあるように、同じ舞台セットで通す以外にないのであろう。

   群集は、神官たちも含めて、衣装は白一色で通し、随所で素晴らしい舞を見せてくれた裸のダンサーたちが、エチオピアの捕虜も掛け持っており、好対照である。
   趣向として面白かったのは、凱旋行進の場で、左右の舞台端に3人ずつのラッパが華麗な放列を敷いていたことである。
勿論、チェコのオーケストラであるから、非常に流麗で艶やかな深みのあるサウンドを聴かせてくれたのだが、先入観かもしれないが、欧米のオーケストラは、日本のと違って、木管金管とも管セクションの安定した美しさは、比べようもない。
   ブダペストでも感じたのだが、やはり、ハプスブルグ朝時代の名残か、ウィーン音楽の影響が濃厚で、帝国傘下の東欧のオーケストラは、非常に素晴らしい音楽を聴かせてくれると思っている。
   変な表現だが、クライダーの情感たっぷりのアリアに、付きつ離れつ西本がオーケストラを歌わせていたサウンドの美しさは、格別で、宝塚のトップスターと紛うばかりのダイナミックで切れの良いタクト・スタイルの何処からあのような、時には夢を見、時には恋の闇路に慟哭し、時には使命感に輝くと言った物語を紡ぎ出せるのか、感激して聴いていた。

   クライダーのアイーダは、あのパバロッティやドミンゴさえそうだが、やはり、出だしはやや不安定だったが、そこは、世界の名だたるオペラハウスで、トスカやアイーダを歌って観衆を熱狂させ続けている大歌手の貫禄で、実に情感たっぷりの歌を聞かせてくれた。
   アイオワ大卒のアメリカ人でありながら、チューリッヒで本格的な勉強をして、レオノーラで脚光を浴びて、ロイヤル・オペラなどヨーロッパからキャリアをスタートさせ、遅れてMETには、蝶々夫人でデビューしたと言う。この時のニューヨーク・タイムズのレビューが残っているが、やはり、悲劇のヒロインとしての悲しさの表現には眼を見張るものがあったと言う。美形でない分、声の魅力と表現力の豊かさが魅力のダイナミック・ソプラノである。

   ところで、このプラハ国立劇場のキャストだが、クライダー以外は、東欧ヨーロッパベースの歌手で、それ程欧米では知られていないが、実際に、ハンガリーやチェコのオペラハウスで聴いていて、随分、水準が高いと思っている。
   ラダメスを歌った堂々たる体躯のエフ・エスラリなど、パバロッティばりの素晴らしいサウンドで場内を圧倒する迫力であり、それが、剛直一本やりの武将と言うだけではなく、冒頭のアリア「浄きアイーダ」など実に叙情たっぷりで、メリハリの利いた凄いテノールの醍醐味を聴かせてくれた。
   オテロ、ドン・ホセ、デ・グリュー、カラフ、サムソン、ピンカートン、リカルド、とにかく、テノールのタイトルロール総なめの東欧きっての歌手だと言う。

   更に、感激したのはエチオピア王アモナスロのヤクプ・ケットウネルの素晴らしく張りのあるバリトンで、はるかに年長の娘アイーダのクライダーを食うくらいの荒削りだが迫力のあるサウンドと若々しい精悍な井出達が実に魅力的である。

   エジプトの王女アムネリスを歌ったスロバキアの名花ヨラナ・フォガショヴァーは、この二人よりはキャリアを積んでいる分、広くヨーロッパで活躍しているのだが、名だたるオーケストラとの共演でソロ歌手としての出番が多い。
   あの細面の美人で、ややクールな顔立ちであるから、権力を持った王女として立つアイーダの恋敵としての表現力十分で、今まで、これほどまでに、アイーダとの恋の鞘手をビビッドに表したこのような役者歌手をあまり見たことがなく実に上手い。

   他の歌手の素晴らしさも勿論だが、バレーの素晴らしさ、合唱、オーケストラの素晴らしさも呼応して生み出されたスケールの大きな「アイーダ」であった。
   西本智美の指揮を、今度はオーケストラで聴きたいと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ものづくり能力構築で差がつく時代に・・・東大藤本隆宏教授

2009年11月01日 | 経営・ビジネス
   あおもり産業立地フェアで、東大藤本隆宏教授が、「現場発 ものづくり戦略と言うタイトルで、不況下でも勝ち抜いて行ける企業のあり方から、地方の産業立地まで、ものづくり戦略を語った。
   現下の大不況下で、ものづくり企業は、受注半減と言った大恐慌状態に落ちって居るが、その間に、右往左往している企業と、能力構築に努めている企業と、如何に格差が拡大しているかから話を始めた。
   基本には、藤本教授の理論の根底にある「良い設計・良い流れ」を如何に確保すべきか、その戦略如何によって企業の帰趨が決するのであるが、まず、水島の三菱自動車のケースで、事業再拡張時に、以前の技術者たちの60~70%が出戻って来た例をあげて、現場力と技術の維持継承が、企業の健全性にとって非常に大切であることを強調した。

   右往左往した企業で、十分に準備をせずに、コストが安いという事で中国に進出し、日本には何も残さずに、生産も設計も、虎の子のコア技術の総てを持ち出して、失敗して帰ってきた時には、日本国内には何も残っていなかったと言う例を紹介し、日本国内に何を残して何を外国に持って行くのか、正しい戦略を打つべしと言う。
   多国籍企業の立地戦略で、二つの過ちを犯すことがある。一つは、日本に残ることの出来ない現場を残す過ちで、もう一つは、日本に本来残ることが出来たであろう現場を海外に移してしまう過ちだと言うのである。
   特に、後者の例で、企業の命とも言うべき大切なものづくり技術の国内での維持継承努力を怠って、自らの命運を傾けた企業が多いと指摘する。

   藤本教授たちが発表している「中国への国際展開の再考―東北地域の事例を通じて―」の中で、
   従来、「開発は日本、生産は中国」と言った機械的な立地選択が一般的だが、例えば、大連などのように、日本語も得意で、賃金が相対的に安くてロイヤリティが高くて同一企業でスキルを磨いてくれるような有能な人材が多く居る地域では、組み込みソフトによって製品の機能や性能の多くを作り込んでいく場合には、組み込みソフトのみならず、ハードの開発も一緒にやるのが有効であり、時には危険でも、「設計は中国、生産は日本」と言う逆転現象だって考えられると言っている。

   話さなかったが、配布されたレジメには、「日本に残るべき工場」は、高品質を大前提として、
   1.比較優位を持ち世界で勝負できる高生産性工場
   2.国内需要に敏感・迅速に応える高感度工場
   3.国内の設計優位を支える開発工場   だと記している。
   日本に、良い現場を残せるかどうか、この大不況期の今こそ、正念場であり、「開かれたものづくり」への回帰を志向するとともに、現場を鍛え「設計立国」を目指すべきだと説く。
   この分野において国際競争力を維持・強化して行くためには、あらゆる努力を傾注して、最先端の技術を開発し知識を蓄積して行くことが必須であると言うことであろう。

   この講演は、青森県の企業誘致フェアでのものなので、藤本教授は、後半で、地域間競争の時代だとして、地方の産業立地戦略についても語った。
   米沢の例を引いて、産業クラスターをリードする尊敬されるキーパーソン、NECなど意欲的なコア企業、山形大学工学部の存在や産官学のフレンドリーな協調体制など、地域に「良い設計・良い流れ」への環境が存在していて、この「仲の良い地域」システムが、地域の産業立地と発展に貢献する条件だと説明していた。

   最後に、何よりも大切なのは人なので、藤本教授が育成に努力をしているシニアの「ものづくりインストラクター」の活用など、ものづくりの好循環をつくりだすなど、ものづくり・ひとづくり・イノベーションの連携による産官学連携を推進した地域の活性化が大切だと締め括った。

   アメリカの製造業の国際競争力は、ものづくりのアウトソーシング化の進展によって、コア技術が殆ど海外に流出し、ものづくり技術が空洞化してしまって、アメリカのものづくりの将来にとって由々しき問題だと言う指摘は、MITチームによる「グローバル企業の成功戦略」で、スザンヌ・バーガーが説くところで、日本にとって、正に他山の石だが、日本には、幸いかな、臆病なほど、ものづくりの本丸の大勢は日本に残っている。

   藤本教授は、日本のものづくりは、多能工の協働で「統合型ものづくり能力」と「摺り合せ型アーキテクチャ」の製品に強みがあると言う理論展開だが、摺り合せインテグラル製品の最たる自動車だが、エレクトロニクスと半導体の塊へ変質して行くにつれて、急速にモジュラー化が進展し、更に、ものづくりの世界が、急速にオープンソース・ビジネス化しているなど、日本のものづくりを取り巻く環境が急速に変化を遂げてきている。
    ある意味では、曲がり角に差し掛かっている日本のものづくりにも、パラダイム・シフトの波が押し寄せてきているのではないかと言う気がしている。

   もう一つの懸念は、藤本教授のものづくり論は、日本と外国と言う線が引かれた国境のある理論で、グローバルベースに視点を移すとどうなるのか、多少、気になっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする