奈良井宿から妻籠宿へは、国道19号線を南西に向かって、中仙道沿いに、相当走らないと着かない。
幸いと言うべきか、秋たけなわの観光シーズンだと言うのに、車の数が少なく、かなり早く妻籠に着いて、駐車場探しの心配もなかった。
この宿は、国道と平行してその上に街道が通っていて、少し急坂を上ると賑やかな宿場町通りに出る。
朝食は十分取ったが、奈良井宿で、コーヒーとケーキ、それに、五平餅を食べただけだったので、真っ先に、唯一の手打ち蕎麦処だと言うえのき坂と言う食堂に向かった。
創業以来、石臼で蕎麦を製粉して、秘伝のたれを使って、深みのある本物の蕎麦を提供し続けていると言う触れ込みなので、昔の味を楽しめると思って行ったのである。
しかし、そのことは忘れてしまって、好みのてんぷら蕎麦を食べたのだが、孫だけ、ざるそばで本物の味を賞味していた。
いずれにしろ、本物は良いとしても、元々関西人で蕎麦の良さの分からない私には、少し腰の弱い信州蕎麦は苦手でもあった。
少し街道を南下すると、左手に本陣、右手に脇本陣の建物があり、古風な佇まいに触れると、宿場町の中心の風情が多少分かるような気がした。
この本陣は、島崎藤村の母方の里で、兄の子孫が明治まで、本陣・庄屋を勤めていたと言う。
脇本陣は、重文建築のようで、入って見たかったが、もう、3時を大分回っており、馬籠宿の方も4時には殆どの店が閉まると言うので、先を急ぐことにした。
街道の中央あたりに、枡形の跡があり、丁度坂道に差し掛かるところで道が急に90度に曲がっており、更に、反対側に90度曲がって道が続いている。
坂道には綺麗に敷石が敷かれていて中々風情があって良い。
この宿場の建物も、奈良井宿と良く似ているが、かなり、大きな家も多い感じで、馬屋まで残っている民家があり面白い。
同じような代わり映えのしないみやげ物が並んでいるが、やはり、木曾山中なので民芸品としての木製品に眼を引くものがある。
古風な民家が続く街道の端まで歩いたが、この口絵写真は、道の片側しか建物のないその外れで、山の手の林の木々が紅葉していて美しい。
丁度、陽が傾いて下の方は陰っているのだが、それだけに山の傾斜地の紅葉は夕日を浴びて輝きを増す。
一軒の民家の庭に、大きなまゆみの木が植わっていて、びっしりとピンクの実をつけていて、夕日の光り輝く紅葉したもみじをバックにして、実に美しかった。
私の関心事である玄関先の鉢植えや、軒下の飾りなどだが、一軒の民家には、鮮やかに光り輝く柿の実がびっしりぶら下がっていて、その下に置かれた菊の鉢植えとの対照が心地良かった。
この建物は閉まっていて、「くりぜんざい」と言うブルーの幡が風に揺れていた。一寸遅かったのである。
妻籠からは、昔の中仙道であろうか、山道を歩けば、次の宿である馬籠宿まで行けるようである。
私たちは側道に入って、先を急いだ。
4時を少し回っていたが、近づくにつれて、急に前方が明るくなって夕日が光り始めた。
少し、道が下っているようで、山の端に沈みかけていた太陽が、浮かび上がって来たのである。
殆ど車の居なくなった道路沿いに駐車して、街道入り口の展望所に立つと、中津川方向であろうか、沈みかけた太陽があたり一面を真っ赤に染めている。
高札場から街道に入ったが、下りで、綺麗に敷き詰められた石畳の道が薄日に真っ白に光っている。
丁度、尾根部分に街道が続いているのであろうか、左右の谷に僅かに残った夕日が映えて赤く光っている。
窓越しに対岸の夕日を浴びた木々が赤く染まっていて美しく、谷に向かって伸びた喫茶室で憩えば楽しいのだが、時間がない。
雰囲気だけでも味わえれば良しとして馬籠まで急いだのだが、どうせ来た以上は、端まで歩きたい。
丁度、くだりに入って、再び夕日が現れたので、カメラを構えようとしたら、大黒屋と言うみやげ物店の庭先で遊んでいた子供に血相を変えて店から出てきた店主と思しき初老の男性が、怒り出したのに出くわした。
何のことはない小学生の男の子が、庭先の通路脇に敷き詰められた軽石の白砂利を一つ二つ拾いながら遊んでいたのである。
確かに、綺麗に敷き詰められた白砂利だが、たかが庭先の砂利と戯れている子供に注意するほど、大切な庭砂利なら、金庫にでも敷き詰めて置けば良い。
直接、本人に当たるとトラブルを起こすと思ったので、前にある観光案内所に行って抗議をしてやろうと思って出かけたが、若い女性の係員だけしか居なかったので止めた。
ところで、ついでに立ち寄った近くの公衆便所だが、窓を開けているのに悪臭が酷く、かなり衛生に悪い。それに、混雑する筈なのに、小便器が二つ(?)しかない。
私は、見かけは美しいが、お粗末と言うか、薄ら寒い貧弱な観光地の醜い一面に触れたようで、気が滅入ってしまった。
旅人に一夜の憩いを与えることに、無上の喜びを感じてサービスこれ努めていた宿場街であった筈なのに。
島崎藤村どころではなくなってしまったが、しかし、これで諦めては栓無いので、夕刻の静寂に包まれた街道筋の雰囲気を味わう為に、街道を南に向かって下っていった。
4時を回っていたがかなりの店は開いていたが、軒先の街灯や店の電灯が灯り始めて、やわらかい光が、旅情を誘うと言った雰囲気で、中々風情があって面白い。
店が静かになると、民宿や旅館が何となく目立ち始めて、門口の街灯や建物の雰囲気が懐かしさを増し、宿場街であったことを思い出させてくれる。
結局、この日は、水車がある枡形まで行って引き返した。治安のためのこの枡形は、伊賀上野の街中で鉤十字路を見たのが最初だが、この木曽路のどの宿場街にもあったのを知って、全く向こうが見通せない辻を作らせた防衛および治安維持施策を面白いと思った。
とにかく、奈良井宿、妻籠宿、馬籠宿と、夫々、三所三様の印象深い木曽路旅を終えて、真っ暗になった国道を山梨に向かって走った。
幸いと言うべきか、秋たけなわの観光シーズンだと言うのに、車の数が少なく、かなり早く妻籠に着いて、駐車場探しの心配もなかった。
この宿は、国道と平行してその上に街道が通っていて、少し急坂を上ると賑やかな宿場町通りに出る。
朝食は十分取ったが、奈良井宿で、コーヒーとケーキ、それに、五平餅を食べただけだったので、真っ先に、唯一の手打ち蕎麦処だと言うえのき坂と言う食堂に向かった。
創業以来、石臼で蕎麦を製粉して、秘伝のたれを使って、深みのある本物の蕎麦を提供し続けていると言う触れ込みなので、昔の味を楽しめると思って行ったのである。
しかし、そのことは忘れてしまって、好みのてんぷら蕎麦を食べたのだが、孫だけ、ざるそばで本物の味を賞味していた。
いずれにしろ、本物は良いとしても、元々関西人で蕎麦の良さの分からない私には、少し腰の弱い信州蕎麦は苦手でもあった。
少し街道を南下すると、左手に本陣、右手に脇本陣の建物があり、古風な佇まいに触れると、宿場町の中心の風情が多少分かるような気がした。
この本陣は、島崎藤村の母方の里で、兄の子孫が明治まで、本陣・庄屋を勤めていたと言う。
脇本陣は、重文建築のようで、入って見たかったが、もう、3時を大分回っており、馬籠宿の方も4時には殆どの店が閉まると言うので、先を急ぐことにした。
街道の中央あたりに、枡形の跡があり、丁度坂道に差し掛かるところで道が急に90度に曲がっており、更に、反対側に90度曲がって道が続いている。
坂道には綺麗に敷石が敷かれていて中々風情があって良い。
この宿場の建物も、奈良井宿と良く似ているが、かなり、大きな家も多い感じで、馬屋まで残っている民家があり面白い。
同じような代わり映えのしないみやげ物が並んでいるが、やはり、木曾山中なので民芸品としての木製品に眼を引くものがある。
古風な民家が続く街道の端まで歩いたが、この口絵写真は、道の片側しか建物のないその外れで、山の手の林の木々が紅葉していて美しい。
丁度、陽が傾いて下の方は陰っているのだが、それだけに山の傾斜地の紅葉は夕日を浴びて輝きを増す。
一軒の民家の庭に、大きなまゆみの木が植わっていて、びっしりとピンクの実をつけていて、夕日の光り輝く紅葉したもみじをバックにして、実に美しかった。
私の関心事である玄関先の鉢植えや、軒下の飾りなどだが、一軒の民家には、鮮やかに光り輝く柿の実がびっしりぶら下がっていて、その下に置かれた菊の鉢植えとの対照が心地良かった。
この建物は閉まっていて、「くりぜんざい」と言うブルーの幡が風に揺れていた。一寸遅かったのである。
妻籠からは、昔の中仙道であろうか、山道を歩けば、次の宿である馬籠宿まで行けるようである。
私たちは側道に入って、先を急いだ。
4時を少し回っていたが、近づくにつれて、急に前方が明るくなって夕日が光り始めた。
少し、道が下っているようで、山の端に沈みかけていた太陽が、浮かび上がって来たのである。
殆ど車の居なくなった道路沿いに駐車して、街道入り口の展望所に立つと、中津川方向であろうか、沈みかけた太陽があたり一面を真っ赤に染めている。
高札場から街道に入ったが、下りで、綺麗に敷き詰められた石畳の道が薄日に真っ白に光っている。
丁度、尾根部分に街道が続いているのであろうか、左右の谷に僅かに残った夕日が映えて赤く光っている。
窓越しに対岸の夕日を浴びた木々が赤く染まっていて美しく、谷に向かって伸びた喫茶室で憩えば楽しいのだが、時間がない。
雰囲気だけでも味わえれば良しとして馬籠まで急いだのだが、どうせ来た以上は、端まで歩きたい。
丁度、くだりに入って、再び夕日が現れたので、カメラを構えようとしたら、大黒屋と言うみやげ物店の庭先で遊んでいた子供に血相を変えて店から出てきた店主と思しき初老の男性が、怒り出したのに出くわした。
何のことはない小学生の男の子が、庭先の通路脇に敷き詰められた軽石の白砂利を一つ二つ拾いながら遊んでいたのである。
確かに、綺麗に敷き詰められた白砂利だが、たかが庭先の砂利と戯れている子供に注意するほど、大切な庭砂利なら、金庫にでも敷き詰めて置けば良い。
直接、本人に当たるとトラブルを起こすと思ったので、前にある観光案内所に行って抗議をしてやろうと思って出かけたが、若い女性の係員だけしか居なかったので止めた。
ところで、ついでに立ち寄った近くの公衆便所だが、窓を開けているのに悪臭が酷く、かなり衛生に悪い。それに、混雑する筈なのに、小便器が二つ(?)しかない。
私は、見かけは美しいが、お粗末と言うか、薄ら寒い貧弱な観光地の醜い一面に触れたようで、気が滅入ってしまった。
旅人に一夜の憩いを与えることに、無上の喜びを感じてサービスこれ努めていた宿場街であった筈なのに。
島崎藤村どころではなくなってしまったが、しかし、これで諦めては栓無いので、夕刻の静寂に包まれた街道筋の雰囲気を味わう為に、街道を南に向かって下っていった。
4時を回っていたがかなりの店は開いていたが、軒先の街灯や店の電灯が灯り始めて、やわらかい光が、旅情を誘うと言った雰囲気で、中々風情があって面白い。
店が静かになると、民宿や旅館が何となく目立ち始めて、門口の街灯や建物の雰囲気が懐かしさを増し、宿場街であったことを思い出させてくれる。
結局、この日は、水車がある枡形まで行って引き返した。治安のためのこの枡形は、伊賀上野の街中で鉤十字路を見たのが最初だが、この木曽路のどの宿場街にもあったのを知って、全く向こうが見通せない辻を作らせた防衛および治安維持施策を面白いと思った。
とにかく、奈良井宿、妻籠宿、馬籠宿と、夫々、三所三様の印象深い木曽路旅を終えて、真っ暗になった国道を山梨に向かって走った。