熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

錦秋の宇治散策(1)・・・平等院

2009年11月27日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   秋の関西で一日休日が取れれば、どこへ行くか。
   唐招提寺が蘇ったと話題なので、奈良へ向かおうかとも思ったが、今回は、宇治に行き、時間があれば、醍醐や小野に抜けて、京都から伊丹空港に帰ろうと決めた。
   宇治は、京大の宇治分校の時に、1年間下宿した懐かしい青春時代のふるさとで、平等院の土手道や、宇治川の畔が、私の散歩道であったので、秋の宇治が、どれほど美しく輝くか知っていたからである。

   京阪北浜から中書島に出て、相変わらずの田舎電車宇治線に乗り換えて、宇治駅に向かうのだが、この京阪電車も、京都行きの特急電車は、季節柄、乗客で詰まっていているのとは対照的に、宇治線は空いていて、昔のお嬢さんたちのグループや熟年夫婦、カメラを抱えて勇ましい格好をした初老の男性、それに、学生くらいでのんびりしたものである。
   宇治は交通が不便な所為か、バスツアー客が多く、ホテルなどないので、すべて素通り客で、殆ど、平等院しか眼中にない。
   今は、紅葉の季節なので、宇治川の中洲・塔の島や橘島、対岸の還流橋あたりにも観光客が多い。

   私は、宇治橋に出て川面に突き出した欄干のところに行き、上流の天ヶ瀬方向を向いて宇治川の流れをながめるのが好きで、ここに立ってしばらく佇むことが多い。
   宇治川の先陣争いで良く知られているが、結構、宇治川の流れは速い。
   川の中央の浅瀬には、陽の光を受けて白く光った水面に、鵜と白鷺が憩っていてシルエットが面白い。
   上流のなだらかな山肌や岸辺は、赤や黄色に色づき秋化粧をした余所行きの風情で、朝もや模様の逆光を受けて錦のように美しい。

   宇治橋のたもと浮船橋に紫式部の像があり、表参道を抜けると平等院の正門に出るのだが、このあたりは綺麗になって、昔の田舎風の参道の面影など全くなくなってしまった。
   表門を入ると、すぐ、目の前の阿字池越しに鳳凰堂の優雅な姿が現れる。
   多くの観光客が真っ先にカメラを構えるのがこの池畔だが、薄緑色の水面に映る平等院の姿とのダブルイメージが結構さまになるので面白いが、大概、無粋な障害物にピントを合わせて大写しにしてハイチーズで済ましている。

   前回、ここを訪れた時には、修復なった阿弥陀如来坐像が、光背なしのままだったので遠慮したのだが、今回は内部に入って直接拝観することにした。
   20分置きのガイデッド・ツアー形式で、50人ずつグループで入ると言う形式だが、あのダ・ヴィンチの最後の晩餐も、余程のことがないと見られなくなってしまったが、世界的な趨勢と言うことであろう。
   私が宇治に住んでいた頃は、何時間も阿弥陀如来像に対面して会話を交わしていても、正面の廊下に座って池を眺めながら考え込んでいても、誰一人咎める人も居なかったが、あんな京都や奈良は、正に遠くに行ってしまったのである。

   この阿弥陀如来坐像だが、修復にあたって、顔に金粉を加えて美しくし、白亳を水晶に付け替えたと説明されていたが、この日は、晴天で堂内に光が回り込んでいたので、表情が良く見えて美しかった。
   壁面の黒ずんだ壁画も、何時もよりは良く見えたが、雲中供養菩薩像52体の内26体が、鳳翔館に展示されているので、白壁の空間が多くて少し寂しい感じがする。
   この阿弥陀如来坐像にそっくりの少し男ぶりに差のある弟分の国宝仏が、日野の法界寺にあるのだが、時間があれば訪れてみたいと思った。

   ところで、木造の雲中供養菩薩像だが、堂内に架かっていると只の飾りのように見えるが、近くでじっくり眺めると、実に立派な仏像彫刻で、私など、舞っている南20号の菩薩像の優雅な姿には感激しきりなのだが、像背後の彫刻なども手を抜かずに全く一体の仏像として立派に仕上げてあり、仏師の力量の確かさは格別である。
   キリスト教のエンジェルとは違った発想の、天を自由に飛翻し極楽を荘厳する菩薩の姿を理想化したと言うことでもあろうが、えもいわれぬ音楽が流れ素晴らしく美しい神々が舞い集うと言う発想は、人間本来の希いの本質であろうか。
   鳳翔館には、彩色された姿の美しい雲中供養菩薩像が参考として展示されていたが、ヨーロッパの教会で見る天使像などの浮き彫りと、どこか相通じる美しさである。

   鳳翔館には、国宝の梵鐘と鳳凰堂の屋根にあった一対の鳳凰像が展示されているが、両方とも、非常に美しい。
   梵鐘の形の美しさは格別だが、鳳凰像の素晴らしさも特筆すべきで、デザインの斬新さと造詣の妙は勿論として、金属片を器用に繋ぎ合わせて造形された細工師の力量は大変なもので、鋲が打ち込まれた槌音まで聞こえてくるような迫力である。
   この国宝館の良さは、眼前で手に取るように見られることである。

   阿弥陀来迎図など出来るだけ原画に近い形で現在的に描かれた壁画が展示さて居ていたが、これが、当時の壁画とすれば、一寸、彫刻などととは違って力量としては差がある感じがした。
   極楽浄土への往生を願っての平等院であり鳳凰堂なのであるから、阿弥陀仏の来迎をテーマにするのは当然だが、一つの壁画に、死の床にある老人に向かって、多くの菩薩たちを引き連れて天から舞い降りる阿弥陀像の行列が描かれていたが、末法の世とは言え、如何にも、現実的過ぎると思った。

   ところで、紅葉だが、鳳凰堂正面のもみじは、この口絵写真の程度で一寸赤みが少なくて、もう少しだが、鳳翔館と梵鐘近くのもみじは結構色づいている。
   しかし、落ち葉を掃き集めていた庭師に聞くと、今年は暖か過ぎて紅葉はもう一つだと言う。
   平等院の紅葉はまずまずだが、対岸の宇治神社の方の紅葉は、これらより大分美しい。
   宇治の紅葉もこの週末が最盛期かも知れない。
コメント
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