熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

寿 初春大歌舞伎~新橋演舞場:昼の部

2011年01月05日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   正月の歌舞伎は、初春の祝いを兼ねて、華やかな舞台が展開されるのだが、昼の部の最後は、いわば、恒例の曽我物の代表「寿曽我対面」で、正に、磨き抜かれた様式美の極致を魅せて素晴らしい。
   工藤祐経の吉右衛門は、悪と言うよりは重厚なる風格を備えた重臣と言った感じで座を引き締め、敵を討つ兄弟で柔和で大人しい和事の曽我十郎の梅玉と荒々しい荒事の曽我五郎の三津五郎の芸の対照、それに、コミカルで道化回しの小林朝比奈の歌昇や優雅で豪華な大磯の虎の芝雀などを筆頭に、芸達者な役者たちが、華麗な舞台を展開していて、錦絵の連続シーンを見ているような感じにさせてくれる。
   わびさびが、日本芸術の精神のように言われているが、実際の日本芸術の華は、歌舞伎に代表されるような絢爛豪華な極彩色の世界でもあると言うことであろうか。

   ところで、この舞台の話は、至って単純で、18年前に工藤が討った河津三郎の遺児である曽我兄弟の十郎五郎が、朝比奈の仲介で、祐経の巻狩の総奉行就任の祝宴を興じているところへ招き出でられ、仇を討とうとして逸る五郎を十郎に諭して朝比奈が押し止める。祐経は、兄弟に杯を与え、源氏の重宝友切丸の探索が先決であり、巻狩が終わるまで待てと、年玉がわりに狩場の通切手「通行手形」を渡して再会(すなわち、討たれること)を約する。
   これだけの話だが、とにかく、歌舞伎の様式美や約束事など歌舞伎のあらゆる芸のエッセンスを凝縮したようなシーンの連続で、西洋演劇に慣れた観客には、最初は、どこが良いのか分からない程、日本の舞台芸術の華を詰め込んだ舞台なのである。
   
   兄弟の父親の実名は、河津祐泰だが、母満江が、曽我祐信と再婚して、兄が曽我十郎として家督を継いだので曽我兄弟となっている。実際には、仇討後、討たれたり斬首されたりしており、二人の後見が北条時政であったこともあり、頼朝の宿所を襲って暗殺を謀ったと言う話なども残っているなど生々しい話があって、歌舞伎とは違った展開をしていて興味深い。仇討とは、悲惨で壮絶なものなのである。
   曽我兄弟については、高名な経済学者である市村真一教授から、ある合宿で、正調黒田節だと言って、「吉野山も嵐山も 花が咲かねば ただの山 曽我兄弟も大石も 仇討たねば ただの人」と教えて貰ったのが最初で、いやに鮮明に覚えている。
   
   今回の舞台で、面白かったのは、冒頭の「御摂勧進帳」で、あの安宅関での義経・弁慶一行と富樫左衛門との遭遇舞台の「勧進帳」と同じ題材を基にした芝居なのだが、そのバリエーションが面白い。
   シェイクスピア戯曲でも歌舞伎でも、台本があっても古い芝居と言う芝居は、上演される毎に脚色されたり改変されて、どんどん、改作や別バージョンが生まれているのだが、これもその類で、いつものスタンダード・ナンバーたる決定的なシーンを楽しもうと思って期待して見ていても、肩透かしを食うことがあり、ベター・バージョンを見ることは少ない。
   今回は、関所の詮議役が、富樫(歌六)だけではなく、猜疑心の強い斎藤次祐家(彌十郎)が登場しており、弁慶(橋之助)の偽勧進帳読み上げや義経(錦之助)打擲に心を打たれて通過を許す富樫に反発して、腹の虫が納まらない斎藤次が、弁慶に縄をかけて止め置く。弁慶は、義経一行が、安全なところまで落ち延びたのを見計らって縄を切り、番卒や家来の首を切って天水桶に投げ込み、二本の金剛杖でかき回すと言う豪快な荒事が加わるので、「芋洗い勧進帳」と呼ばれている。
   お馴染みの山伏の井出達と違って荒事に近い恰好で登場する橋之助の弁慶は、中々、豪快で大きな舞台を見せていて、これまでの弁慶役者とは違った新境地の弁慶像を作り出していて興味深い。
   颯爽とした品格のある歌六の富樫と、憎々しくて意地の悪いしかし能吏の彌十郎の灰汁の強い性格俳優ぶりとが好対照で面白く、それに、最後の芋洗いの弁慶と番卒たちとの立ち回りのサービス精神旺盛な馬鹿馬鹿らしさも、新春ならの趣向であろうか。

   「妹背山婦女庭訓」は、「三笠山御殿」の場で、冒頭は、鎌足の家来金輪五郎が漁師鱶七(團十郎)が登場して蘇我入鹿(左團次)との傍若無人の対面で、入鹿の妹橘姫(芝雀)の帰還と苧環の糸に引かれて辿り着いた鎌足の息子淡海(芝翫)との夫婦約束のシーン、最後は、恋しい求馬(淡海)を追いかけて来た杉酒屋の娘お三輪(福助)が官女たちに散々辱められ甚振られて嫉妬に狂い、金輪五郎に淡海の巧の為と殺されて行くシーンと続く。
   お三輪は、疑着の相が現れた女の血が、白い牝鹿の生血を母親が飲んで生まれた入鹿の魔力を打ち消すとして生贄にされて、淡海の北の方と鱶七に称されて死んで行くのだが、この舞台の主役は、この悲劇の田舎娘お三輪で、少し前に、簔助の素晴らしい舞台を見たのだが、福助も歌右衛門の薫陶を受けて伝統の芸を継承しており、実に上手い。
   淡海に一途に会いたいばかりに官女たちのあらぬ限りの嫌がらせに耐え忍ぶ初心な田舎娘から、男の不実に泣き男を取られた悔しさと、散々に苛め抜かれた屈辱に蛇となって狂い死にせんばかりの形相で突き進み、鱶七に脇腹を抉られる断末魔の姿、そして、高貴の北の方として死んで行く喜びと、淡海ではなくただの求馬を愛して一目会いたいと希いながら果てようとする揺れ動く心の綾を、福助は実に感動的に表現していた。

   豪快でスケールの大きな團十郎の鱶七は決定版であろうし、公家悪の極致とも言うべき左團次の入鹿も重厚な舞台を見せていたが、私には、淡々と優雅な求馬を演じていた芝翫のクラシカルな若殿ぶりや、淑やかで初々しい芝雀の橘姫の二人の演じたお互いの素性を明かしながらの愛のシーンは、錦絵のからくりを見ているようで面白かった。
   その芝翫が、今日から休演と言うことだが、私にとっては幸いであった。

(追記)富十郎さんが、急逝されたと言う訃報を朝のニュースで見て劇場に出かけたのだが、劇場にも訃報情報が掲示されていた。
あれほど、お元気だったので信じられない気持ちで、非常に残念で仕方がないが、ご冥福を心からお祈り申し上げたい。
   
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新しい年の経済の行方はどうなるのか

2011年01月03日 | 政治・経済・社会
   アメリカでは、経済回復と言われても、その実感はないし、経済成長したと言われても、多くのアメリカ人にとっては、その実生活が、少しも良くなってはいない。依然、失業率は高いし、住宅価格は下落一方で、国家財政は、更なるレイオフ、サービスの低下、増税と問題山積である。
   そんな書き出しで、ニューヨークタイムズの元旦号の論説 The Economy in 2011が始まり、袋小路に嵌り込んだようなアメリカ経済の実態を浮き彫りにしている。
   2011年の疑問は、成長が、大いなる繁栄に変わり得るのかどうかと言うことだと言うのである。

   また、クルーグマンもコラムで、たとえ、経済的な知恵を働かせて努力をしたとしても、依然、経済は、非常に深い穴の底に近づきつつあるにも拘わらず、経済指標の良さを好感してそれに逆らおうとしていると危機意識を表明したDeep Hole Economicsを書いている。
   先日、スティグリッツの公共投資拡大で景気浮揚をと言うニューズウイークの記事を取り上げたが、結局、アメリカ経済の回復力の弱いのは、アメリカ政府の中途半端な経済財政政策にあると言うことなのであろうか。

   このアメリカのどっちつかずの経済状況は、そっくり、日本にも当て嵌まることで、この失われた20年に経済成長があったと言われても、確かに、生活自身はそれなりに維持できてはいるが、少しも良くなっている実感はないし、ある意味では、地方の衰退や格差の拡大、そして福地厚生や性格不安など、むしろ、悪くなって居ると言う感じの方が強い。
   ITと金融のバブルが崩壊して、知識情報等付加価値の高い知的生産やサービスで富を築いて来た先進国経済が疲弊し後退してしまった今日、成長力の旺盛な新興国に経済的な比重が移りつつあり、グローバリゼーションの拡大で、主客転倒と言うか、日本の影が、益々薄くなって行く。
   そして、今や、企業の成長の最大の関心事は、新興国や或いは発展途上国の台頭しつつあるボリュームゾーンや、更に、BOPをターゲットとした拡大新戦略だと言うのであるから、日本市場には殆ど期待しなくなってしまったと言うことであろう。

   しかし、日本での生産物を輸出するのならいざ知らず、現今のような状態で事業の海外展開を進めるだけなら、資本や労働の海外移転であって、むしろ、経済的には多くの意味で脱漏であり、空洞化を促進するだけで、それ程、日本経済を利するとは思えない。
   確かに、斎藤精一郎教授の言うように、海外展開で得た利益を日本に持ち帰って、R&Dや製品開発、デザイン、グローバル経営管理など知的高付加価値事業に特化すべきだと言う経営戦略には傾聴すべきものがあるのだが、果たして、モノ作りを得意とする日本企業に、そのようなプロダクション・シェアリングが器用に出来るのであろうか。

   経済力の大きな先進国が、経済を再生するのなら、アメリカのITや、イギリスの金融などのように、ドラスティックなイノベーションを起こす以外に、殆ど方法はない。
   結局、私企業のイノベーションを喚起して、一大産業革命を興すことしかブレイクスルーはないと言うことである。
   しからば、日本にとっては、どのようなイノベーションがあるのか。
   問題は極めて複雑で困難だが、資源やエネルギー、環境、少子高齢化、健康医療福利厚生、と言った現実に見えている人類の緊急の課題を、もっとも最先端で経験している日本が、トータルシステムとして社会イノベーションを喚起することではないかと思っている。
   日本自身の経済社会問題を解決して、その上に、グローバルベースで、事業展開できるのであるから、一石二鳥ではなかろうか。
   新春の一寸した夢でもある。
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ニューズウイークの見る2011

2011年01月01日 | 政治・経済・社会
   私は、毎年、新年の世界を読み解くとするニューズウイーク日本語版の年末年始の新年合併号を読むことにしている。
   今年は、「勝ち組経済のカギ ISSUES 2011」のタイトルで、国家とビジネスの未来を左右するのは軍事力でも資源でもなく「借金を克服する力」だ、とする副題のついた特集である。
   冒頭の論文は、ダニエル・グロスの「借金を制する者が新世界を制する 原文のタイトルは The New Freedom "Borrowed trouble'isn't just an expression.」で、国際社会の新たな課題は巨大債務からの自由 これからは債務管理能力が経済力の指標になる」と問題提起をしている。

   デカップリングと言えば先進国と新興国の成長率が連動しないと言うニュアンスであったが、今や、デカップリング状態にあるのは、膨大な借金を抱える先進国と借金が少ない新興国だとして、ギリシャを筆頭に巨大な赤字と増え続ける債務に苦しむ欧米日の現状を説く。
   ギリシャの悲劇を避けるために先進国は必至であり、その苦境を成長著しい新興国が助けている形だが、問題は、世界第一の経済大国アメリカが、巨額の公的債務にどう対処するかで、世界の投資家が、これまでは驚くほど緩い条件で無条件で信用を拡大してきたが、どうなるかは、リーマン・ブラザーズやギリシャと同じで、全くあてには出来ないと言う。

   また、ベルリン支局長のシュテファン・タイルが、債務危機のピンチをチャンスに変えようと財政再建と抜本的改革が高まっていると、やや、明るいヨーロッパ諸国の試みについて報じているのだが、どうであろうか。
   要は、ヨーロッパ諸国の政府は、経済成長なしに借金の返済は有り得ず、市場の拡大なしに成長は望めないと言うことに気付き始めたと言うことだが、果たして、福祉国家政策を推し進め過ぎて成熟化して疲弊の極に達したヨーロッパ経済を、そう簡単に、復調させて成長軌道に乗せることなど出来るのであろうか。
   EUは、単一市場を実現して5億人の巨大な消費市場を成長の基礎にすると言う戦略を掲げて進んできたのだが、リーダーであるべき筈のドイツやフランスの過剰な国内規制や保護主義が障害となって有効に機能しないと言うことでもあり、構成国家とEUとの整合性など難しい問題にも呻吟しているようである。

   面白いのは、アメリカ経済を論ずるジョセフ・スティグリッツの「もっとカネを使って借金を減らそう The Way Out of DEBT? Spend, Spend, Spend」と言う論文で、国家債務、財政悪化などそっちのけで、「機能不全に陥っている現状を立て直すには公共投資に資金を注ぎ込むのが一番だ」と言う、全く、逆を行く威勢の良いケインジアン政策の提言である。
   危機こそチャンスだと言う論点は、どの論文も共通している視点なのだが、既に負債が山ほどあるとしても、高い収益率が望める事業計画を実現するために借金するのは良いことで、それによって財政状態は改善する。アメリカの場合には、取り組むべき大プロジェクトの数はとりわけ多くて、インフラの老朽化が進んでいる公共部門への投資は恰好なターゲットである。
   アメリカの民間部門の生産能力は大幅な過剰状態にあり、膨大な失業や遊休施設や満たされないニーズは、機能不全の証拠であり、このままでは、巨額債務の削減はさらに困難になる。FRBは、低金利政策や多額の流動性資金の注入など経済を悪化させることばかりしているが、今必要なのは、収益性の高い投資により多くのカネをつぎ込むことで、公共投資は短期的にも長期的にも、GDPと税収を間違いなく増加させ、一挙に財政収支を改善させることが出来る。この道を選択しなければ、過剰な生産能力に泣く日本経済病に、アメリカが今後何年も悩まされる可能性はどんどん増して行くとまで言うのである。

   このオバマ政権の財政出動の不足・不十分さについては、NYTのコラムでクルーグマンが論じていたので、このブログでも取り上げた。
   スティグリッツの説くほど、公共投資の相乗効果が高いとは思えないけれど、私自身は、実際のアメリカの耐用年数が過ぎて老朽化を極めた膨大なインフラの存在が、如何に、アメリカの経済社会にとって危機的な状態にあるかを感じて来ているので、特に、長期的には、膨大な公共投資は必須だと思っている。しかし、今回の中間選挙でねじれ現象に陥ってしまったのでオバマ政権が、スティグリッツ説を遂行出来る余地は非常に限られてしまっている。
   このスティグリッツ説には、アメリカ経済が大規模なオーバーホールを必要としていることと、まだ、成長余力のある経済的若さを保持していると言う点でアメリカ政府の財政出動を肯定するのであって、日本経済への更なる財政出動を提言するリチャード・クーの見解とは、大きく異なっていると言うことを付言して置きたい。

   以上は、このニューズウイーク誌の特集の走りだけだが、他に、欧米はアジアに学ぶべき時代、借金と低収入へのディフェンス、企業のカネ余りの罠、CEOの自信喪失、同族企業の好業績、ウォルマート、通貨戦争、金、アジアの膨張する消費熱、と興味深いトピックスが展開されていて非常に面白い。
   さて、日本の経済は、どうなるのであろうか。

(追記)写真は、新年最初に、わが庭を訪れたジョウビタキ。
   
   
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